扶桑家系研究所 リポート8 
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扶桑家系研究所 リポート8
三鱗の末裔
横井一族の系譜(横井時永の族葉)
目次
まえがき
  尾張・三河は、戦国時代に三英傑を輩出した。この地域からは、戦国時代に多くの大名が誕生した。その出自は雑多で、土豪出身者あり、職人階層出身者あり、百姓出身あり、傭兵あがりあり、様々である。しかしその反面、十分に大名に成れる可能性があったのに運を掴めず、新たに誕生した大名家の家臣に甘んじるものもある。これから紹介する尾張の横井一族は、信長、秀吉の時代に大名に取り立てられず、家康の子供に配され、その家臣となって家系を存続させた。大大名の家臣であったから、一族の禄高を集めれば九千石ほどになる(宗家が六千石高前後)。徳川宗家・幕府から見れば陪臣だが、上級の交代寄合並の禄高であった。主家の非一門家臣(非血縁)であることを考えれば待遇は悪くない。
 横井一族では、同族とされる平野氏の当主が、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられるが、他の連中が出世して大名に成るのに、平野家は冷遇されていた。家康に仕えたが大名には成れず、交代寄合五千石であった。後に格式一万石の大名並となるが、それは後世の話(幕末維新のどさくさで、ようやく大名となる)。武家としては地味な一族である。そんな横井一族であるが、子孫の多くは尾張徳川家に仕え、横井宗家(赤目横井氏の家系)は、上級家臣の地位を維持し続けていた。その傍系からは横井也有、横井千秋という二人の文化人が輩出している。本項では、そんな横井一族のルーツ・伝説と、尾張定着後の広がりを、文献・系譜など確認可能な範囲で追跡することにした。横井一族は海部郡周辺(旧八開村あたり)を拠点として家系を維持した。マイナーな存在ではあるが、尾張徳川家の上級家臣の一家であり、『士林泝』にもその系譜が掲載されている。この地方に於いては、旧家・名家の一つということである。横井氏は、尾張富田荘の荘官か名主層から興ったかと思われるが、伝承では、鎌倉幕府執権北條氏族末裔と称する。『姓氏家系大辞典』によれば、@ 時政十世孫相模二郎時行の子・尾州蟹江邑に来り、後横江村に移り横井を称す。A 時行四世孫横江源五郎時利(愛知郡横江の人)―横井掃部助時永(横井に改む、横井黨の祖)―丹後守時勝―雅樂助時延―伊織助時泰―隼人時安(代々海東郡赤目の城主)  B 時政十三代横井政持の長男宗長、その先々代、尾張國海東郡赤目の城主にして横井を称す(平野條参照)と記されている。詳細は後述本文で紹介するが、『姓氏家系大辞典』では、詳細な系図は記されていないが、要するに北條氏余流、末裔、家紋は三鱗としている。
 横井氏は、尾張以外でも見られるが、その系譜は定かでない。尚、肥後にも横井氏があり、細川氏の家臣になっているが、こちらも伝承では、尾張横井氏同族で、北條氏の末裔としている。大名に成り損ねた横井氏は、それだから滅亡せず戦国時代を生き延び、尾張徳川家の重鎮となり、ここから一族は広がり、尾張の旧家・名家として存続し、現代に至るのである。その過程は決して平坦ではなかった。江戸時代末期の藩内保守派と勤王派の対立抗争に巻き込まれ落命した者もあり、残った者も、幕藩体制の崩壊明治維新による藩の廃止、没落という激動の嵐の中に投げ出されたのである。それでも横井一族は生き残り、明治に至り、文学博士の横井時冬(横井柳城)を輩出している。
 横井氏のルーツは、時永以前は伝説の世界とも云える。桓武平氏・平維将末裔の横江時景か。北條時政末裔の高時の子供の相模二郎時行の血脈なのか、それとも海東郡の名主層から現れたものか? 横井の出自も諸説あるが、実質的には、時永から始まったと考えるのが無難かもしれない。それでは、これから横井氏の系譜を追跡しよう。
平成20年(2008)3月28日、扶桑家系研究所 早瀬晴夫
横井一族の系譜(横井時永の族葉)
 
