扶桑家系研究所 リポート4  滋野氏と天狼の系譜
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【扶桑家系研究所リポート4】
滋野氏と天狼の系譜
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   筆者が高校時代(30年以上前の話)に使っていた 「日本史小辞典(坂本太郎.監修、 山川出版社)」 を開くと、 P.298に「滋野貞主」についての記述がある。
 
  滋野貞主(しげのさだぬし)(785〜852)曾祖父大学頭兼博士楢原東人、 父尾張守家訳。 807年に文章生試(試験)に及第(合格)、 821年に図書頭、 後内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔・参議宮内卿を歴任した。
   現代風に言えば、 文部官僚から宮内庁や防衛庁、 財務省に転出、 国会議員で宮内庁長官を歴任したようなものである。 831年に勅(天皇の命令)により「秘府略1000巻」を選す。 嵯峨・淳和・仁明の時代に活躍、 文徳天皇の時代に没した平安時代の学者・官僚というところ(早瀬補筆)。
楢原東人---■---家訳---滋野貞主---縄子---本康親王(仁明天皇皇子)
楢原東人---■---家訳---滋野貞主---奥子---悦彦親王(文徳天皇皇子)
※ 奥子の子の悦彦親王は、『姓氏家系大辞典』では、惟彦親王と記される(「日本史小辞典」誤記か?)。
滋野貞主は、 天皇の舅になっているが、 「日本史小辞典」 には、 貞主以外、 滋野氏の記載はない。 当然略系図も記載されていない。

   滋野氏は、 源平藤橘、 菅原・大江・高階、 在原、 大伴・伴、 物部・石上、 蘇我・石川、 小野らに比較しても、 系譜の世界ではマイナーな存在なのか、「尊卑分脈」 にも掲載されていない。一体この滋野氏とは、 いかなる系譜なのか? 先祖が楢原氏であるのは確かだが、 そのルーツは? 天皇家とも縁戚だが、 その子孫はどうなったのか? 「系図纂要」 や「群書系図部集」 には、 信州滋野氏一族の系譜があるが、 そのルーツは清和天皇としている。 滋野貞主と信州滋野一族に繋がりは有りや無しや? 源平藤橘の様なメジャー級もいいが、 たまには少しマイナーな氏族の系譜追求も意外な答えを生み出すかもしれない。
(2006.1.10.随時更新)

  滋野氏は、 『尊卑分脈(新訂増補国史大系・尊卑分脉篇)(吉川弘文館)』 には不記載である。 そこで、 同じく吉川弘文館から刊行されている『日本古代氏族人名辞典』に当たる事にした。 同書によれば、 滋野氏(しげのうじ)は、 紀(直)氏と同系氏族と記される。 つまり古代紀氏(紀国造家)の同族という事らしい。 氏姓は初め楢原造、 のちに勤(伊蘇志・いそし)臣、 次いで滋野宿禰と改める。 弘仁14年(823)には朝臣姓を賜る(滋野朝臣)。 「日本三代実録」 貞観元年(859)12月条に、 滋野貞雄の卒伝を載せ、 その父家訳(いえおさ)に延暦17年(789)、 伊蘇志臣を改めて滋野宿禰を賜うとみえ、 「日本文徳実録」 仁寿2年(852)2月条の滋野朝臣貞主の卒伝も同様の記事を載せる。 「新撰姓氏録」 は右京神別下に載せて「紀直と同祖、 神魂命の五世孫、 天道根命の後」とする。 「日本古代氏族人名辞典」 は、 滋野朝臣貞雄(滋野貞雄)、 滋野朝臣貞主(滋野貞主)、 滋野朝臣縄子(しげのあそん・つなこ)、 滋野朝臣岑子(しげのあそん・みねこ)の四名を紹介している。
 
滋野朝臣貞雄(しげのあそん・さだお)(795〜859)九世紀前半の官人(官僚)。
尾張守滋野朝臣家訳の子。 兄に参議滋野朝臣貞主がいる。 弘仁14年(823)に宿禰から朝臣に改姓した。 (中略) 嵯峨天皇に召されて 近侍した。 承和5年(838)11月、 従五位上、 同13年(846)正月、 正五位下、 嘉祥3年(850)正月、 従四位下に昇り、 この間、 丹波守・ 但馬権守・摂津守などを務め、 貞観元年(859)11月、 従四位上に昇ったが、 同年12月22日、 65歳で卒した。
滋野朝臣貞主(しげのあそん・さだぬし)(785〜852) 九世紀前半の学者。
尾張守滋野朝臣家訳の子。 大学頭楢原造東人の曾孫。 大同2年(807)文章生試に及第し、 弘仁2年(811)少内記となる。 以後、 大内 記・図書頭・宮内大輔・兵部大輔・大蔵卿・式部大輔を歴任。 承和9年(842)参議に任ぜられた。 この間、 弘仁11年には外五位を授けられ、 翌年入内し、 また同14年(823)には父とともに朝臣の姓を賜った(滋野朝臣)。 (中略) 嘉祥3年(850)正四位下となり、 宮内 卿で相模守を兼ねた。 仁寿2年(852)2月8日、 毒瘡によって慈恩寺西書院で卒去。 時に68歳。 (中略) 貞主の長女の縄子、 次女の奥子は、 ともに仁明天皇の後宮に入り、 皇子女をもうけた。
滋野朝臣縄子(しげのあそん・つなこ) 九世紀中頃の女官。
仁明天皇の女御。 参議貞主の女。 性格は穏やかで素直、 立居振舞は中庸だったので、 ことに仁明の恩幸を受けた。 天長10年(833)5月、 その生んだ皇子に6歳で夭折されたが、 本康親王・時子内親王・柔子内親王らを生み育てた。 承和3年(836)4月、 無位から正五位を授けられた。 その後さらに位階は昇進し、 極位は従四位上であったらしい。
滋野朝臣岑子(しげのあそん・みねこ) 九世紀中頃の女官。
文徳天皇の後宮。滋野朝臣貞雄の女。文徳天皇の後宮に仕えて、 本有・載有・淵子・滋子の二皇子二皇女を生み、 その皇子女らはみな源朝臣の氏姓を賜った。 貞観9年 (867)正月、 無位から従五位上に叙せられた(吉川弘文館 「日本古代氏族人名辞典」 抜粋)。更に、 「日本古代氏族事典(佐伯有清編、 雄山閣)」 にも当たってみた。 編者の佐伯有清氏は、 「新撰姓氏録の研究」 の編著者であり、 古代氏族研究の大家である。 本書でも、 その研究に立脚しつつ、 各氏族が簡潔にまとめられ紹介されている。

