扶桑家系研究所 リポート9 
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南朝北畠氏一族の系譜
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『異聞歴史館』の二大テーマは、皇位継承・南朝と武家の系譜の研究だが、どちらのテーマにも関係するのが、村上源氏久我家傍系中院家分家筋の北畠一族である。南朝及び後南朝の重鎮であったが、小倉宮を擁立して南朝再興の為に挙兵するが目的を達せず、やがて室町幕府の軍門に降るが、伊勢國司の地位を維持し、後に國司大名となって戦国時代に至るが、織田信長により宗家乗っ取り(信長の息子、後の織田信雄が養子に入る)。やがて前当主は謀殺され、大名北畠氏本家は滅亡する。鎌倉末期から南北朝時代には、北畠親房の子の北畠顕家の遺児らが、東北南朝の中核となり、東北北畠の本流は浪岡御所と呼ばれた。こちらも戦国時代まで系譜を伝えるが、津軽氏により浪岡本家は滅亡に追い込まれた。
このページでは、伊勢北畠家一門と東北北畠家(浪岡御所一門)の系譜を紹介する。
最初に北畠家の始祖である北畠雅家と北畠四代の基本データーを紹介しよう。
 
北畠雅家の叙任などに関する確認(中田作成系図に関する疑問)。
  (従二位、中納言、正二位の叙任時期)(生没年、年齢)
(参考)(「諸系譜」)【比較資料】『尊卑分脈』、『系譜纂要』、『新訂寛政重修諸家譜』、『伊勢北畠一族』、『日本史諸系図人名辞典』
西暦(和暦) 数え 北畠雅家(1215〜1275) ※ 異説あり。 
1210(承元4年) 北畠雅家誕生(『系図纂要』1268年、59歳没から算定)。* 死亡年齢誤記か?
1214(建保2年)  
1215(建保3年) 北畠雅家誕生(『系図纂要』1268年、54歳出家から算定)。
1215(建保3年) 北畠雅家誕生(『寛政重修諸家譜』1275年=建治1年、61歳から算定)。
1215(建保3年) 北畠雅家誕生(『諸系譜』文永11年=1274年、60歳から算定)(『伊勢北畠一族』も同じ)。
1215(建保3年) 北畠雅家誕生(『日本史諸家系図人名辞典』)。
1219(承久1年)  
1221(承久3年) 承久の変。京都方敗れ、後鳥羽上皇など三上皇が配流。
1235(嘉禎1年) 21 20  
1247(宝治1年) 33 32 5月、三浦氏の乱(宝治合戦)。12月8日、三木頭右中将。(『系図纂要』)
1247(宝治1年) 33 32 正四位下参議(33歳)(『伊勢北畠一族』P.55)。
1248(宝治2年) 34 33 正月7日、従三位。正月23日、備後権守(『系図纂要』)。
1248(宝治2年) 34 33 正月7日、従三位に叙し、中将に任ず。23日、備後権守兼(『寛政重修諸家譜』)。
1249(建長1年) 35 34  
1250(建長2年) 36 35 10月24日、正三(正三位)叙(『系図纂要』)。
1251(建長3年) 37 36 3月22日、従二位に叙し、美作権守に任ず(『寛政重修諸家譜』)。
1252(建長4年) 38 37 11月13日、権中納言(『系図纂要』)。
1255(建長7年) 41 40  
1256(康元1年) 42 41 4月5日、雅家正二位に叙任(『系図纂要』)。
1259(正元1年) 45 44  
1260(正元2年) 46 45 3月29日、権大納言(『諸系譜』)。
1260(文応1年) 46 45 3月29日、権大納言(『系図纂要』)。
1261(弘長1年) 47 46 10月29日、正二位と皇后宮大夫兼任叙任(『諸系譜』)。
1261(弘長1年) 47 46 10月25日、皇后宮大夫(『系図纂要』)。
1261(弘長1年) 47 46 10月25日、皇后大夫を兼(『寛政重修諸家譜』)。
1262(弘長2年) 48 47 正二位権大納言辞官(48歳)(『伊勢北畠一族』P.55)。
1268(文永5年) 54 53 10月5日、雅家出家(54歳)(『系図纂要』)(『諸系譜』)。(※ 1215年生)
1268(文永5年) 54 53 10月5日、雅家出家(『尊卑分脈』)。※ 年齢は不記載。
1268(文永5年) 54 53 11月3日、雅家薨(59歳)(『尊卑分脈』)。※ 59歳なら、文永10年の没年誤記か?(※ 1210年生)
1268(文永5年) 54 53 11月3日、雅家薨(59歳)(『系図纂要』、『宮中公家系図集覧』)。(※ 1210年生) ★ 死亡は誤記か?
1268(文永5年) 54 53 10月、後嵯峨院御飾を落としたまふにより出家す(『寛政重修諸家譜』)。(※ 54歳)
1272(文永9年) 58 57  
1273(文永10年) 59 58 雅家の没年齢が59歳の場合。(1215年生まれとすると)
1274(文永11年) 60 59 3月22日、北畠雅家薨ず(60歳)(『諸系譜』)。(※ 1215年生)
1274(文永11年) 60 59 雅家死去(60歳)。(『伊勢北畠一族』P.56の比較年表)
1275(文永12年) 61 60 3月27日、北畠雅家死去(61歳)(法名.如覚)(『日本史諸家系図人名辞典』)。
1275(建治1年) 61 60 3月27日、北畠雅家卒す(61歳)(『寛政重修諸家譜』)。(※ 1215生)
 