  横井氏というのは、戦国大名にも、或いは、江戸時代に大名・旗本にもなれず、歴史の片隅で生き続けた一族である。戦国時代、織田信長の幕下となり、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦では東軍に属し、徳川家康に仕えた。しかし、大名・旗本の系譜を掲載する『寛政重修諸家譜』には、横井氏の系図はない。わずかに同族と伝える平野氏の系図が記載されるのみである。太田亮の『姓氏家系大辞典』でも簡略な記述である。各地に横井姓は確認されるが、尾張及び尾張を源流とする横井氏以外、きわめて簡略である(詳細は原典参照)。
 横井氏は尾張に縁があるのか、『古代氏族系譜集成』では、尾張連の末裔の尾張春行から系図を書き起こしている。春行の子の神大夫が、横井常行と称する。鎌倉末期から南北朝時代の人物のようである。尾張國愛知郡横井村の大国玉神社の祝と記す。これは、明治の系図研究家の鈴木眞年の調査系図が原典のようで、『古代豪族系図集覧』にも引用されている。しかし、この横井氏はこれから紹介する尾張横井氏一族の直系(男系)先祖ではない。
 近年、インターネットの世界には幾つかの系図が掲載されているが、出典の曖昧なものもあり玉石混合であるが、中には、文献によって掲載されているものもあるから無視は出来ない。検索をすすめると横井氏・平野氏の系図に行き当たった。これらによると、横井氏は、北條氏(鎌倉幕府執権・得宗家)の末裔であり、併せて、先に紹介の横井氏とも姻戚関係になるようである。『古代史族系譜集成』掲載の系図が同様の記述である。同時に、平野氏との関係も確認できる(実際のところは不明だが・・・・)。曖昧な部分はあるが、一応横井氏とは同族関係になるらしい。系譜上は、尾張横井氏は、先の尾張系横井氏とは姻戚関係、伊勢新九郎長氏(宗瑞)(北條早雲)とも系譜上は繋がるという。
(2008.4.12)
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まえがき
目次
1. 緒論(横井一族の系譜)
2. 横井氏伝説のルーツ(横井時永の族葉)
3.
4.
※ 各リポート掲載系図の複製・転用を禁ず(企画・作成・著作権は、扶桑家系研究所に帰属します)。
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三鱗の末裔
横井一族の系譜(横井時永の族葉)
 ● 横井氏のルーツ 横井一族の系図(1−1) 横井一族の系図(1−2)  横井一族の系図(2−1)
 横井一族の系図(2−2)  横井一族の系図(3) 横江氏系図(横江氏と横井家) 検証.横井氏系図(1)
尾張横井氏のルーツは、ネットも含む前記系図によれば、鎌倉幕府執権北條家の嫡流の得宗家の末裔である。北條高時の子供の相模二郎時行(中先代の乱の張本人)の二男の時満の子供の時任が、尾張國愛知郡横江村に逃れ、その孫の横井掃部助時永が、海西郡と海東郡の二郡を押さえ、赤目城を築城して自立、横井氏を称したことにより始まる。つまり、現在の名古屋市中村区あたりから、赤目(海部郡八開村、現在の愛西市)周辺まで支配して小領主となったことにより始まったのである。信長に統一される前の尾張は、守護や守護代はいても、ある程度小領主が支配できる状況にあった(信長の祖父は津島を支配、父の信秀は、その経済力により、勝幡織田家は、清洲織田家の家老でありながら、国外の敵と対峙する時には、軍事指揮権を握った)。尾張は、織田家傍系、小土豪、木曽川周辺の川並衆らが各地を支配した。対外的には、応仁の乱以降は、織田家に属して参陣したが川並衆は、隣国の土岐家・斉藤家と織田家を天秤にかけながら寄騎したが、秀吉の織田家士官以後は、織田家に協力(実際には秀吉に協力)した。蜂須賀氏や前野氏は、秀吉政権が成立すると大名になる。荒子の前田氏は、信長が浅井・朝倉家を滅ぼし、北陸に領国を拡大すると、柴田勝家の与力大名となる(前田、佐々)。