   まず「伊蘇志(いそし)」を見る。 氏名は「勤」にも作り、 よく勤めるの意にもとづく。 「続日本紀」 天平勝宝2年(750)3月戊戌(10日)条に「駿河守従五位下楢原造東人等。 於.部内廬原郡多胡浦浜。 獲.黄金. 献.之。 <練金一分。 沙金一分。>於.是。 東人等賜.勤朝臣姓」とある。(ようするに駿河の廬原郡で、 金を採掘して献上し、 東人等が勤臣を賜ったという事) 又、 天平勝宝2年(750)5月には、 伊蘇志臣東人の親族34人に伊蘇志臣族と賜姓されたという。 「新撰姓氏録」 大和国神別には、 「伊蘇志臣、 滋野宿禰同祖。 天道根命之後也」とある。 「三代実録」 によれば、 延暦17年(789)伊蘇志臣は滋野宿禰と改姓した。滋野貞雄の父親の家訳の時代の事である。 一族には、 天平勝宝元年(749)8月以来、 楢原内万呂(「経師上日帳」に記載)が確認されるが、天平勝宝2年(750)11月4日には、 伊蘇志臣内麻呂と確認される(「経師筆墨紙充帳」に記載)。 同3年の「経疏出納帳」断簡にもその名前みえる。 内万呂は、 楢原造東人とともに同2年3月10日に勤(伊蘇志)臣と賜姓されたとみられる。 「続日本後紀」 によると、 承和2年(835)3月、 伊蘇志臣広成・伊蘇志臣人麻呂は、 紀伊国人外正八位上の紀直継成(きのあたえ・つぐなり、 紀継成)らとともに紀宿禰を賜姓される(紀宿禰広成・紀宿禰人麻呂)。 楢原氏の項目にも同様の記述あり。 平城京出土の木簡に、 「楢原造総麻呂」の名前がある。 楢原造の姓は、 架空のものではなく実在の姓と確認される。

   滋野氏の項目では、 もと楢原造・伊蘇志(勤・いそし)臣と称している。 と記す。天平勝宝2年(750)3月に、 駿河守り楢原造東人らが廬原郡で産出した黄金を献上した功により、 伊蘇志の姓を賜った。 同年五月には、 東人の親族34人が「伊蘇志臣族」の姓を賜っている。 又、 楢原造総麻呂は、 「続日本紀」 によれば、 宝亀6年(775)正月、 伊蘇志臣総麻呂とある。 (中略) 滋野宿禰は、 同氏の本宗家に当たる伊蘇志臣家訳(いそしおみ・いえおさ)が、 延暦17年(798)に改姓したものである(滋野宿禰家訳)。 その後、 家訳とその子の貞主は、 弘仁14年(823)正月、 ともに朝臣姓(滋野朝臣)を賜っている。 貞主は東宮学士で後に参議となる。 娘の縄子・奥子が仁明天皇の寵愛を受け、 本康親王・惟彦親王らを生んだ。 貞主の弟に貞雄があり、 各国の国司を歴任し、 娘岑子は文徳天皇に嫁し、 二男二女を生んでいる。 なおこの系統とは異なり、 本姓を名草宿禰とする滋野朝臣がいる。 名草宿禰は、 紀伊国名草郡(和歌山県)を本拠とする氏族であるが、 滋野氏と同族関係にあることから、 仁寿2年(852)12月に、 名草宿禰安成が滋野朝臣と改姓している。 と記す。 これらの記述から滋野氏(滋野朝臣)は、 紀伊国造家の同族で、 もとは楢原造姓(楢原氏)であり、 次いで伊蘇志(勤)臣姓(伊蘇志氏)、 その後滋野宿禰姓(滋野氏)と改姓し、 更に朝臣姓を賜り滋野朝臣姓(滋野氏)となった事が確認された。 尚、 同族に名草宿禰系の滋野朝臣姓(滋野氏)がある。 滋野氏は、 奈良時代末期に誕生し、 平安時代の初期に飛躍した。 皇室とも姻戚関係となる。 しかし、 その後の事に関しては、 「日本古代氏族人名辞典」 でも、 「日本古代氏族事典」 とも不記載で分からない。 平安時代は藤原氏が飛躍的に台頭するが、 中小の氏族は、 当初は宮廷の中枢にいても、 段々家格が低下し、 下級官僚や地方官となり、 表舞台からは退場、 あるいはその他大勢の一人というような感じで埋没していく。 この二つの資料では、 信濃の滋野氏一族との関係は確認できない。 信濃の滋野氏が、ある程度の力を得た後、 零落していた滋野氏に系図を繋げた可能性もある。 直ぐには答えが出せない。 今後、別の資料に当たることにしよう。
(2006.2.3 随時更新)
【滋野氏一族・姻族略系図
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滋野氏略系図
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
この系図に於いては、信濃滋野氏一族との関係は確認出来ず。信濃滋野氏は、清和天皇の末裔と称するが、『尊卑分脈』の源氏系図に滋野氏なし。清和天皇末裔説は、仮冒? 今後、別途追求。
 
滋野・海野氏関係系図
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滋野・海野氏関係系図
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
この系図は、問題もあるが、今後の系図調査のヒントもあり、参考に掲載する。
  
