扶桑家系研究所 リポート4−2 
真田氏と天狼の系譜
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【扶桑家系研究所リポート4−2】
真田氏と天狼の系譜
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※ 初めての方は、先に『滋野氏と天狼の系譜』をお読み下さい。
 真田氏一族概略系図 真田幸隆兄弟と戦国真田氏一族 戦国以降の真田氏一族 松代藩主真田家一族 江戸初期・前期真田氏姻族系図(真田騒動関係系図) 真田氏姻族系図(小山田氏概略系図) 仙台真田氏系図 真田氏姻族系図(片倉家)
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天狼、天を駈ける孤高の狼。戦国時代、仇敵の許で家を再興した父の跡を受けて、大名の家臣から、小粒とはいえ戦国大名となり、周囲の大大名と渡り合い、ついには天下人をも翻弄しながら己の領地を確保した漢。秀吉を利用し独立を維持し、家康に煮え湯を飲ませた漢。息子の一人は、秀吉の遺児に与力し、大坂の陣で家康の本隊を敗走させ、一時は家康を窮地に追い込んだ。父(幸隆)と息子(幸村)で真田三代と喧伝されるその中心人物、徳川の天敵。それが真田昌幸である。天下人に表裏比興の者と言わしめた傑物である。幸隆(幸綱)・昌幸・信繁(幸村)の三代が「真田三代」と喧伝されるが、信繁の実兄の信幸(信之)も幕府と渡り合い、お家騒動を押さえて真田家を大名として近代まで存続させる礎を築いた名君である。真田家は、幸隆・信綱・昌幸(信綱実弟、兄の戦死後、武藤家より復籍して家督を継承する)・信幸(信之:初代沼田城主、後二代上田城主、後初代松代城主・初代松代藩主) と戦国真田家の嫡流は継承された。信繁は部屋住のまま秀吉直臣となり、二代目上田城主継承権者となるも、関ヶ原の合戦の時には、父と共に西軍方として、徳川秀忠を上田城の戦い(第二次上田合戦)で翻弄し、関ヶ原の合戦に遅参(合戦に間に合わず)させ、家康を激怒させた。関ヶ原では東軍が勝利し、信繁(幸村)は、父と共に上田城を追われ、紀州久度山へ配流となり、上田真田家は滅亡し、信繁が大名になる道は閉ざされた。真田信繁(幸村)は、大坂夏の陣で討ち死に、嫡男大助も大坂城で自刃するが、その死後も伝説を残す(秀頼の九州落ちの伝説や讃岐真田氏の誕生など不可解な謎を残す)。このページでは、系図文献の他、歴史雑誌で紹介された真田六文会の調査系図なども勘案しながら、戦国真田氏一族の系譜を紹介する。真田幸村は大名にはなれなかったが、秀吉の晩年には豊臣姓を許されているし、幸村自身の関知しないところで、豊臣秀次の血脈を残す事になる。真田家と豊臣家の不思議な縁である。
(2007.3.6)  
真田氏の系譜は、滋野氏の末裔とされる海野氏の傍系の可能性が高いが、真の真田氏系図や遺跡は抹殺され、正系の確定が難しい。戦国真田家は、海野流真田氏の直系ではなく、真田氏傍系の可能性も考えられる。現状では、真田幸隆以前の系譜を確定させる術はないが、少なくとも海野幸義の末裔とする説は疑問である。 
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真田氏一族概略系図
 
海野幸義の末裔とする説は、各種系図の比較分析により疑問が浮上している。疑問というより否定の方向という方が正しいかもしれない。海野氏嫡流でないとすれば、真田氏はどういう系譜なのであろうか? 郷土史家や系譜研究家の先達の研究によれば、海野氏嫡流の姻戚関係であり、鎌倉時代に海野氏から分かれたか、古代豪族の流れということになるらしい。戦国の真田氏が幻の真田氏の直系か、或いは傍系か正確なところは分からない。推定真田氏系図に関しては、別記の「滋野氏と天狼の系譜」の「推定真田氏系図」を参照されたい。本項では、「幻の真田氏系図」を切り離した形で検討した。
 