北畠雅家(きたばたけ・まさいえ) 1215〜1275 建保3年■月■生 文永12年3月27日死去 61 『日本史諸家系図人名辞典』
北畠雅家(文永5年10月5日出家) 1210〜1268 承元4年? 文永5年11月3日薨。 59 『尊卑分脈』この没年は誤り?
北畠師親(きたばたけ・もろちか) 1241〜1315 仁治2年■月■日生 正和4年10月5日死去。 75 『日本史諸家系図人名辞典』
北畠師親 1244〜1315   正和4年■月■日死去。 72 『伊勢北畠一族』
北畠師親 1241〜1315 仁治2年■月■日生 正和4年10月6日薨。 75 『系図纂要』
北畠師親 1245〜1305   嘉元3年9月27日卒。 61 『寛政重修諸家譜』
北畠師親 1241〜1315 仁治2年 正和4年10月6日薨。 75 『諸系譜』
北畠師重(きたばたけ・もろしげ) 1270〜1322 文永7年■月■日生 元亨2年1月13日死去。 53 『日本史諸家系図人名辞典』
北畠師重 1270〜1322 文永7年 元亨2年■月■日死去。 53 『伊勢北畠一族』
北畠師重 1270〜1322 文永7年■月■日生 元亨2年1月13日薨。 53 『系図纂要』
北畠師重 1270〜1322 文永7年 元亨2年1月13日卒。 53 『寛政重修諸家譜』
北畠師重(徳治2年7月出家28歳) 1280〜1322 元亨2年1月13日薨。 『尊卑分脈』(43歳)
北畠師重 1270〜1322 文永7年 元亨2年1月13日薨。 53 『諸系譜』
北畠親房(きたばたけ・ちかふさ) 1293〜1354 正応6年1月■日生 正平9年4月17日死去。 62 『日本史諸家系図人名辞典』
      (北朝年号.文和3年)    
北畠親房 1293〜1354 ■月■日 正平9年4月17日死去。 62 『伊勢北畠一族』
北畠親房 1293〜1359 永仁1年1月13日生 正平14年4月18日薨。 67 『系図纂要』
北畠親房    生年不記載 没年不記載 『寛政重修諸家譜』
北畠親房 1293〜1359   正平14年4月18日薨。 67 『諸系譜』
北畠家は公家出身だが、生没年など、歴代の記録が各資料一致せず。南朝に加担したので、正確な記録を紛失したか?
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『北畠氏一族系図(1−1)』
北畠氏一族系図(1−1)
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『北畠氏一族系図(1−2)』
 