従って、信長に臣従した赤目の横井氏にもチャンスはあったはずだが、取り立てられていない。次代の秀吉にも臣従するが、加藤清正や福島正則のように出世はしていない。同族と思われる平野長泰が、賤ヶ岳の合戦で活躍(賤ヶ岳の七本槍)し、三千石、その後旧功により加増されて五千石となるが、出世もそこまで、七本槍の中では秀吉の評価は、他の連中のように高くはない。豊臣政権崩壊後は、家康に仕えるが、大坂の陣では、江戸に留め置かれ、その後特例により諸侯に準じる扱い(一万石並)を受けるが、國持ち大名になることはなかった。幕末維新の時にようやく一万石余の諸侯と認められ、明治になり華族に列して男爵に叙された。江戸時代には交代寄合(五千石)だったから、大名家が消滅寸前に大名になったわけである。しかし、本家たる赤目横井家は、家康に仕えるが、幕臣ではなく尾張徳川家に配され、将軍家から見れば、陪臣の地位に止まった。付け家老のような特権もなく、尾張徳川家の一家臣の地位に止まり、一族の中には紀伊徳川家に仕えた者もある。とは云っても、宗家の赤目家は、五千八百石前後を領し、一族を併せれば九千石前後であり、尾張徳川家の家中では低い地位ではない。時泰には兄弟もいるから、一人くらい幕臣になってもいいと思うが、時泰(五千八百石余)も、時朝(千二百八石余)も、時久(千九百石)も、尾張徳川家に仕えることとなり、兄弟では、長左衛門(治太夫)だけが紀州大納言光貞に三百石で仕えている。
 横井家は、尾張衆に属し、本姓は平(平朝臣)、家紋は三つ鱗紋であり、鎌倉北條氏を意識している。家伝はそれでよいとして、本当に北條氏の末裔であろうか? 南北朝・室町時代初期までについては、鎌倉の有力幕臣の後裔なら確認可能であるが、横井氏の場合はどうであろうか? 吉川弘文館から復刻された『新訂増補國史大系・尊卑分脈』によれば、北條家(得宗家)の系図は、北條高時の子の相模太郎邦時と弟の相模二郎時行(中先代)を記すのみで、それ以下は記していない。つまり横井の系譜は確認不可能である。又、江戸時代に編纂の『正・続軍書類従系譜部(群書系図部集)』には、複数の北條系図があるが、中先代の時行までで、子孫は掲載されておらず、従って横井の系図は証明されない。次に『系図纂要』であるが、こちらは中先代の時行から時任(横井姓)を経て、赤目邑の時永を経て戦国時代に至るが、先に紹介の系図や、『名古屋叢書続編(士林泝)』掲載の系図とは一部が異なる。横井姓を時任からとする事には、他の資料との比較から疑問もある。知多郡横井村というのも、他の資料では横江村で、時利は横江殿と呼ばれたとされる点からも疑問である。つまり、横井氏は海西郡赤目に移り、赤目城を築城して横井氏を称したということである。この間、別系の横江氏との混乱も見られる様である。結局、横井家は、時永以前は不明瞭な部分もあり、事実上は、時永を家祖と考えるのが妥当かもしれない。
 横井氏が横江氏と何か関連があるとすると、尾張國海東郡の南部を中心に広がった富田庄が横江氏縁の里で、そこの荘官や名主クラスの土豪出身で、その後、海西郡に出て横井を称したのなら、当初、横江殿と呼ばれるのも頷ける。尾張連系横井氏を仮冒したのなら、姻族関係も不思議ではない。横井氏が、土豪として発展する過程で、北條氏と尾張連横井氏に系図を繋げたものならば、『古代氏族系譜集成』も、ネット系図も、的はずれとは言い難い。しかし、異説の多いものは疑えという系図研究の鉄則に従うなら、横井氏は、横井時永を初代とみなし、それ以前は、伝説と捉えるのが妥当かもしれない。
  基本系図で、その出自が立証されないということは、北條氏の末裔でない可能性もある。ただ赤目横井家が尾張藩へ提出の系図では、北條得宗家末裔・家紋は三つ鱗を用いていたことは『士林泝』により確認され、江戸時代編纂の『系譜纂要』でも北條家末裔とされている。更には、交代寄合平野家の系譜でも、その伝承に於いては、北條家末裔横井氏の末としている(『新訂寛政重修諸家譜・第八』)ので疑問を呈しつつも、北條家後胤と位置付け、後世の判断を仰ぐこととする。
(2008.4.13)
 