【滋野氏概略】
1.滋野宿禰→紀直と同祖。神塊命五世の孫・天道根命の後也。紀国造の族、もと伊蘇志臣。
2.滋野朝臣→前項氏が朝臣姓を賜った事による。楢原東人の末裔(滋野貞主ら)。
3.名草氏流→前者と同流(実は宗形氏?)。名草宿禰安成が、滋野朝臣を賜る。
4.京の滋野→滋野朝臣の後裔。(『姓氏家系大辞典』詳細不記載)
5.光孝帝流→光孝天皇の子の源國紀の子の公忠が滋野と号す。
6.信濃滋野→信濃の滋野氏(自称・清和帝裔)。信濃国小縣郡滋野邑より起こる。(信ずるに足りず)
7.相模・武蔵・出羽・能登・長州などにも見受けられるが詳細は不明。
以上、『姓氏家系大辞典』を参考に概略を記したが、滋野氏の系譜追跡の指針になろう。
(2006.2.6)
読者の方へ。類似の系図が登場するが、比較検証の意味もあるので了解されたし。
楢原造・伊蘇志臣流滋野氏一族系図】
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楢原・滋野氏系図
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
(2006.2.7)
【滋野氏一族(光孝天皇後裔)】(楢原流・光孝流関係系図)(参考.源氏略系図)
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※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
(2006.2.9)
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   滋野氏は、これまでの系譜追跡で、楢原流滋野氏と、光孝流滋野氏が確認された。しかし、子孫の詳細についてはよく分からない。子孫はいるかも知れないが、基本系図文献で確認出来ないということである。楢原流滋野氏も、平安時代の初期には、活躍が確認されるが、数代下ると動向がよく分からない。信州にも滋野氏があるが、この家系は、異説も多く、複数の系図が一致する事はない。本流が戦国時代に没落している事も関係しているかも知れない。戦国大名となった家系は、嫡流の様に系図を書き換えているが、本家の家名を継承していない点からも、その主張は怪しげである。本リポートのタイトルは、『滋野氏一族と天狼の系譜』であるが、まだこの段階では、天狼の正体は明かさない。親子二代を想定している。歴史好きで感のいい読者なら薄々感づいているかもしれないが、一人ではないという点に留意してもらいたい。今後の展開によっては、三代に見方を変える必要が生じるかもしれないが、それは今後の追跡結果と云う事にしておいて下さい。
 
  このリポートは、「豊臣氏存続(平成十八年六月、今日の話題社より刊行)」の後、幾つか検討しているテーマの一つで、現在参考資料を収集中で、とりあえず手元の系譜資料のみで検討作成しているものである
 
   信濃の滋野氏の系譜は、正続群書類従系譜部(現在は、『群書系図部集』として刊行)にあるが、この系譜では、清和天皇に系譜を結びつけている。それが、すべて食い違うという事から見ても、仮冒系図と考えるのが妥当であるが、古い部分のみならず、戦国に至る部分においても不一致があり、慎重に検討する必要がある。天狼一族との関係も不明瞭である。今後追跡する事にする。その前に、どちらかの滋野氏と信濃滋野氏に結びつくか、参考になる資料があれば、そちらを先に紹介する。
次にどういう系図資料が登場するかお楽しみに・・・・・・。(祖山晴雲)
(2006.2.9)
 
   扶桑町図書館より、各地の図書館へレファレンスを依頼したが、徐々に資料が集まってきた。手持ちの資料と併せ、整理が付いたら、リポートの読者に公開していく予定。滋野氏については、すでに公開しているサイトがある事は承知しているが、基本系図資料との照合も含め、改めて検討する。滋野氏は、海野氏のみならず、望月氏にも異説があり謎が多い。清和天皇末裔説を否定したとして、本当に信濃滋野氏一族は、古代系滋野一族の末裔なのか? 謎解きは未だ進展せずである。そして、本リポートのテーマに登場する「天狼」は、本当はいかなる系譜なのか? 筆者も興味津々である。現在までに先達各研究者によって公開された資料で入手できたものを比較しながら、この一族の姿を追ってみたい。
(2006.7.9)
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【信濃滋野氏一族(自称.清和天皇末裔)】
  
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
   信州滋野氏一族は、 古代氏族(土豪)或いは、 古代氏族系滋野氏の末裔と思われるが、 後世作成の系図では、 清和天皇の末裔を称している。 しかし、『群書系図部集(原典は、 江戸時代編纂の「正続群書類従・系譜部」)』掲載の系譜を比較しても食い違いがある。 これは、海野・禰津・望月氏が、氏族連合を形成し、その上で滋野氏を上掲して、一族系図を作成、その上で架空の人物を挟み込み、清和天皇に繋がる系図を作成したが、時代が下ると、各家は自家に都合のいいように系図を書き換えたものと思われる。古代の「牧」が滋野氏の発展の基盤なら、望月氏が本流とも推察されるが、鎌倉御家人となった海野氏は、滋野氏一族の総領的立場となるが、それにもまして、戦国時代、海野嫡流が没落すると傍系から、嫡流を自称する家系が現れ、その家系が幕末まで大名として存続した事も大きな要因である。禰津氏も一時大名となるが、本家は断絶となる。望月氏は、江戸時代に大名になることはなかった。
   江戸時代になると、大名となった家系の家臣編纂の系譜や、幕府に提出の系譜に更に手が加えられ、『群書系図部集』の滋野氏の系図とは、大幅に食い違う系図も登場する。これらの系譜については、更なる検討が必要となる。今後の課題としよう。
(2006.7.17)
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信濃滋野氏一族(滋野朝臣)
 
信濃滋野氏一族(滋野朝臣)系図(1)
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
   信濃滋野氏一族は、江戸時代に作成された系譜の多くは、清和天皇末裔とするが、これは改竄であり、古代豪族滋野朝臣の末裔の可能性が高い。大伴氏の末裔説もあるが、基本系図史料では、現在まで立証はされていない。現状では、改竄されているとは云え、「滋野朝臣末裔説」を柱に検討すべきではないかと考える(「滋野朝臣末裔説」でも途中に不明瞭な点があるが、今後の課題)。
(2006.8.17)
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信濃滋野氏一族(滋野朝臣)(つづき)
 
