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| 二号室は、犬山市教育委員会問題の関連記事が増えたので、三号室を開設した。 |
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| 春の運動会 |
我が家の目の前は小学校である。今週はいつもに比べて賑やかである。春の運動会に向けて、学年合同練習や、全校・全学年合同練習を行っているので、普段の体育の授業とは大違い。一年生はオロオロしつつ上級生の動作に合わせているから、なかなか綺麗には決まらない。最初は優しく指導している先生も、だんだん口調が厳しくなる。パフォーマンスの練習では、なかなか音楽に合わない。パートナーを組む上級生は大変である。直接練習を見るわけではないが、スピーカーから流れてくる先生の声と口調から内心イライラしていることが読みとれる。練習は天気が良ければ、明日もあるだろう。予定は5月24日の土曜日、雨天の場合は予備日は、5月27日の火曜日である。当日は、我が家の前の消防車用の門も臨時に開かれ、父兄の自転車置き場への入口となる。当日は、車での外出は控えようと思う。
夕方になり雲が広がってきた。土曜の天気はどうなるやら。週休2日の所も多いから、出来れば天気になってほしいと思う。そうなれば多くの父兄が見物に来るから賑やかになろう。火曜日だと、なかなかお父さんは休めないものね。やはり土曜日に実施するのが望ましい。
(2008.5.22) |
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| 代休 |
今日の小学校は静かである。土曜日の運動会は、途中から雨が降って尻切れトンボであったが、何とか昼食にこぎ着け、午後の部も少し早めにスタート。しかし、終了予定時間まで一時間のところで雨が降ってきた。半日以上出来たので、運動会は成立。土曜日は、天気予報では朝から雨の見込みだったので、半日余よく持ちこたえたと思う。結果、月曜日が代休となったのである。今日は静かな中で資料の整理が出来た。明日から、いつもの賑やかさが戻ってくる。
(2008.5.26) |
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| 北京オリンピック |
オリンピックも前半戦を終え、中盤戦を経て後半戦に突入している。8月21日夜の時点で24個のメダルを獲得(金9個、銀6個、銅9個)。その中には、夜に開催(日本時間)された女子のソフトボールの金も含まれている。女子のソフトボールは、準決勝・三位決定戦、決勝と驚異の三連投を果たした上野投手の活躍も大きかった。女子ソフトボールは、今大会が一区切りになるということで、アメリカの四連覇阻止、そして有終の金メダルということになる。女子のサッカーは、強豪ドイツに敗れ、なでしこジャパンは、惜しくも銅メダルを逃した。しかし、ベスト4は、十分頑張ったと思う。卓球の福原愛も4回戦で敗れたが、相手は世界チャンピオン。その相手から一セット奪取。最後のセットも健闘した。悪意のあるヤジもなく、中国の観客からも声援があったと伝えられている。北島選手と福原選手は、中国でも特別な存在のようだ。福原選手のオリンピックは終わったが、悔しい顔より爽やかな表情が目立った。次のオリンピックに向けて、福原選手なりの手応えを得たのであろう。敗れはしたが、中国メディアから取材を受け、丁寧に中国語で受け答えしていたと伝えられる。試合以外でも、日中友好親善に少なからず寄与している。