真田氏一族概略系図
  
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
戦国真田氏一族は、幻の真田氏(滋野氏と天狼の系譜「推定真田氏系図」参照)との系譜関係は定かでない。真田氏嫡流ではなく傍系の可能性も考えられる。通称などから見ると、室町前期に登場する真田源太の一族末裔の可能性も考えられる。その点は、前記系図も参照して下さい。
戦国真田氏は、真田源太左衛門・弾正忠幸綱(真田一徳斎・通常系図では「幸隆」と表記されている)とその兄弟から次第に明らかになってくる。弟達は、矢沢氏・常田氏・鎌原氏などを称する。真田氏は、一度領地を失い、その後、弾正忠幸綱(幸隆)が、武田信玄(当時は晴信)に仕え、信濃攻略の先兵となり旧領回復に成功する。独立大名でなく武田家臣ではあったが、大きな一歩であった。武田家が滅亡すると、真田家は小さいながらも独立大名として、北條・上杉・徳川・羽柴(豊臣)家などと渡り合い、その領地を守り、秀吉に臣従することで、徳川の圧力をはねのけ、豊臣体制に於ける戦国大名として生き残った。海野氏・望月氏・禰津氏本流などの滋野氏同族は、武田家に滅ぼされ、その後、一時期、禰津氏の傍系が大名になった(その後断絶)例はあるが、真田家の様に近世大名としては生き抜くことが出来なかった。真田家の戦国時代の人々は、知将・謀将・名君が続き、江戸時代初期に外様大名が改易された時にも生き残った。秀吉と家康と渡り合った真田昌幸。大坂の陣で家康に冷や汗をかかせた真田信繁(幸村)、お家騒動の危機の時、幕府と渡り合って危機を回避した真田信之。この親子・兄弟は、真田一族歴代の中でも特筆すべき存在である。彼らの活躍で真田の名前は天下に広まり、現代に於いても、多くの歴史ファンの支持を集めている。小大名でありながら天下人をも翻弄した孤高の狼、天駈ける狼、まさに真田は「天狼」である。その中心人物は、表裏比興な漢と呼ばれた真田昌幸である。本項では、戦国真田氏の一門と天狼・真田昌幸の系譜・血脈を、系図集・歴史雑誌・真田氏関係図書などを勘案しながら紹介していこうと考えている。既に他の真田氏関連のサイトで紹介のものと重複する部分もあるが、共通する原資料もあるので、同様の結論に近い場合もある。当サイトでは、系譜をベースに検討するので、結論の類似する部分は了解願いたい。
(2007.3.9)
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真田幸隆兄弟と戦国真田一族】
 
真田幸隆(幸綱)は、真田氏の中興の祖であり、戦国真田家の事実上の初代であるが、何人の兄弟がいたのであろうか。三人とも、四人とも、五人とも記され、各系図にも食い違いがある。各種系図や地元の史料などをベースに研究された先達の著書などによれば、矢沢・常田・鎌原氏の祖は、真田幸隆の弟と考えられる。彼らの子孫は、やがて武田家への臣従を経て、真田家が独立大名となると、臣従し重臣となった。各家は、本来小土豪の系譜だが、真田氏から養子を迎え、或いは復活名跡として真田家の同族となり、近世幕藩体制下では、真田家の譜代として、真田家を支えた。萩原氏に関しては疑問な部分もあり、更なる史料の裏付けが必要であろう。
真田幸隆兄弟と戦国真田氏一族
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
真田一族の子孫は、矢沢氏や常田氏は、武田家家臣から、真田家与力、真田家家臣となる。金井氏は、後に帰農した。真田家は、幸隆の没後、信綱が継承するが、勝頼の命により長篠合戦に出陣し、弟の昌輝と共に戦死、一年ほどの当主であった。その跡は、武藤家を継承していた昌幸が、武藤家より真田家に復籍して兄の家督を継承した。加津野家を継承していた信昌も、時期は不明(恐らく武田家滅亡後)だが、真田姓に復帰し、武田家滅亡後は、紆余曲折を経て徳川家康に仕え、幕臣真田家の祖となる。昌幸の次兄昌輝の子孫は、越前松平家に仕えたという。昌幸以降の真田家は、戦国から近世への激流を生き抜き、信之の子孫は、大名・旗本の系譜を伝えた(表の真田家)。弟の信繁(幸村)は、関ヶ原合戦の時には、父と共に西軍方に属し、徳川秀忠を上田城の合戦で苦しめ、西軍が敗北すると、九度山へ配流となり、大坂の陣の時には、浪人部隊として豊臣家に与力し討ち死にした。しかし、その血脈は密かに生き残った。同族縁者の助けもあり、裏の真田家(正史では、幸村の系譜は、大助の自刃で断絶)も近代・現代に至っている。この系譜については、暫時紹介する。
(2007.3.11)
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戦国以降の真田氏一族
 