信濃滋野氏一族(滋野朝臣)系図(2)
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
   江戸時代に作成された海野氏嫡流系図は、本来の海野氏嫡流系図の一部を抹殺して、途中に「幻の眞田氏系図」を挿入した可能性がある。又、棟綱・幸義の時代に、武田・諏訪・村上の三家連合に敗れて没落の後は、その傍系は無視され、真田幸隆が海野氏嫡流を継承した様な系図を作成しているが、これは、眞田昌幸が、真田家の家督を継承した経緯と照らしてもおかしな事となる。真田幸隆が海野家嫡流から出て眞田氏を継承していたのなら、本家相続時点で海野姓に復さなければならない。又、傍系の真田氏の末裔から海野氏を継承したとしても同様である。幸義討死の後は、名目上、海野幸貞・幸忠父子が、海野族長の地位を継承したとも、或いは、武田信玄の二男の信親が海野氏の名跡を継承(海野竜宝)とも云われる。そういう状況から、眞田幸隆が海野氏嫡流を継承したとする説は疑問であり、海野氏の旧領を回復する過程で、一族の盟主となる為に主張したものではなかろうか。
   幸継(長氏)以降、戦国時代の棟綱までの歴代を『寛政重修諸家譜』と、『古代氏族系譜集成』及び『群書系図部集』掲載の「信濃滋野氏三家系図」と比較すると、『寛政重修諸家譜』の歴代は異常に多い。これは、幕府に提出されたこの系譜が改竄系図で、途中に傍系系譜(眞田氏一族)を挿入した結果である。又、海野傍系も、眞田家に遠慮して、海野昌元以前については、系譜を記載していない。現状で基本系図により海野氏の系譜を追跡するには限界があるという事である。
(2006.8.19)
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推定眞田氏系図(『寛政重修諸家譜』眞田氏系図改竄疑惑)
 
推定眞田氏系図
 
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   眞田氏一族は、『新訂寛政重修諸家譜・第十一(原本.寛政重修諸家譜・第六百五十四)』によると、本姓滋野氏。海野小太郎幸恒より系図を起こしている。その末裔の幸隆は、海野氏宗家が没落すると一時上州(上野国・群馬県)に逃れる。兄幸義が海野本家を継承、幸隆は信濃国眞田庄に住し、眞田を称する。海野家は、海野幸義が村上義清と合戦討死すと記す(『寛政重修諸家譜』は、幸隆の上州逃亡は記さず)。幸隆は、武田家に仕え、天正2年5月19日死す(年62)と記す。松代藩士の編纂系図では、眞田氏の先祖(滋野・海野を含む)を清和天皇に結びつけているが、『寛政重修諸家譜』は、清和天皇末裔説や古代滋野氏末裔説に触れながら、清和天皇末裔説を不審として、海野幸恒よりの系図を作成したのである。しかし、この系図は、『群書系図部集』の「滋野氏三家系図」や『古代氏族系譜集成』と比較すると明らかだが、幾つか改竄の痕跡が見てとれる。一つは、海野茂氏以下数代を抹殺した事。眞田幸春を海野幸春にすり替えている事。戦国時代の眞田幸隆を、海野本家の海野棟綱或いは、幸義の子供にしている点などである。眞田氏が海野氏の直系でない事は、矢沢氏系図や白鳥神社の海野氏系図により明白である。眞田氏が、海野氏と姻族関係にある事は否定されないが、直系や近い傍系とするのは苦しい。眞田氏が戦国になって突然出現したものではなく、室町初期には既に出現していた様である。又、眞田氏が海野氏の傍系としても、古い眞田氏と戦国の眞田氏の間の血縁・系譜関係は、具体的な形では立証されていない。眞田氏の関係図書によれば、眞田右馬允頼昌という人物が、戦国眞田氏一族の、直接の祖であるらしい。その先は定かでないが、海野系図に組み込まれた眞田氏が戦国眞田氏の先祖、或いは何らかの関係がある事は否定されない。 
(2006.11.4) 
 
   現在、廣く流布する信濃滋野氏系図は、本姓滋野朝臣(滋野氏)としながら清和天皇に系図を結びつけているものが多い。しかし、それは仮冒系図であって信用はおけない。途中に架空の人物が挿入されている。そこで浮上するのは、紀伊国造一族の楢原造系の滋野氏(滋野朝臣)である。但し、信濃滋野氏一族が、この滋野氏の末裔か否かについては即断は出来ない。代表的な滋野三家(海野・禰津・望月)の分立時期に異説が多く、正確な系譜が復元出来ないからである。古代豪族の末裔の三家が、滋野氏に系図を繋げて同族化した可能性もあり得るからである。或いは、三家の一家が古代豪族の流れで、そこから他の二家が分立、その後牧場の経営者から武士化した時に、海野が一歩先んじ、その後現在の系図のベース(海野を宗家と見なす)が出来たと推察される。従って、現在の信濃滋野氏系図は、二重に仮冒した可能性が高いのである。しかし、その本系は、現在の基本系図文献では確認することが出来ない。そして、その系譜の疑惑は眞田氏にも当てはまる。眞田氏は本姓を滋野氏とし、信濃滋野氏末裔と位置付けている。しかし、戦国の眞田氏以前の系譜は不詳である。滋野氏一族の眞田氏(室町前期の眞田氏)とも系譜が繋がる保証がない。となると戦国眞田氏のルーツは何処という事になる。これからじっくり考えよう。
(2006.11.9)
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眞田氏検証一覧
 
