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| 【扶桑家系研究所リポート6】 |
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| 閑話休題 |
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| 【目次】 |
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| 山本勘介一族系譜の謎 |
| 山本勘助一族の系譜(出生地と出自) 系図資料における山本勘助 山本帯刀・五十六略系図 |
| 2007年の大河ドラマは風林火山。武田家の興亡ですが、主人公は山本勘介(吉野家説は勘助)です。山本勘助は、通史では軍師という扱いですが、山県某の軽輩、或いは信玄の伝令将校など異説もあります。勘助は、通史に於いては、源重季の末裔吉野氏の一族説が有力ですが、近江山本氏の末裔とか、讃岐の庄屋の息子で大内氏に仕えた者とか諸説あり、出生地も駿河、三河、讃岐などさまざま。つまり、出生地も、出自(系譜)もハッキリしない人物です。研究家の説も分かれており、系譜学の観点からは、何の立証もされていません(吉野説を否定する研究者もいます)。本リポートでは各種書籍・雑誌などに掲載された略系図を紹介しながら、その系譜について検討しようと思います。 |
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| 山本勘助一族の系譜(出生地と出自) |
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| ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。 |
| 山本勘助の出自などについては諸説あり。出生地は、駿河国富士郡山本村、三河国加茂郡、三河牛窪、讃岐(渡辺氏が主張)など、少年期の生活地は、三河牛窪、讃岐など。諸国遍歴の後、今川家に仕官しようとしたが成功せず(渡辺説では、山口の大内家に仕え、後、妻子を残し出奔。隠棲した子孫はその後毛利家に仕え、或いは庶民となる)、甲斐の武田家に仕官する。その後の活躍は、軍記物などで知られる(内容については、疑問視され、勘助非実在説まで登場する)。系譜は、源氏説、菅原氏説があるが、現状は、駿河源氏吉野氏一門説が有力で、歴史雑誌などでは通説化している。諸説の中では、駿河説と加茂説が有力視されている。どちらも少年時代は牛窪の大林氏の養子としている。系譜は源姓だが、片や駿河源氏末裔、片や新羅三郎末裔説で食い違う。その後は、養家を立ち退き諸国遍歴、今川家の仕官に失敗の後、武田家に仕官ということで、同じような展開である。その後、渡辺勝正氏が、著書を刊行されたり、日本家系図学会の『姓氏と家紋』(旅とルーツの前身)に論考を発表され、四国讃岐出生、大内家浪人説を発表されるが、上野晴朗氏らの説を覆すには至っていない。しかし、子孫の伝承の中には、猪退治の伝承など一部に共通する部分もあり、何らかの接点があったかも知れない。そのあたりは、山本勘助研究家の今後の研究を待ちたい。系譜という点では、吉野氏一門系譜が、勘助の前後については比較的ハッキリしている。通史的に扱われる所以か? |
| (2007.1.6) |
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| 系図資料における山本勘助 |
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| ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。 |
| 山本勘助は、『新訂寛政重修諸家譜』、『系図纂要』、『断家譜』の基本系図や、『姓氏家系大辞典』などに登場する。これらの系図によれば、勘助の曾孫と称する人物が幕臣となったらしい。そのルーツは、源氏末裔と称し、『系図纂要』では、吉野冠者の末裔(途中の系譜は不詳)とする。吉野貞倫よりその系譜が明かとなる。勘助はその傍系で、祖父ないしは、父親の時、山本氏を称する。その異母弟の成行は帯刀と称する。一説に山本五十六が相続した長岡山本家は、この一門末裔らしい。山本勘助の系譜は、江戸時代は、清和源氏満政流木田氏系吉野氏末裔山本氏とする説が浸透していたか? 現在でも、歴史雑誌などでは、色々な説が紹介されるものの、いまだにこの説が最有力の説として紹介されている。前記『山本勘助一族の系譜』も併せてご覧下さい。 |