北畠氏一族系図(1−2)
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『北畠氏一族系図(2−1)』
 
北畠氏一族系図(2−1)
 
ここまでは『尊卑分脈』、『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、『群書系図部集』などいわゆる基本系図を紹介し、その違いを見てもらった。今後は、私撰系譜(たとえば、国立国会図書館・蔵の「中田憲信編纂系譜」なども出来る範囲で紹介する。詳細は、日本歴史研究所の木村氏が私家版で、中田の関係の復刻版を刊行[平成20年11月]されたのでそちらを参考にして下さい。当方は判読部分の概略のみです。ただし、木村氏の著書と、当方とすべての見解が一致するわけではない)・地元資料で入手できたものに関しては参考資料として紹介するものもある。ただし、あまりに通説や基本研究と食い違うものは、信憑性も勘案して除外する。特に「尊卑分脈」、江戸時代に関しては「寛政重修諸家譜」と乖離性の高いものは、疑問符をつけておく。「系図纂要」には疑問の余地がある系譜もあるが、一応の参考とする。以後は、資料が整理できたものから暫時紹介する。
(2008.6.17) 他の系譜も追跡しているので、中休みもあるので了解願いたい。
(2008.11.28.補筆修正)
北畠復刻版は、『系図で眺める南朝北畠一族の興亡』(税抜き価格 11,000円)で11月刊行。詳細は、日本歴史研究所にお尋ね下さい。異聞歴史館サイト集の日本歴史研究所から同ホームページへもアクセス出来ます(日本歴史研究所のページとは相互リンクしています)(2008.11.28現在)。
木村氏は、多くの南朝関連本も刊行されています(当方と異なる見解もありますが、鈴木真年、中田憲信の編纂系図を復刻されているので、注目すべき情報も含まれています)。注文等は、直接お尋ね下さい。
(2008.11.28)
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『北畠氏一族系図(大河内家)』
 
北畠氏一族系図(大河内家)
 
大河内家は、伊勢国司家とは、養子縁組を繰り返し、国司家と一体化している。大河内家本流は、伊勢国司家(伊勢北畠氏宗家)滅亡の時、織田家により滅亡に追い込まれた。系譜上の庶流(一説、国司北畠氏庶流)としては、星合家がある。子孫は徳川家に仕え幕臣となる(『寛政重修諸家譜』参照)。大河内具房(星合具種)は、後に坂内家を継承し、坂内具祐と称す。星合家は、教房が継承する。従来、星合具種は、大河内頼房(星合親泰)の子供とされていたが、『伊勢国司北畠氏の研究』では、北畠材親の子供で、大河内頼房の弟という説も紹介している。更に、大河内頼房は、北畠政郷の子供で、大河内親忠の弟とされているが、北畠政郷の没年と、大河内頼房の生年から、親子関係は微妙、或いは否定する説が浮上している。そういう点からー見れば、北畠政郷の息子より、一世代下がって孫とする方が無理がない。今後の北畠研究家の研究に期待しよう。
(2008.7.17)
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『北畠氏一族系図(坂内家)』
 
北畠氏一族(坂内家)
 
坂内家は、系譜上は、木造家の分家と云えるが、大河内家や国司家と養子縁組をしているので、血統的には伊勢国司家の一門に近い。本流は、伊勢国司家没落の時、織田家の謀略で滅亡した。
(2008.7.18)
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北畠氏一族系図(星合家1)
 
北畠氏一族系図(星合家1)
 