『真田氏検証一覧』 (「信州滋野氏三家系圖」 及び 「滋野氏系圖」 は 「群書系図部集」 所収)
氏 名 寛政重修諸家譜 信州滋野氏三家系圖 滋野氏系圖 古代氏族系譜集成
海野小太郎幸恒 海野幸恒(左同) 滋氏王(滋野判官代信濃守) 滋野信濃判官滋氏 滋野左馬允幸経(幸恒)
海野小太郎幸明 海野幸明(左同) 滋野三寅大夫為廣 滋野三寅大夫為廣 滋野右馬允為広
海野小太郎幸眞(信濃守) 海野幸眞(左同) 滋野左衛門督為通 滋野右衛門督為通 滋野右馬大允為道
海野小太郎幸盛(信濃守) 海野幸盛(左同) 滋野武蔵守則廣 滋野武蔵守則廣 望月太郎則重(則広)
海野小太郎幸家(信濃守) 海野幸家(左同) 野平三大夫重道 滋野平三大夫重道 望月弥平三太夫重道
海野庄預。 (幸明)
海野小太郎幸勝(信濃守) 海野幸勝(左同) 海野小太郎廣道 海野廣通 海野太郎広道(幸眞)
海野小太郎幸親 保元の乱、 属.義朝 (1156) 幸親、 保元の乱義朝味方 海野幸親 海野弥平四郎幸親
保元の乱.属.源義朝.有功
海野彌平四郎幸廣 寿永2年戦死(1183) 幸廣、 水島合戦討死 幸廣、 西海合戦入水。 海野弥平四郎幸広
水島合戦討死(行広)
海野小太郎幸氏(信濃守) 小太郎後左衛門尉 海野小太郎幸氏、 弓名人 海野左衛門尉幸氏、弓名人 海野左衛門尉幸氏
小太郎.行氏(幸広弟)
海野小太郎幸継(信濃守) 海野幸継(左同) 海野右衛門尉長氏   海野右衛門尉長氏
一説.幸継(茂氏兄)
(海野信濃守茂氏) 不記載 海野信濃守茂氏 海野信濃守茂氏 海野信濃守茂氏(長氏嗣子)
真田治郎大夫家久 不記載(1220頃) 不記載(承久2年頃の人物) 不記載 不記載(羽黒山所司代)
海野小太郎幸春 海野信濃守幸継嗣子 眞田七郎幸春(茂氏弟)   眞田七郎幸春(茂氏義弟)
(1)
真田式部清幸 不記載 不記載(幸春と同年代?) 不記載 不記載
(海野右衛門尉長氏) 不記載      
海野小太郎幸重(信濃守) 海野小太郎幸春嗣子 不記載(幸重.1334頃の人物) 海野右衛門尉長氏 眞田幸重(幸春子)
(2)
海野小太郎幸康(信濃守) 海野幸康(左同) 海野左衛門尉幸直(茂氏子) 海野幸直(長氏子) 眞田幸康
(3)
海野幸直(長氏子)
海野小太郎幸遠(信濃守) 海野幸遠(左同) 海野小太郎頼幸(信濃守) 海野頼幸(幸直子) 眞田幸遠
(4)
海野頼幸(幸直子)
海野小太郎幸永(信濃守) 海野幸永(左同) 海野左近大夫則幸 海野則幸(頼幸子) 眞田幸永
(5)
海野則幸
海野小太郎幸昌(信濃守) 海野幸昌(左同) 海野小太郎善幸(笛吹峠合戦) 海野善幸(則幸子) 眞田幸昌
(6)
海野小太郎善幸
実田(真田)某 不記載 不記載[大塔合戦参陣(1400)] 不記載 眞田家 海野氏宗家
真田源太・源五・源六 不記載 不記載[結城合戦参陣(1440)] 不記載    
海野小太郎幸信 海野幸信(左同) 海野新左衛門尉幸房 海野幸房(善幸子) 眞田幸信
(7)
海野新左衛門幸房
海野小太郎幸定 海野幸定(左同)     眞田幸定
(8)
  
海野小太郎幸秀(信濃守) 海野幸秀(左同)     眞田幸秀
(A)一説幸重子
 
海野小太郎幸守(信濃守) 海野幸守(左同)     眞田幸守
(B)
 
        眞田満幸
(C)
 
海野小太郎幸則(信濃守) 海野幸則(左同)        
海野小太郎幸義 海野幸義(左同) 海野小太郎幸義(海野幸房子) 海野幸義(幸房子)   海野幸義(幸房子)
海野小太郎幸数(憲廣) 幸数、 信濃守憲廣 海野太郎憲廣 (仕.上杉憲基) 海野憲廣(幸義子)   海野憲広(幸数)
海野小太郎持幸(信濃守) 海野持幸(左同) 海野信濃守持幸(仕足利持氏) 海野信濃守持幸   海野持幸(憲広子) 一説.幸義子
海野小太郎氏幸(信濃守) 海野氏幸(左同) 海野小太郎氏幸 海野小太郎氏幸   海野小太郎氏幸
海野小太郎棟幸(信濃守) 海野棟幸(左同) 海野信濃守棟幸 海野信濃守幸棟   海野信濃守幸棟
海野小太郎棟綱(信濃守) 海野棟綱(左同) 海野小太郎棟綱(信濃守) 海野棟綱
(幸棟子)
眞田頼幸
右馬允・道端居士
海野小太郎棟綱
海野小太郎幸義左京大夫 幸義(棟綱子) 海野小太郎幸義左京大夫、村上義清合戦討死(天文10年)     海野小太郎幸義、天文元年討死。 棟綱弟 左京大夫
真田小太郎幸隆(弾正忠) 幸隆(幸義子)(弟?) 真田弾正忠幸隆一徳齋
海野小太郎(棟綱)婿成相続。
  眞田幸隆(海野棟綱外孫)眞田弾正忠・一徳齋(頼幸子)
矢澤薩摩守頼幸 頼幸(幸隆弟)     矢澤薩摩守頼綱(綱頼)(同上)
常田伊豫隆家 隆家(幸隆弟)     常田出羽守隆永(隆家)(同上)
        鎌原大和守幸永(幸定)(同上)
        萩原豊前守綱重 (頼幸子)
真田源太左衛門信綱 信綱(幸隆子)  真田源太左衛門信綱(幸義子)   真田源太左衛門信綱(幸義子)
真田兵部昌輝 昌輝(幸隆子) 不記載   眞田兵部亟昌輝(幸隆子)
真田源五郎昌幸(喜兵衛) 安房守昌幸(幸隆子) 真田喜兵衛尉昌幸(安房守)   眞田源五郎昌幸(幸隆子) 眞田安房守、 仕.信玄・秀吉
真田源次郎信昌市右衛門 隠岐守信昌(幸隆子) 真田隠岐守信昌(幸義子)   眞田隠岐守信尹(幸隆子)
真田源三郎信幸(伊豆守) 伊豆守信之(昌幸子) 真田伊豆守信幸(昌幸子)   眞田伊豆守信之(昌幸子) 眞田源三郎信幸
真田源次郎信繁左衛門佐 真田幸村(昌幸子)     眞田左衛門佐幸村(昌幸子) 眞田源二郎信繁
真田内匠昌親 真田昌親(昌幸子)      
出典 「群書系図部集(続群書類従完成会)」、「寛政重修諸家譜(続群書類従完成会)」、「古代氏族系譜集成(宝賀寿男、 古代氏族研究会)」
 