前半戦を振り返れば、下馬評・前評判の高い競技で波乱があった。男子柔道は、内柴選手が連覇、石井選手が金メダルだが、メダル候補が初戦敗退などで、メダル数は前回を下回った。女子は、谷選手は準決勝の微妙な指導で敗退、連覇は逃したが、それでも銅メダルを獲得し、五体会連続のメダル獲得を達成した。谷本歩実選手(63キロ)、上野雅恵選手(70キロ)が連覇達成した。78キロ超級の塚田真希選手は、連覇は逃したが銀メダル。女子レスリングは、吉田選手と伊調(妹)選手が連覇達成、伊調(姉)が二大会連続の銀メダル、浜口京子が二大会連続の銅メダル。水泳男子競泳は、北島康介が平泳ぎ百メートル・二百メートルで二冠二連覇を達成、メドレーリレーでは二大会連続の銅メダルを獲得した。体操の団体は金メダルは逃したが、銀メダルを獲得、個人総合では内村航平が大逆転で銀メダルを獲得、男子のフェンシングでは、太田雄貴が日本フェンシング史上初の銀メダルを獲得した。反面、ハンマー投げの室伏選手が連覇を逃し、メダル獲得もならなかった。女子マラソンは、野口選手が出場断念、土佐選手が途中棄権、中村選手が入賞を逃し惨敗という結果となった。今後、選手選考や大会直前のトレーニングについて再検討がせまられよう。残りの競技で注目するのは野球である。金メダルを獲得するのかメダル無しに終わるのか。その前に難敵の韓国に勝利しなければならない。
(2008.8.22) |
星野ジャパンは、韓国に敗れ金メダル獲得の夢は敗れた。韓国の日本に対する意地に負けたとも云える。WBCの再現は許すまじという気迫はすごい。日本の金メダル阻止という強烈な意志に気圧された感じは否めない。そして今日、銅メダルをかけてアメリカと対戦したが、日本はアメリカのプライドの前に敗れ去った。野球王国アメリカがメダルを逃すことは屈辱的なこと。メジャーリーガーが出場できないアメリカは、それでもメダル獲得を逃すことは許されない。WBCで初代チャンピオンに成れなかったアメリカにとってオリンピック最後の野球で、メダル無しは避けたいところ。結果は銅メダル獲得でなんとか面目は保った。ニュース映像で見る日本は、相手方に比べ迫力がなかった。特に韓国戦では、4番打者の気合いは凄い。4番目の打者ではなく、主砲である。それと巨人の季選手も、全力で日本をうち砕いた。巨人の選手にとっては複雑であろうが、国の代表とはそういうもの。対して日本は、国内と同様の実力を発揮できずに終わった。審判のレベルの問題はあるが、それは各国とも同じ。プロと云えども、国を代表するというプレッシャーは重いものがある。監督の気合いだけで勝てるものではない。オリンピックはこれで一旦終わった。将来の野球復活までリベンジは出来ない。意地を見せるには、WBCの連覇しかあるまい。それはともかく、お疲れさまと云いたい。明日の新聞に星野ジャパンがどう書かれるか気になるが、既に終わった話。選手には残りのペナントレースが待っている。
野球はメダル無しという結果だが、男子の四百メートルリレーでは奇跡がおきた。予選でイギリス、アメリカがミスから敗退。予選三位で通過した日本は、決勝でトラック日本男子初の銅メダルを獲得した。アンカーの朝原選手には、恐らく最後の五輪。ラッキーと云えばそう云えるが、地道なバトン練習をこなし、走りでは厳しいがバトン技術でロスを埋める努力をしたことが決勝進出、銅メダル獲得に繋がった。リレーは走りとバトン二つの要素が完全融合して成立する。今回走りで劣るところをバトンで埋めた。アメリカのミスはバトンにあったという。地道な努力が奇跡を生んだと云えよう。選手にとっては金にも匹敵のの銅メダルと云えよう。
(2008.8.23) |
星野ジャパンがメダルを逃し、新聞やネットには、批判の記事が流れている。結果からすれば仕方がないこと。審判の問題はあっても、それは相手も同じ。中日新聞でも「気迫の差」と指摘している。しかし、名前は伏せられているが、JOC幹部の発言はいただけない。「プロなんだから勝ってもらわないと。大会前にちょこちょこって集まって、ちょこちょこっと練習して、試合をすればいいや、って感じで来たんだろ。それがこの結果。ソフトボールの試合をみて、感じるものはなかったんだろうか」という発言は、いかがなものか。ソフトの試合の部分は、気迫という点では頷けるが、代表チームを送り込んだのはJOC。ナショナルチーム結成から、国内練習までどれだけ尽力したのか?国内での練習試合も充分でない。実際のチーム編成はオールスターの後。日本は、国内では独自の球を使用するが、韓国などは早くから国際球の対策も進めている。諸々準備不足の側面もある。