@ 北條高時―時行―時満―時行【横江殿】――時永(横井時永)―時勝―時延―時泰
A 北條高時―時行―行氏―時利――――――時永(横井時永)―時勝―時延―時泰
B 北條高時―時行―行氏―政持(横井行宗)‐―宗長(平野宗長)―宗房―賢長=長治―長泰
『尾張群書系図部集』は、時満と行氏を同一人物と記す(同書 P.1139、他)。
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『横井一族のルーツ(1−1)』
 
横井一族の系図(1−1)
 
横井氏一族は、伝えられる系図によると、鎌倉幕府執権北條氏得宗家末裔・北條時行(中先代)の子孫ということになっている。尾張連横井氏とも関係があるか? 各地流浪の後、赤目に城を築き、海東・海西二郡を支配下に納める。足利家に仕え、後に織田信長に仕える。赤目・藤ケ瀬・祖父江の三家に分流、赤目横井家が尾張横井氏の宗家となる。紀伊と肥後の横井家も同族と伝えられる。賤ヶ岳七本槍の平野長泰の家系も同族らしい(異説もあり詳細は不詳)。
(2008.4.14)
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『横井一族のルーツ(1−2)』
 
横井一族の系図(1−2)
 
ネットデーターと系図資料及び関連系譜に食い違い有り(1−1も参照)。時永以前は、諸説あり。平野氏との関係も定かでない。行氏と時満が同一人物でない場合は、両家の関係は判然としなくなる。
肥後の横井氏は、尾張横井氏の傍系と称するが、その祖とされる時春は、『士林泝』の尾張横井氏系図には記載されていない。尾張横井氏と肥後横井氏の関係は、今後、暫時追跡していきたい。
(2008.4.15)
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『横井一族のルーツ(2−1)』
 
横井一族の系図(2−1)
 
横井氏は、『姓氏家系大辞典』などによれば各地に確認されるが、異聞歴史館が注目するのは、尾張横井氏と肥後の横井氏である。肥後の横井氏系図によれば、同族であるらしい。ただ、尾張の横井氏系図では、肥後の横井の初代にあたる人物が確認されないということで、両系図の比較検討が必要である。(1−1)に、「人物叢書」の横井系図を紹介しているが、この初代の人物が、尾張の系図で入手確認したものでは、不記載である。代表家紋が三つ鱗、中先代北條時行の末裔と称しているから、何か繋がりがあるかもしれない。詳しくは今後の尾張横井氏一門の系図紹介の中で手がかりがあればと思う次第である。両家とも「時」が通字として用いられているから、何らかの関係があった可能性は否定できない。
(2008.4.29)
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『横井一族のルーツ(2−2)』
 
横井一族の系譜(2−2)
 
尾張横井家初代横井時永の父の北條源五郎時利は、地元の人から横江殿と呼ばれたとの所伝あり。とすると、横井氏は、横江氏の傍系庶流の可能性も浮上する。或いは、横井氏が北條氏の末裔でない場合には、その土地の荘官出身か名主クラス出身の土豪の可能性も考えられる。尾張横井家は、赤目城を築き、城主となった横井時永を事実上の初代と位置付ける(赤目横井家)。本流は、尾張徳川家に仕え、重臣となる。
(2008.5.20)
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『横井氏のルーツ(3)』
 
横井氏のルーツ(3) 
 
赤目横井氏は、尾張徳川家に仕え、上級家臣として幕末まで藩政にかかわった。
尾張横井氏は、赤目横井家を宗家とし、藤ヶ瀬横井家、祖父江横井家の二大分家を派生させ、そこからまた分家が誕生し広がった。詳細は、尾張横井氏の項(後述)で紹介する予定。
(2008.6.11)
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『横江氏系図』(横江氏と横井家)
横江氏系図(横江氏と横井家)
 