(「真田氏検証一覧」) ※ 「滋野通記」 は、 「歴史群像シリーズ.7.「真田戦記」(学習研究社)」 による。
氏 名 寛政重修諸家譜 系図纂要 纂要 一本 滋野通記 古代氏族系譜集成
海野小太郎幸恒 海野幸恒(左同) 海野小太郎幸恒 海野幸恒 滋野信濃守滋氏 滋野幸経.幸恒
海野小太郎幸明 海野幸明(左同) 海野小太郎幸明(幸朝) 海野幸明 滋野信濃守為廣 滋野為広
海野小太郎幸眞(信濃守) 海野幸眞(左同) 海野小太郎幸直(信乃守) 海野幸直 滋野左衛門尉為直 滋野為道
海野小太郎幸盛(信濃守) 海野幸盛(左同) 海野小太郎幸盛(信乃守)   滋野武蔵守則廣 望月則重.則広
海野小太郎幸家(信濃守) 海野幸家(左同) 海野小太郎幸家(信乃守)   滋野平権太夫重道 望月重道
海野小太郎幸勝(信濃守) 海野幸勝(左同) 海野小太郎幸勝(信乃守)   海野左衛門尉廣道 海野広道
海野小太郎幸親 保元の乱、 属.義朝
(1158)
海野小太郎幸親(行親)保元.属.源義朝   海野小太郎幸直、保元.属.源義朝 海野幸親
海野彌平四郎幸廣 寿永2年戦死
(1183)
海野彌平四郎幸廣、寿永2年水島戦討死   海野弥平四郎幸廣 海野幸広
海野小太郎幸氏(信濃守) 小太郎後左衛門尉 海野小太郎幸氏(信乃守)(左衛門尉)   海野小太郎幸氏、(左衛門尉) 仕.頼朝 海野幸氏
海野小太郎幸継(信濃守) 海野幸継(左同) 海野小太郎幸継(信乃守)     海野長氏.幸継
(海野信濃守茂氏) 不記載   海野茂氏 海野左衛門太郎茂氏(信濃守) 海野茂氏
眞田幸春義兄
海野小太郎幸春 海野信濃守幸継嗣子 海野小太郎幸春★ 海野氏宗家   眞田幸春 (1)
(海野右衛門尉長氏) 不記載   海野長氏 海野左衛門尉長氏  眞田氏
海野小太郎幸重(信濃守) 海野小太郎幸春嗣子 海野小太郎幸重(信乃守) 海野幸廣   眞田幸重 (2)
海野小太郎幸康(信濃守) 海野幸康(左同) 海野小太郎幸康(信乃守) 海野頼幸 海野信濃守頼幸  眞田幸康 (3)
海野小太郎幸遠(信濃守) 海野幸遠(左同) 海野小太郎幸遠(信乃守) 海野則幸   眞田幸遠 (4)
海野小太郎幸永(信濃守) 海野幸永(左同) 海野小太郎幸永(信乃守) 海野善幸 ★ 海野小太郎幸継 眞田幸永 (5)
海野小太郎幸昌(信濃守) 海野幸昌(左同) 海野小太郎幸昌(信乃守) 海野幸房 海野小太郎幸春★ 眞田幸昌 (6)
実田(真田)某 不記載 不記載   海野小太郎幸定  
真田源太・源五・源六 不記載 不記載   海野小太郎幸秀  
海野小太郎幸信 海野幸信(左同) 海野小太郎幸信   海野小太郎幸守 眞田幸信 (7)
海野小太郎幸定 海野幸定(左同) 海野小太郎幸定   海野小太郎満幸 眞田幸定 (8)
海野小太郎幸秀(信濃守) 海野幸秀(左同) 海野小太郎幸秀(信乃守)   海野小太郎則幸 眞田幸秀 *
(一説.幸重弟?)
海野小太郎幸守(信濃守) 海野幸守(左同) 海野小太郎幸守   海野小太郎善幸 眞田幸守 *
海野小太郎幸則(信濃守) 海野幸則(左同) 海野小太郎幸則(兵庫頭、信乃守)   海野小太郎幸房 眞田満幸 *
海野小太郎幸義 海野幸義(左同) 海野小太郎幸義 海野幸義 海野小太郎幸信 海野幸義
海野小太郎幸数(憲廣) 幸数、 信濃守憲廣 海野小太郎幸數 海野憲廣 海野小太郎憲廣 海野憲広
海野小太郎持幸(信濃守) 海野持幸(左同) 海野小太郎持幸(信乃守) 海野持幸 海野信濃守持幸 海野持幸
海野小太郎氏幸(信濃守) 海野氏幸(左同) 海野小太郎氏幸(信乃守) 海野氏幸 海野小太郎氏幸(信濃守) 海野氏幸
海野小太郎棟幸(信濃守) 海野棟幸(左同) 海野小太郎幸棟(信乃守) 海野幸棟 海野小太郎幸棟(信濃守) 海野幸棟
海野小太郎棟綱(信濃守) 海野棟綱(左同) 海野小太郎棟綱(信乃守)天文15年死、 大道院豐圓 海野棟綱 海野信濃守棟綱 海野棟綱
海野小太郎幸義左京大夫 幸義(棟綱子) 海野小太郎幸義左京大夫
天文16年8ノ22與村上義清戦于岩尾死之六十九、龍岳院義樹
  海野左近亮幸義(棟綱弟)
天文14年村上義清ト合戦シテ村上ノ為ニ討死ス
海野幸義
[
海野氏本家絶]
    矢澤頼綱(幸義弟)     [戦国真田氏]
    羽尾景幸(幸義弟)、 上州三原地頭、 羽尾治部少輔     眞田頼幸
右馬允・道端
真田小太郎幸隆(弾正忠) 幸隆(幸義子)(弟?) 眞田小太郎幸隆(弾正忠)幸義子、 住小縣郡眞田以為稱號。 天文22年2ノ11剃髪號一徳齋。 天正2年5ノ19卒、 六十二   海野小太郎幸隆・真田弾正忠・剃髪.一徳齋。在名ヲ以テ真田ト唱。 幸隆.行年六十二歳。
(都合により抜粋)
眞田幸隆
弾正忠一徳齋
(頼幸子)
矢澤薩摩守頼幸 頼幸(幸隆弟) 矢澤薩摩守頼幸(右馬助)幸隆弟。 本.綱隆又頼明   矢澤薩摩守頼綱(幸隆弟) 矢澤頼綱
(幸隆弟)
常田伊豫隆家 隆家(幸隆弟) 常田伊豫隆家(出羽守)
幸隆弟。
  常田伊予守隆永(幸隆弟) 常田隆永
(幸隆弟)隆家
鎌原大和守幸定 不記載 不記載   鎌原大和守幸定(幸隆弟) 鎌原幸定
真田源太左衛門信綱 信綱(幸隆子) 眞田源太左衛門信綱(左同)   真田源太左衛門尉信綱 眞田信綱
真田兵部昌輝 昌輝(幸隆子) 眞田兵部丞昌輝(左同)   真田矢部丞昌輝(左同) 眞田昌輝
真田源五郎昌幸(喜兵衛) 安房守昌幸(幸隆子) 眞田安房守昌幸(左同)   真田安房守昌幸(左同) 眞田昌幸
真田源次郎信昌市右衛門 隠岐守信昌(幸隆子) 眞田隠岐守信昌(信尹)   真田隠岐守信尹(左同) 眞田信尹
真田源三郎信幸(伊豆守) 伊豆守信之(昌幸子) 眞田伊豆守信之(左同)   真田伊豆守信之(左同) 眞田信之
真田源次郎信繁左衛門佐 真田幸村(昌幸子) 眞田左衛門佐幸村(信繁)   真田左衛門佐信繁(左同) 眞田信繁.幸村
真田内匠昌親 真田昌親(昌幸子) 眞田内匠昌親(左同)     眞田昌親
矢澤但馬頼棟(頼幸子)   矢澤但馬頼棟(頼貞)(左同)      
 ※ 「古代氏族系譜集成」 の詳細は、 前記検証一覧参照。
 