| (2006.1.7) |
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| 山本帯刀・五十六略系図 |
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| ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。 |
越後長岡藩家老山本家は、山本勘助の弟の末裔と伝える。三河加茂説では、勘助は牧野家に仕えていた大林家の養子に一時なっていた。牧野氏一族は、松平(徳川)家の台頭により、徳川家に仕える。勘助の弟は、上杉氏に仕えていたが、徳川家に仕え、その一族結城秀康に仕えたといわれるが、後に牧野家に仕え、上州大胡藩牧野家の家老となる。その後、牧野家が越後長岡に転封するとこれに従い、長岡藩家老となる。幕末・明治維新直前に家老に就任、北越戊辰戦争で、長岡藩士を率いて官軍に抵抗して敗れ断首されたのが山本帯刀(義路)であり、その再興名跡を継承したのが、太平洋戦争で真珠湾を攻撃した連合艦隊司令長官山本五十六である。山本五十六は海軍内部でも、開戦慎重派であった。海軍次官時代には襲撃・暗殺の危機もあったと云われる。米内正光海軍大臣は、自分の退任後、後継に山本を就任させれば、そういう危険があると察知し、海上勤務とし、連合艦隊司令長官に就任させた。しかし、開戦慎重派(反対派)の山本が、皮肉なことに開戦の火ぶたをきることになる。戦死後、元帥に叙された。
血縁はないが、系譜上の一族に、解剖学の先達となる小金井良精や作家の星新一がいる。 |
| (2007.1.13) |
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| 高野氏関係系図 |
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| ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。 |
| 高野家は、長岡藩の中級家系(100石〜150石)。高野栄軒・余慶父子は、儒者で、家老の山本老迂齋に協力する。大正時代、高野家の末裔の五十六は、山本老迂齋の系譜を継ぐ山本帯刀の名跡を継承した。高野家の本家末裔の高野京(京子)は、東京帝国大学病院看護婦長を務めた。山本五十六が負傷した時には、高野京の看護を受けたことがある。 |
| (2007.1.14) |
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| 『高野栄軒・余慶・京関係系図』(高野家と山本家関係系図) |
| ※ 前記『高野氏関係系図』と併せてご覧下さい。 |
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| この系図は、先に掲載の高野氏関係系図を、『山本五十六記念館展示図録』(新潟県図書館・蔵)をベースに修正したものである。これによれば、高野氏の七代目と八代目は兄弟相続という関係になる。高野氏は、栄軒・余慶の時代、家老の山本老迂斎に協力して、牧野家の記録の整理保全、及び、長岡藩の学問興隆に貢献した。山本家は、幕末の帯刀の時に断絶。大正5年に再興山本家を継承したのは、高野余慶の末裔の高野五十六である(山本五十六)。山本五十六の系譜上の祖父の山本義和は、一時、小金井家を相続するが、兄及びその後嗣の死去により山本家に復帰、家督を継承した。小金井家は新たな養子が継承し(小金井良達)、その子が、解剖学の権威、小金井良精である。 |
| これにて、山本五十六関係のリポートは終了する。新たに詳細な系図が入手できた場合は、追加、修正の予定だが、これで一区切りとする。小金井氏については、別の機会に紹介する予定。 |
| ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。 |
| (2007.6.30) |
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| 今和泉島津家と篤姫 |