尾張横井家が鎌倉北條家末裔でない場合、荘官クラス・名主クラスから派生した土豪という可能性も考えておかねばならない。そこで注目されるのが、海東郡の横江氏である。『尾張群書系図部集』で系譜が確認できる(加藤國光氏編纂)。横井家も海西郡・海東郡を拠点にしていることから、先祖が何らかのかかわりがあった可能性も考えられる。尾張横井家の事実上の初代である横井時永(赤目城主)の父は、横江殿と呼ばれたと云われているので、接点があった可能性は充分考えられる。しかし、基本系図資料である『分脈』、『纂要』、『群書』や尾張藩上級家臣の系譜集である『士林泝』では、両家に血縁関係・姻族関係は確認できていない。表の系譜では確認出来ない何かがあるのかも知れない。『時』を通字としている点では、北條末裔系図が出来る以前には何らかの関係があったかも知れない。そのあたりの謎解きについては、後世の研究者に委ねよう。とりあえず、尾張と熊本の横井氏の主張を尊重し、現状では、横井家は、北條家末裔として話を進める。ルーツについてはここまでとし、今後は、横井時永以降の横井一族の系譜を追跡することにする。
(2008.7.4)
横江氏系図
 横井時永の父は、横江殿と里人に呼ばれたという。横井氏は、北條氏末裔と伝えられるが、愛知県の高校教師だった加藤國光氏が調査編纂した『尾張國諸家系図(展望社)』と『尾張群書系図部集(続群書類従完成会)』には、富田庄との関係を示唆している。更に、富田庄の関連で横江氏の系図も紹介している。両方の氏(横井・横江氏)は『時』を通字としている。
 横江氏も横井氏も、加藤氏によれば、平維時の末裔としている。ただ横江氏の系図に関しては疑義もある。横江氏の祖の時景は、平維時の子と記すが、時景なる人物は『尊卑分脈』や『系図纂要』には記されていないということである。同時に、北條氏が平維時の子孫かという点については、各系図で食い違う部分もあり疑問もあるが、それは別の問題なので深追いはしない。加藤氏の説が成立するなら、富田庄より興った横井氏が、当初は横江氏を称し、後に赤目に出て横井を称した。更には系図を整える過程で、中先代・北條時行に系を繋いだということも考えられる。『時』を通字としていたことで、北條氏に繋いでも違和感が少ないことも、それを可能にしたと推定される。現在の名古屋市中川区・港区から愛西市に広がる地域で発祥・発展したとすると、荒唐無稽とは言い難い。但し平維時末裔というのは仮冒の可能性が高い。富田庄の荘官、若しくは、富田庄の名主クラスから発展した可能性がある。基本系図とは整合しないが、横井氏は横江氏から分かれた可能性も考えられる。ただ、横江氏と横井氏を直接繋ぐ系図は、一定評価を受ける基本系図文献に於いては確認されず、富田庄の荘官、或いは、名主クラスから発展した土豪であった場合の推論に過ぎない。同じ地域で発生した場合、その可能性があるかなという推論に過ぎない。太田亮の『姓氏家系大辞典』でも、尾張横江氏の詳細は分からない。
(2008.7.14)
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『検証.横井氏系図』(中先代北條時行末裔略系図)
 
検証.横井氏系図(1)
 
『尊卑分脈』は、北條時行以下は不記載だが、各種系図は、横井氏を北條時行の末裔に記す。但し、横井時泰以前は、各説あり正系は不詳。尾張藩士横井家の系図では、時行―時満―時任―時利―時永(横井時永)―時勝―時延(ここからはある程度信用できる)―時泰(兄弟あり、藤ヶ瀬、祖父江横井家分家する)―時輝―(以下は系図参照)。横井氏一門は、赤目城を中心に、海東・海西郡(名古屋市南西部から愛西市周辺)を支配した。
★『系図纂要』は、一部に祖父江・青山系図を混入しているので注意を要す。尾張横井氏系図からは、肥後横井氏の繋がりが確認出来ていない。肥後横井氏については後述する。
(2008.7.20)
 
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