   眞田氏は戦国時代に突然出現したのではなく、鎌倉時代に既に存在していた。又、室町時代初期にも、眞田氏の記録が残る(大塔合戦に参加)。従って、江戸時代作成の系図が、眞田幸隆から始まるとするのは、怪しくなってくる。室町時代にも、抹殺された眞田氏が存在した可能性が高い。
(2006.11.19)
   中央の学会などでは評価されないが、地元の研究家の説の中には、注目すべき説もある。眞田氏を日本武尊の末裔の綾公の末という説と、信濃大伴氏の末裔という説である。一方は、奉戴する祭神から、一方は、牧場の経営という視点から浮上したものである。大伴氏説は、近年、「別冊歴史読本(新人物往来社)」や、「歴史群像シリーズ(学習研究社)」などでも紹介されている。どちらも系譜学の観点からは、眞田氏に至る系図が公開されていないので、直ちに評価は出来ないが、興味の持てる説である。古代信濃大伴氏が信濃滋野氏に変身したか、姻族・養子関係などで一体化したか、滋野氏の本来の本家を望月氏と仮定するなら充分その可能性は考えられる。後に海野氏の勢力が強くなってから、海野が滋野の本流という系図を作成したなら、現在に伝えられる系譜もある程度納得出来る。江戸時代には、更に清和天皇まで繋げる系図と伝説を創作したのであろう。それが仮冒であるのは、系譜研究の世界では今や常識、あえて当面の原型系図をというなら、紀伊国造同族楢原造系滋野朝臣(滋野氏)末裔という事になる。現在伝わる眞田系図は二重にも三重にも仮冒・改竄された系譜である。しかし、滋野氏系海野氏から眞田幸春が分立する以前に眞田氏が御家人の中に存在したとなると、我々は、幻の眞田氏の存在も検討する必要に迫られる。その系譜こそが、綾公や大伴氏に繋がる系譜ではなかろうか。しかし、それを、基本系図文献や参考系譜集で確認することは不可能である。地元の系譜研究家や歴史研究家に期待したい。
(2006.11.26)
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推定眞田氏系図(2)(眞田家の始祖は誰?)
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推定眞田氏系図(2)
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
   眞田氏は、江戸時代に眞田家関係者(松代藩主、旧沼田藩士ら)が作成した系譜(系図)では、海野氏宗家棟綱の子(或いは孫)、或いは、海野幸義の子を幸隆とし、眞田郷に住み始めて眞田氏を称したと記す。しかし、この主張は、武田家臣海野衆の中に、眞田右馬助綱吉という人物が実在した事により否定された。信濃には、幸隆と同時代に眞田氏は存在したのである。更に、矢沢系図などにより、眞田頼昌という人物が、幸隆の前の世代に確認された。眞田氏が海野氏の庶流として、幸隆の時に初めて創設されたのでない事は、「信州滋野氏三家系図」でも明かである。海野茂氏の弟(義弟?)に眞田七郎幸春という人物が掲載されており、この人物こそ幻の(抹殺された)眞田氏の始祖の可能性が高い。又、室町時代の1400年から1440年頃にも、眞田氏が資料により確認される事から、少なくとも室町前期、或いは鎌倉中期までは、系譜はハッキリしないが遡ることが出来る。鎌倉時代の承久の乱、及びそれ以降に、羽黒山に眞田氏が派遣された事が確認された(『出羽三山史』、他)。眞田氏が滋野氏一門同様牧場経営者の子孫であるとしたら、その成立は平安時代という可能性もある。その場合本姓は何かという問題が生じる。海野・禰津・望月の各家は、滋野氏の末裔と称し、江戸時代には清和天皇に系図を結びつけた。清和天皇末裔は否定されるが、滋野氏末裔説はなかなかの重みがある。しかし、古代牧場経営者の末裔が滋野氏に変身したとしたら何者であろうか? 地元の研究者などか注目するのが、牧場経営という視点から大伴氏末裔説、海野氏や眞田氏の奉戴する神社から、日本武尊末裔説が唱えられている。しかし、どちらもそれを裏付ける系譜資料や文献は確認・公表されておらず、現状では仮説の一つであり、当面は、信州滋野氏の末裔というところに落ち着いている。三家の系譜統合過程は、望月が本流とし、そこに禰津氏が繋がり、海野氏が後付的に合体後、滋野氏に変身した可能性が考えられる(国会図書館の望月氏系図や、「古代氏族系譜集成」の滋野氏系図から見て)。鎌倉時代以降、望月氏の地位が低下し、海野氏の地位が上がるに従い、滋野氏から兄弟同時分立、或いは海野氏から分立というように系図を書き換えた可能性も考えられ、複数の不整合な系図が作られたと推定される。更には各家の内部でも、時代が下ると、本家・分家の書き換え・改竄もあったのであろう。眞田氏は、天文10年、海野宗家に合力し、海野平の合戦で海野氏が、村上・武田・諏訪の三家連合に敗れて没落すると、上州の長野氏を頼り、その後、武田家で仇敵の信虎が息子の晴信(武田信玄)に追放されると、お家再興の野心を秘めながら武田家に臣従した。その後信玄の信頼を得て、北信濃・東信濃・西上州(上野国)の攻略を任されると、武田家領国の拡大を図りつつ、眞田の旧領地と旧海野領国の実質再興・支配を固めていく。その過程で、眞田幸隆は、旧海野氏宗家の後継者を自認したのであろう。そうすることで、小土豪・国人領主からの脱皮を図ろうとしたのではなかろうか。武田家の傘の下、周辺の有力国人や戦国大名に対抗しつつ、きたる眞田家独立の足掛かりを築いていったのである。海野宗家後継を意識し、海野一門を含む滋野氏一族を取り込むには一つの方便であったのだろう。しかし、海野氏の名跡は、信玄の息子の竜宝(海野二郎)が継承し、血脈海野家の家長的地位には、棟綱か幸義の血脈の者が嗣いだ様で、眞田幸隆は、海野姓に復する事はなかった。眞田幸隆は、海野氏嫡流男子ではなく、元々眞田氏の末裔だったから、海野氏を公式に名乗れなかったと見るべきであろう。それは、幸隆の三男の昌幸の家督継承を見れば明らかである。眞田幸隆は、系譜不詳ながら、古くから続く眞田氏の末裔で、海野氏没落後、旧海野領国を再構築する過程で、海野氏宗家の流れと僭称したものであろう。
(2006.12.19)
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推定眞田氏系図(3)(眞田家の成立は鎌倉時代か?)
 