星合家は、系譜上大河内家の分家のように位置付けられているが、実際には、星合親泰は、大河内家継承前に星合城主になっていたと思われるので、北畠本家から分家したと推定される。その後、親忠の出家により大河内家を継承した(大河内頼房)。星合家は、子供の具房が継承(星合具種)した。ところで、従来親忠と頼房は兄弟と考えられていたが、父の政郷が、1508年に没しているのに対し、頼房の生年は、1508年説と1510年説が先達の研究により確認されるので、そうなると親子関係は微妙か、或いは不成立となる。頼房は一世代下がって、材親(具方)の子供、即ち、政郷の孫に位置付けた方が無理がない。次に問題なのが、頼房と具種の関係である。養子或いは猶子として親子関係なのは各種系図から判定できるが、実は兄弟という説が、『伊勢国司北畠氏の研究』の略系譜に記されている。この略系図では、星合具種は坂内具祐と記している(同書 P.4 北畠氏系図参照)。但し、大河内頼房を星合家初代とする点については否定している(小林 秀氏の論考)。その部分は入手のコピーには記されていないので詳細はよく分からない。初代でない場合は、既に存在した星合家を継承したという事になるが、基本系図では各種系図を見ても、そこまでは読みとれない。従って各種系図が、星合家を大河内家の分家として扱うことも的はずれとは云えない。このあたりは、大河内・星合・坂内と北畠本家の関係は複雑に交錯している。今後の北畠氏研究家の解明に期待したい。
(2008.7.25)
 『寛政重修諸家譜』では、星合に新城を築城し初代城主となり、星合と号すと記す(星合家2に続く)。
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『北畠氏一族系図(星合家2)』
 
北畠氏一族系図(星合家2)
 
大河内頼房と星合具種は、系譜上は親子となるが、実際は、兄弟の可能性が高い。具種の子供の教房の生年から推定すると、頼房と具種は、ほぼ同時代の人と推定される。従って、北畠政郷と大河内頼房の親子関係も、頼房の生年からは微妙な関係であり、一世代下がり材親の子供と位置付けておく。星合家は、教房で一旦断絶するが、具種が存命であったので、孫を養子として、名跡継承させ、子孫は幕臣となる。
(2008.7.28)
 
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『北畠氏(伊勢北畠家)』
 
北畠氏(伊勢北畠家)系図
 
この系図は、伊勢北畠家の基本系図である。概ね各資料と重なる。今後の系図比較の参考になろう。
(2008.9.6) 
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『伊勢北畠氏』
 
伊勢北畠氏系図
 
伊勢の北畠氏の系譜は、諸説あるが、ここに掲載のものは、それらを考慮して編集されているが、戦国期の部分に食い違いが著しい。欠落や誤記、どの時期の名前を採用したかで食い違いが生じている。但し本家の基本部分は共通しており、先の『北畠氏(伊勢北畠氏)』系図と併せると、本家部分に関しては、一致する。歴代各当主の兄弟や、分家創設者の位置関係に多少の食い違いはあるが(田丸家)、『尊卑分脈』、『系譜纂要』、『群書系図部集』、『寛政重修諸家譜』と重なる部分は、信用してもよかろう。傍系に関しては、多少所伝の食い違いもある。幕臣になった家系については、『寛政系譜』を基準に考える(一部改竄の可能性はあるが、一応、戦国末期以降の部分は、江戸時代の公式系図と位置付けられるので)。前記掲載の各基本系図と併せてご覧下さい。
(2008.9.8)
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村上源氏北畠氏一族』
 
村上源氏北畠氏一族系図
 
ここで紹介の系図は、前記のいずれかの基本系図をベースに構成されている。従って大枠に於いては共通する系図という事になる。ただ北畠の各種系図は、細部で名前の異なるものもある。どの時期の名前をメインとして採用したかの違いもあろう。各種資料の北畠系図は、一部に食い違いもあり、慎重な検討が必要であろう。
(2008.10.2)
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『伊勢北畠一族』
 
伊勢北畠一族系図
 
『伊勢北畠一族(新人物往来社)』では、木造俊泰(俊康)と俊茂の間を四代略と記す。他の系譜では、この間は、持康・教親・政宗の三代を記す。他に不明の人物がいるのであろうか? 著者の加地氏は、関西学院大学教授だが、系譜は専門外なのか、比較検証されていないかも知れない。『尊卑分脈』、『系図纂要』、『群書系図部集』では、三代しか確認できず。一応、加地氏が掲載した略系図に従う。
詳細は、異聞歴史館に紹介の各種系図をご覧下さい。
(2008.10.19)
 