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徳川家13代将軍家定(徳川家定)の御台所(正室)の天璋院篤姫(島津於一[しまづ・おかつ]・近衛敬子[このえ・すみこ])は、薩摩藩士で、藩主島津家一門今和泉島津家の島津忠剛(しまづ・ただたけ)の長女として誕生した(1835年)。その後、薩摩藩主島津斉彬の養女となり(1853年)、更に近衛家(近衛忠熙)の養女として徳川家定に嫁した。数年後、正式に婚姻して家定正室となる(篤姫は、婚儀後、正式に御台所となる)(1856年)。三年間も婚礼が延びたのは、天変地異が相次いだからである。嘉永七年(1854)十一月四日の東海大地震、翌五日の南海大地震。十二月末の江戸神田の安政の大火(嘉永から安政に改元)、翌安政二年(1855)九月の浅草・蔵前・神田の大陥没、それに続く十月二日の江戸安政大地震などで二度延期されたからである。この間に実父の島津忠剛は死去している。安政三年(1856)二月に輿入れ決定。四月、近衛家で養子縁組の結定式(けつじょうしき)。六月、近衛家が養女縁組み届けを幕府に提出。七月、輿入れ正式許可、九月に結納の儀が行われた。婚姻勅許から三年が経過していた。
安政五年(1858)、井伊直弼が大老に就任、同年、島津斉彬が鹿児島で死去、将軍家定が江戸で没す。篤姫は、天璋院と号す。家定の後継将軍には紀伊徳川家より家茂が就任し、天璋院(篤姫)は養母となる。
文久二年(1862)二月、皇女和宮降嫁。天璋院は、正室時代には、大奥の実権を把握出来なかったが、将軍養母となってからは、徐々に実権を掌握した。後に和宮と共に、江戸城無血開城に尽力する。島津家は外様とは云っても、将軍家とは姻戚関係(島津重豪の娘・広大院茂姫が、11代将軍家斉に嫁し、敦之助を産む)もあり、だから多少の紆余曲折はあっても、篤姫の将軍家定との婚姻が成立したのである。 |
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篤姫の義理の姪(島津宗家の系譜上の兄弟である忠義の娘・知子)は、田安徳川家の達孝(さとたか)に嫁す。達孝の孫が、『徳川 300年 ホントの内幕話(大和書房)』の著者の徳川宗英(むねふさ)氏で、田安徳川家十一代当主。島津家と将軍家との関係は、八代将軍吉宗の悲恋から始まったという。吉宗の養女の竹姫(元五代将軍綱吉養女)は、重豪の祖父の継豊に嫁す。竹姫の遺言により、重豪の娘の茂姫が近衛家の養女として、十一代将軍家齊に嫁した。以下は系図参照。
(2008.1.4) |
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| 岡倉天心関係系図 |
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岡倉天心は、元福井藩士で商人となった岡倉勘右衛門(覚右衛門)の子供として生まれる。東京開成所(官立東京開成学校・東京大学)講師のアーネスト・フェノロサの助手となり美術品収集を手伝う(当時、文部省職員)。その後、専修学校(専修大学)教官となる。明治17年(1884)7月、図画調査委員となる。明治19年(1886)2月、文部省図画取調掛主幹となる。9月、美術取調員として欧米出張を命ぜられる。翌年(明治20年)10月帰国、東京美術学校幹事に任ぜられる。11月に鑑画会及び、フェノロサらと帰朝報告講演を行う。その後(翌年)、帝国博物館学芸員となる。明治22年(1889)5月、帝国博物館理事兼美術部長となる。翌年6月、美術学校校長心得、8月、美術学校教授兼任、10月、美術学校校長となる。明治26年7月、宮内庁の命令で中国奥地を視察旅行し、12月に帰国。明治31年(1898)3月、帝国博物館理事兼美術部長依願免官。美術学校長非職を命じられる。橋本雅邦ら教授・職員連帯辞職す。7月、日本美術院創立披露会開催。明治33年3月、非職満期となる。明治34年(1901)11月、天心はインドへ向けて出発する。翌年、カルカッタでタゴール家の人々と親交。『東洋の目覚め』の草稿執筆。翌年、ロンドンで『東洋の理想』出版後帰国する。明治37年(1904)渡米、3月ボストン入り。ボストン美術館の東洋部(支那・日本部)顧問就任。以後、数回訪米する。大正元年(1912)インド訪問。その後ヨーロッパ経由でアメリカへ渡る。大正2年(1913)3月帰国。9月2日死去。タゴール家との交流は、その後も続いた。タゴールが来日した時には、天心の墓参りもしている。天心の直系は、美術界でなく、別の世界で生きている。孫と曾孫の一人は、国際政治学者である。
(2008.4.9) ※ 詳細は、各出典を参照下さい。 |
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| 中原姓樋口氏一族(直江兼続の系) |