試合をするのは選手だが、事前の情報収集やバックアップは、野球連盟やオリンピック委員会の仕事ではないのか? 大体オリンピック委員会は、どれだけ各競技の選手の支援をしているのか。中には選手個人がスポンサーを捜して、練習活動の資金を得たり、出身チームのコーチの全面協力でオリンピックに臨んでいる。或いは身内が私財をはたいて選手の活動を支えているのが現状。そういう反省もすべきではないのか。中国やロシアなどは国家プロジェクトで選手の発掘・育成・支援している。その他の国でも、選手が活動資金確保のためにプロ化も黙認、或いは承認している。プロチームを利用するなら、細かな連携も必要であろう。ろくに支援せずに責任だけ押しつけるのは卑劣であろう。そんな幹部なら名前を公表すべきだ。
少なくとも、大した支援もしていないJOCにメダルを逃した各競技チームを批判する資格はない。
中国はシンクロのチームで銅メタルを獲得した。デュエットは銅メダルを逃したが日本の驚異となっている。中国は意地とか面子より、北京オリンピックでのメダル獲得の為、日本人の井村コーチを招聘した。中国のオリンピック委員会や関係の協会は、出来る努力はしているのである。そういうところは素直に学ぶべきではないのか。星野ジャパンの敗北は、第二回WBCで連覇を目指す日本には貴重な教訓となろう。結果は残念だったが、お疲れさまといいたい。その上でWBCに向けての早期の対策と代表監督・体表チームの編成、練習試合のスケジュールの作成が必要であろう。
(2008.8.24)
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| 2009年1月始業式 |
2009年1月7日、我が家の目の前の小学校も始業式。いつもの日常が戻ってきた。2009年は、昨年以上に厳しい経済情勢。それでも日本の子供は、平和な時間の中で三学期を迎える。一方パレスチナでは、ガザ市近郊の難民キャンプで国連パレスチナ難民救済事業機関が運営する国連学校をイスラエル軍が砲撃し、40人が死亡、負傷者が数10人に及ぶと云う。子供の学ぶ学校を攻撃するというのは無差別攻撃である。生き残った子供がイスラエルに憎しみを抱くのも当然。つまりイスラエルは、自らハマスの戦士を生み出しているのである。イスラエルの行動は、普通のパレスチナ人をテロリストに変貌させることを促進する以外の何ものでもない。本来ならアメリカは、イスラエルの暴走を止めるべきだが、止めるどころか容認していた。見かねてエジプトなどが仲介に乗り出したが、うまく収まるかはアメリカの協力次第だろう。本来ならアメリカは国連安保理で停戦決議を行いイスラエルに自重を促すべきであった。イギリスやフランスも積極的に仲介すべき。パレスチナ紛争の責任は、イギリスやフランスの二枚舌外交・三枚舌外交の結果である。イスラエル人にとっては祖国再興だが、近代・現代のパレスチナ人にとっては、イスラエルは侵略者という背景を見落としてはならない。かの地の子供たちが安心して始業式を迎えられるのは何時のことであろうか?
(2009.1.7) |
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| 2010年春の訪れ入学式&始業式 |
我が家の前は小学校。春の訪れと共に桜が満開となる。一昨日は入学式。天気は晴れで桜もほぼ満開。絶好の入学式日より。昨日は始業式。今日から小学校も日常が復活。今日は晴天。桜もまだ持ちこたえている。二日持てば週末は花見日より。隣町(大口町)の五条川も今が見頃。堀尾公園や農協の倉庫周辺には屋台も出る。岩倉市の五条川周辺も地元放送局の番組やニュースで紹介されるが、この時期は大口町の五条川も結構賑わう。我が町扶桑町でも、木曽川の堤防の桜も結構知られている。我が家はわざわざ出かけることなく、窓から小学校の桜を眺めて毎年春の訪れを実感する。問題はこれからで、ピークを過ぎて強風が吹くと我が家は桜吹雪に見舞われる。掃除が大変と母はぼやくがこれも我が家の春の風物詩。先週まで静かだった小学校もこれから賑やかになる。新しい年度が始まったことを実感した。
(2010.4.8) |