推定眞田氏系図(3)
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
   眞田氏は既に鎌倉時代には、小土豪として存在していたと思われる。しかも、知られざる眞田氏が存在した可能性がある(三浦系岡崎流の佐奈田氏とは別)。その事については、推定眞田氏系図(2)でも触れている。注目されるのは、眞田七郎幸春及び、結城合戦に参加した眞田源太・源五・源六である。戦国時代の眞田家の各人物の幼名や通称等に注目すると、彼らが、結城合戦に参加した眞田氏の子孫かと思えてくる。推定眞田氏系図(2)では、幻の眞田本流に注目したが、(3)では、結城合戦に参加した眞田氏に注目したい。彼らが眞田七郎の直系か傍系かは分からない。この時代には複数の眞田氏の流れが存在した可能性が否定されないからである。では何故注目するのか。戦国眞田家の主な人物には、幼名や通称に「源」という文字が入っている。戦国眞田家の嫡男(幸綱・信綱)には「源太」、又、戦国眞田家最大の立役者の昌幸には「源五」、他の人々にも「源」が用いられている。そういう共通項から見た場合、何らかの繋がりがあるようにも思えてくる。眞田幸隆(幸綱)から見れば、四代ほど前の人物である。そうなると、戦国眞田家は、海野系眞田氏直系とは直接繋がらない可能性がある。推定した眞田氏直系も九代目以降曖昧な部分もあるので、同じ眞田でも別系(傍系)の可能性も考えられる。どちらにしても眞田氏は、結城合戦から百年近く小土豪として山間の郷で生き続けたのである。そして眞田幸隆の時代、海野氏宗家没落と入れ替わるように史上に出現したのである。武田信玄に臣従してから、眞田家の新たな時代・歴史が始まるのである。
(2006.12.20)
 【滋野氏と天狼の系譜:パート2】
真田氏と天狼の系譜へ続く
 真田氏と天狼の系譜
武田家中にあっては、譜代の家臣からは、外様という目を向けられつつも、捨て身で信玄に仕えて、信頼を得た真田幸隆(幸綱)、その子の昌幸は、当初は人質扱いであったが、やがて近習となり、信玄の母方縁者の武藤家の名跡を継承し、信玄の目と言われるほどの信頼を得た。実兄が長篠で戦死すると、真田家に復帰し家督を継承した。勝頼が織田・徳川の連合軍に敗れると、真田の支配地への避難と再起を勧めるが、譜代に押し切られた勝頼は、真田領に避難することなく譜代の裏切りで滅亡した。ここから、真田家の戦国大名への道が始まった。解き放たれた狼は、天を駈ける天狼となった。徳川の天敵の誕生である。戦国後期、天下統一に向かいつつある時代を知略と謀略で生き抜いた武将。もし武田信玄が上洛途上で病没せず、織田・徳川連合を撃破して天下を握っていたら、真田昌幸が、織田家に於ける秀吉のごとき存在になっていたかもしれない。或いは、秀吉が恐れた黒田如水のような存在になったかもしれない。天が真田昌幸に与えた役割は、天の大極星(天下人)ではなく、天下人を翻弄する孤高の狼の役割であった。それを引き継いだ幸村も、天下人を震撼せしめた孤高の狼であった事は疑いない。
大坂城の豊臣譜代に、幸村の力量を評価できる人物がいなかったのは幸村の悲劇である。大坂夏の陣まで、昌幸が生きれなかったことも天狼真田の悲劇であった。しかし、その血脈は、大坂夏の陣以降も生き続け現代に至っている。そのあたりの事は別項で紹介する。
(2007.3.6)
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