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戦国時代、越後の上杉謙信・景勝に仕え、天下人の豊臣秀吉、徳川家康に一目置かれた武将が直江兼続である。秀吉からは、陪臣ながら豊臣姓を許されている。直江兼続は、元は樋口與六と称し、上田長尾家に仕えた樋口惣右衛門兼豊の長男で、上杉謙信の家臣の直江信綱の夫人(お船)の後夫となり、名門直江家の名跡を継承(形式上は、信綱の家督を継承)して直江兼続と称す。実家の樋口家は、兼定の時に越後に移り、上田長尾家(上杉景勝の実家)に仕えた。先祖は、木曾義仲の郎党(家臣)の樋口次郎兼光と家伝は伝える。兼続が直江氏を継承したので、樋口家は末弟の與八が継承した(樋口秀兼)。
同族として、保科正直に仕えた樋口光守の系が『姓氏家系大辞典』、『古代氏族系譜集成』などに紹介されている。
(2008.12.20) |
直江兼続(樋口與六)と同様木曾義仲郎党樋口兼光の末裔と称する家系に、上州(群馬県)馬庭の樋口家(武術馬庭念流宗家)が知られる。念流の念阿弥慈音(慈恩)の門弟になった樋口兼重を家伝は樋口兼光11代と伝える。その子孫の樋口又七郎定次が、念流七世に入門、樋口系念流を再興、後に念流八世を継承すると共に、馬庭念流の祖となる。子孫は念流宗家を継承、念流二十四世樋口定広(樋口昇)に至る。
(2008.12.27) |
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| 直江氏一族姻族略系図(直江兼続の系) |
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『直江兼続伝』などによると、直江氏は藤原京家の末裔律氏傍系と伝えられるが、『尊卑分脈』、『系図纂要』などに記載がなく疑問が残る。『姓氏家系大辞典』では、諏訪神族傍系末裔を示唆しているが詳細な系図の紹介はなく、こちらも断定するに足りる材料がない。文明11年に記録のある昌山一徳あたりから歴史に登場(実名不詳)、その子か数代の孫の親綱からは系図が残る。親綱は系譜上では貞心尼の祖父とされる人物である。その子の景綱から長尾家の重鎮となり、その養子の信綱が上杉謙信の奉行衆として活躍、御館の乱では景勝を支持した。その戦後処理の過程で殺害され、直江家断絶を惜しむ景勝により寵臣の樋口與六が、信綱の妻(お船・貞心尼)の後夫として直江家を継承、直江兼続と名乗る。直江兼続は、天下人の秀吉、家康にも陪臣ながら一目おかれた。秀吉からは豊臣姓も許されている。
上杉景勝が会津百二十萬石に封じられると、領内の米沢三十萬石を秀吉直々の命令で預かった(寄騎衆の領地も含むので、直轄領は六萬石とも云われる。上杉家が米沢三十萬石に減封されると、寄騎分も含め六萬石を預かる。直轄領は半分以下)。兼続は、養子の勝吉(後の加賀前田家家老本多政重)が去り、実子景明没後は、新たな養子は迎えず、米沢藩直江家は兼続一代で終わらせる決意をし、実行した。兼続没後、直江家は無嗣断絶となるが、妻の貞心尼が景勝に仕えて江戸詰となり、三千石の所領を賜る。貞心尼は、定勝の養育に努めた。寛永14年(1637)に貞心尼が没し、直江家は完全に消滅した。直江兼続は、関ヶ原合戦の時、西軍には参加しなかったが、上杉家を反徳川の立場に留め、大減封を招いたとの批判もあるが、天下人の秀吉・家康や奥州王伊達政宗とも堂々と渡り合い、天下の陪臣と賞賛され現代までその名を伝えているという点では、傑物と呼べるのではなかろうか?
(2008.12.21) |
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| 馬庭念流樋口氏一族(樋口兼重・樋口定次・樋口定ロの系) |
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上野國馬庭の樋口家は、木曾義仲の郎党の樋口兼光の後裔を称す。樋口家11代の樋口兼重は、念阿弥の門弟となり念流を学ぶ。子孫高重の時、神道流に転じる。数代後の子孫の樋口又次郎定次の時、念流七世と出会い弟子入り、後に念流八世を継承すると共に馬庭念流の祖となる。子孫が念流宗家を継承する。定次の先祖で神道流(新当流)に転じた樋口高重は、一時上杉家(上杉顕定)に仕えるが、浪人となり馬庭に定住、以後子孫は馬庭を拠点に家伝の武術を伝承する(神道流、後に念流)。
(2008.12.26) |
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