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| 2010年猛暑列島 |
梅雨が明けたらいきなりの猛暑。昨日(7/22)は全国の猛暑ベストテンが東海地方に集中していた。トップは勿論多治見市だが、愛知県も結構暑かった。わが扶桑家系研究所は木造家屋の二階にあり、午後は西日が照りつける。通常は除湿で暑さをしのぐが、全然役立たず久しぶりに冷房に切り替えたが3時頃には室温三十三度、外気温三十七度(エアコンのセンサー表示)。室内の寒暖計は三十五度に肉薄していた。夜になっても除湿に戻せず冷房のままだが、なかなか室内温度が三十度を割らず、タイマーをセットして寝たが切れたら暑さで目が覚めた。再度冷房運転したが、寝付けない。うとうとしていたら五時。寝不足このうえない。当然汗だく。多治見では39.4度、名古屋でも七月としては三年ぶりの38度。大汗で痩せる気分だが、その実、お茶やジュースなどの水分補給で水太り(本当はただの「おでぶ」だが・・・・)。8月に入る前から夏バテしそう。各地では多くの方が病院搬送。死者も出ている。こまめに水分補給して熱中症に注意しよう。今日も暑くなりそう。室内にいても油断は禁物。
(2010.7.23) |
7月27日の中日新聞朝刊によれば、19日から25日までの一週間に熱中症で搬送された人は9,436人。直後死亡は57人(入院後の死亡も含めれば、実態は数倍に上る可能性がある)、重症は492人になるという。岐阜県多治見市では5日連続の全国一位の猛暑だった。NHK名古屋の昨日夜7時前の気象情報によると、7月の連続猛暑は68年ぶりの記録らしい。愛知県も結構暑い。午後からは二階はほとんどエアコンがきかず室内温度は28度超え。こまめに給水しないとダウンしそう。屋内にいても発症する。睡眠中にも発症する。睡眠前の給水も欠かせない。
(2010.7.28) |
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| 最悪の誕生日 |
| 5月2日は、私の誕生日。しかし、私にとっては忘れがたい最悪の誕生日となった。 |
| 5月2日、私の誕生日に、「天」から送られたのは、「母の死」であった。何という皮肉。なんという巡り合わせ。 |
3月18日(金曜日)、朝行きつけの内科へ行き、帰りに外科によってリハビリで医者のダブルヘッターといって自転車で出かけた母から電話がかかってきた。目の具合が悪いので、医師から紹介状を書くから直ぐに検査を受けるように云われたとの電話。暫くすると二軒目の医者には行かず家に戻ってきた。直ぐに隣町の病院へ行く。行き先は眼科ではなく神経外科。「うん?」目の病気のはずが何故と思った。問診を受け、直ぐにMRI検査となった。診察室に戻ると直ぐに呼ばれた。種類は不明だが脳腫瘍の可能性があるという。多少の知識はあったので愕然とした。ただ幾つかの種類があり、手術がトラブル無く成功すれば社会復帰が可能なケースもあるので一縷の希望を抱いた。翌日もう少し正確に調べるために造影剤を投与したMRI検査を行うという。翌日(3/19)再び病院に連れて行った。結果は、脳腫瘍の中の髄膜種。ただし脳の中央に近い部分に不鮮明な影があり、別の種類のもの或いは変異体の可能性も指摘された。結果は早期にオペした方が良いということで術前の検査入院となった(3/23〜3/25)。そのまま引き続き入院も可能だが、長期化の懸念もあり、とりあえず退院して3月29日に再入院となった。追加検査を経て、3月31日に十時間以上に及ぶ大手術となった。最悪の場合途中で中止という懸念もあったが、とりあえず予定通り行われ無事終了した。弟と甥と三人で待合室で待機。途中叔母も駆けつけ数時間いたが疲れるので帰ってもらった。そのまま集中治療室に直行。暫くして面会を許された。症状は安定していたので一安心。数日後、個室に移動した。右側は術後の影響か、まだ感覚が麻痺していたようだが、左腕はしきりに動かしていた。叔母が見舞いに来ると会話は成立していなかったが、何か昔の記憶で話しかけていた。言語も運動機能も時間を掛ければ回復するという印象だった。