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『伊勢北畠氏略系図』
 
伊勢北畠氏略系図
 
伊勢北畠氏の系図は、戦国末期の部分は混乱あり。戦国大名北畠氏が、具教の代で事実上滅亡したことが原因。織田信雄の養父が誰かということも明確でない。形式上は、北畠具房が養父かと思われる。伊勢北畠氏の名跡は、信雄が織田家に復籍して消滅するが、同族の親顕が、具房の名跡を復活継承するが、嗣子がなく江戸時代に断絶する。前記各系図も参照下さい。
(2008.11.16)
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『北畠氏一族系図(2−2)』
 
北畠氏一族系図(2−2)
 
伊勢の北畠氏は、多藝御所とも呼ばれた。細部では各種系図で食い違いもあるが、歴代については、具教までの歴代は、一部表記の違いはあるが同一人物なので一致している。ただ織田家から養子に入った信雄(北畠具豊)が、具教の養子か、具房の養子かが判然としない。家督についても不明瞭。
信雄は、後に北畠姓を捨て、織田姓に復帰し、北畠家宗家は一時消滅。後に親顕が名跡継承して復活するが断絶したことは、前の項目に記した。庶流の一部は江戸時代に幕臣として存続した。
(2009.1.12)
 
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『北畠氏一族系図(2−3)』
 
北畠氏一族系図(2−3)
 
北畠氏の没落で、庶流各家も没落する中、星合家は、徳川家に仕え幕臣となる。北畠氏一族系図(星合家1)及び北畠氏一族系図(星合家2)もご覧下さい。
(2009.1.28)
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『北畠氏一族(3−1)』
 
北畠氏一族系図(3−1)(潮田家、佐田家)
 
『尊卑分脈』、『系図纂要』、『群書系図部集』などの主要系図では確認出来ないが、地元の史家が発掘したものである。佐田系図は異説もあり疑問な点もある。潮田家分家の末裔は赤穂浅野家に仕え、又之丞(潮田高教)は、吉良邸襲撃に加わり、元禄16年切腹を賜る。北畠氏一族(3−5)(北畠庶流)もご覧下さい。
(2009.2.8)
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『北畠氏一族(3−2)』
 
北畠氏一族(3−2)(北畠庶流系図)
 
北畠一族の庶流の中には、系の判然としないものもある。ネットデーターなどを参照して略系図を掲載した。『寛政重修諸家譜』など基本系図に掲載のものは、別途掲載。そちらもご覧下さい。
(2009.2.27)
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『北畠氏一族(3−3)』
 
北畠氏一族系図(3−3)
 
ネットデーター掲載の系図には、基本系図に不掲載のものもある。別途掲載の各系図も参考にして下さい。 
(2009.3.9)
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『北畠氏一族(3−4)』
 
北畠氏一族系図(3−4)
 
北畠氏一族庶流は、各資料により食い違いもあり混乱している。ネットデーターの場合、基本系図と食い違うものも少なくない。別途掲載の庶流系図も参考にご覧下さい。
(2009.3.13)
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『北畠氏一族(3−5)(北畠庶流)』
 
北畠氏一族系図(3−5)
 
幕臣山崎正勝は、旧姓潮田氏、藤原姓を称すが、『大字前野郷土誌』によれば、潮田氏は、北畠氏一族大河内氏傍系と記す。潮田氏は四五百森(よひのもり)城主。詳細は別項北畠氏一族(3−1)(潮田家、佐田家)をご覧下さい。潮田英高(長助)と潮田正重(長助)は同一人物か? (天正4年11月26日殉死)
『寛政重修諸家譜』は、正重以前不詳。
(2009.4.25)
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『北畠氏一族(3−6)(佐田家)』
 
北畠氏一族系図(3−6)
 
佐田家は北畠庶流と伝えるが、正確な系譜は不明である。佐田家は、田丸家庶流という説(国立国会図書館所蔵系図)もあるが、 北畠本流の後裔とする説もある。ただ幕臣となった佐田家の系譜は『寛政重修諸家譜』によれば、一部不詳だが北畠教具の末裔と記す。前記の北畠氏一族(3−1)(潮田家、佐田家)も参照されたし。
(2009.4.5)
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