しかし、四人部屋に移ってから様子が急変、流動食も受け付けず再び点滴となった。この段階で水頭症を発症した可能性がある。4月23日午後、髄液抜き取りのため頭頂に簡易オペを行い排出用の管を挿入する。再び個室に移り監視看護となる。5月2日夕方病院に行く。少し反応が鈍くなっていた。微妙な状況だが、早くても夜中、或いは翌日早朝がデッドラインという予想で一端帰宅、夕食後仮眠をとる予定だったが、仮眠直前に病院より電話がかかる。直ぐに病院に向かった。到着直前に絶命した。心臓停止より前に脳幹と中脳が機能停止。いわば脳死に近い状態。私が到着して主従医がマスクを外し死亡を宣告する。弟と母の一番下の叔母が駆けつける。5月2日午後8時20分。母は永眠した。78歳と10ヶ月。享年は80歳となる。私の誕生日のプレゼントが「母の死」とは何とも皮肉な天の采配。しかし、見方によっては、絶対に忘れて欲しくないという、母の最後の意思なのかも知れない。この間、母のオペの翌日、伯父(母の兄)が危篤となり、翌日早朝に亡くなった。母が集中治療室に入っている間に、伯父の通夜・葬儀・告別式が行われた。一ヶ月後に、伯父の後を追うように母が逝った。何とも激動の一ヶ月であった。5月2日午後11時に自宅へ入れた。やはり一度は自宅へ帰したいという弟と私の共通の思いで家に入れた。夜中なので近所への告知は翌朝となる。二晩母は自宅で過ごす。弟と甥と三人で線香とろうそくの火を絶やすことなく見守る。交代で仮眠をとるが熟睡は出来ない。翌日(5/3)は自宅で仮通夜。早朝より近所の方が我が家を訪れ、枕経に加わってくれた。4日夕方通夜、5日昼に葬儀・告別式。連休中にも関わらず隣組の半数が取り持ちとして葬儀を支えてくれた。ここが田舎の良いところ。今年は若い班長さんなので、前年の班長さんも全面協力して支えてくれた。人の情を痛感する。
今回は母の生前からの要望で、父の時よりはコンパクトにということで、母の友人には連絡したが、私も弟も、同年者会や友人・知人には告知せず、親族・近所・母の友人と、父の葬儀よりはコンパクトな葬儀となった。そうは云っても、田舎なので人づてに聞いて参列された方もいる。息子としては素直にありがたいと思った。こういうことは記すべきではないかも知れぬが、母の記録の一部を留めておきたいという思いで記す。父親の時にはそうでもなかったが、母親に対しては言葉に出来ない思いもあり、最後の挨拶では泣きそうになったが必死でお礼の挨拶を述べた。横で弟のすすり泣きが聞こえ、こらえるのに必死。何とか挨拶を締めくくることが出来た。これから暫くは後始末に追われる。不肖の息子の最後の孝行。
(2011.5.11) |
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| 一周忌 |
5月2日は母の命日。一周忌。ゴールデンウィークに突入するので昨日(4/29)一周忌追善供養を挙行した。近しい親戚にも参列いただき、自宅にて法要、墓参り、お寺参りの後、四十九日と同じ食事処で昼食・懇親会。四十九日の法要に比べたら「こぢんまり」した法要となった。先月は伯父(母の長兄)の一周忌。母方の親戚にとっては二ヶ月連続の法事となった。叔母の嫁ぎ先の旦那(故人)の妹の旦那も亡くなり四十九日が迫っているらしい。又、従兄妹の夫の親も昨年亡くなり喪中期間。当家とは直接関係ないが、親戚の関係も含めると昨年は葬式の当たり年という感じ。母の友人の夫も昨年亡くなり、何かと葬儀・法要が続いた一年であった。振り返ってみれば慌ただしい一年だったが、未だに後始末が終わらない。とは云え分骨も無事に納骨を済ませとりあえず一山は越した。来年の三回忌を無事に終わらせれば、息子としての最低限の努めは果たすことが出来るのではないかと思う。明日からは、三回忌に向け歩み出すことになる。そして残りの後始末もぼちぼち行うことになろう。一年たっても今だ感傷に浸る余裕はない。まぁゆっくりやるしかあるまい。
(2012.4.30) |
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