戦国時代、一度は没落した真田氏は、仇敵の武田家に仕える事により、旧領回復を狙い、幸隆やその子供達は、必死で仕え、信玄の信頼を得て、信濃攻略や西上州攻略に取り組んだ。結果、領国再興の足掛かりを得、武田領内に於いて、事実上旧領を回復する。その結果、武田家滅亡後は戦国大名として独立する。その後、周辺の大大名と渡り合い、上杉景勝との提携をきっかけに豊臣秀吉にも接近する。真田家は、家康と秀吉の思惑に振り回されるが、自立を保ち、秀吉に仕える。秀吉と家康が和解、その後の小田原征伐で北條家が没落すると、信濃の小大名は、家康の与力扱いであり、家康の関東移封により転封となるが、家康に仕えた信幸(後の信之)は、上州沼田城主の地位を家康にそのまま認められ、事実上の沼田藩が成立した(形式的には、父の領国の一部)。父の昌幸は、家康の与力大名になる事をよしとせず、信繁(俗伝では、幸村の名で知られる)を秀吉に出仕させ、自身も秀吉の直臣となり、信州上田を中心とした本領を支配した(豊臣家直臣上田真田家徳川家康幕下の沼田真田家に分裂)。これが、関ヶ原の合戦の時に、信之が徳川幕下に残り(東軍方)、父の昌幸と弟の信繁が、犬伏での会合の後、真田賞幸・幸村親子の上杉家討伐軍からの離脱(反徳川=西軍方と同類)となる。結果として、上田の真田親子は徳川本軍(総大将徳川秀忠)と戦うことになる(第二次上田合戦)。しかし、この戦では、上田城は落城せず、秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。関ヶ原の合戦が東軍の勝利となると、上田の真田家は改易されたが、当時の作法により、父の本領は信之に与えられ、尚かつ徳川家への忠義により加増され、上田・沼田九萬五千石の大名となる。大坂夏の陣で豊臣家が滅亡して八年後、上田から松城(のち松代)へ加増の上で転封となり、永年の領国である上田領を失った。以後、真田家は松代藩主となる。この間、沼田三藩三万石(真田信吉)(埴科藩一萬七千石=真田信政一萬石+真田信重七千石)を分封し、信之は十萬石(直轄領松代八萬三千石と埴科領一萬七千石)を支配した。埴科藩は二代で廃絶・本藩吸収で松代藩主は十萬石となる。こうして真田家は戦国大名から近世大名へと移行する。沼田藩三萬石は、その後分封藩から独立藩となるが、五代目の真田信利の時に改易となる。松代藩十萬石は生き残り幕末に至る。松代藩真田家は外様であるが、幸貫(ゆきつら・松平定信の息子)は老中となる。先代が井伊家からの養子であったので、譜代格となり、幸貫が徳川吉宗の血脈であった事も老中就任に繋がったのであろう。幸貫は、佐久間象山を息子幸良の近習とし、幸貫が海防係となると象山を顧問に登用した。幸貫の後は、孫の幸教が家督を継承した。その後は、宇和島藩主伊達宗城の次男が家督を継承(真田幸民)、戊辰戦争では新政府軍に参加する。幸民は藩籍奉還の後は藩知事となる。華族制度が導入されると子爵に叙され、その後伯爵に叙される。大名真田家は、昌幸の男系は絶えたが、家系は現在まで続いている。真田と言えば、幸隆・昌幸・幸村の謀将真田三代が有名だが、藩祖の真田信之も父の昌幸に劣らず謀将であり、信之が長命であったことが、お家騒動(三代目の家督争い)を乗り切り、松代藩主真田家を幕末まで存続させたのである。
 
戦国以降の真田氏一族の系図
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
(2007.4.8)
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『松代藩主真田家一族』
 
松代藩主真田家一族
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
関ヶ原合戦以降の真田家は、旧上田領主真田家の没落により、信之を惣領とする上田藩主真田家(上田・沼田九萬五千石)が一族の中心となる。その後、信之が松代へ転封(四萬石を加増され十三萬石余)となると、信之は松代の経営に専念(十萬石で直轄領八萬三千石)、沼田(三萬石・真田信吉)、埴科(一萬七千石・真田信政、直轄一萬石、七千石・真田信重)を分封した(沼田は半独立、後に正式に独立)。沼田藩は五代で改易、埴科藩(松代分封藩)は二代で消滅、本藩へ併合となる。結局幕末まで存続したのは松代藩のみである。この家系は、本来の真田氏の血統は途中で断絶し、養子が継承した。八代藩主の真田幸貫(さなだ・ゆきつら)は、天狼・真田昌幸の天敵・徳川家康の末裔である。幸貫は譜代格の扱いで老中に就任した。幸貫は海防係になると、相談役として佐久間象山を登用した。最後の藩主は伊達家より養子に入り、明治の華族制度導入で伯爵に叙される。この系譜が現代に至る。幸貫の庶子の血脈は、明治時代に男爵となる。これにて、表の真田氏の系図は一区切りとする。関ヶ原で没落した旧真田家の系譜については、今後暫時紹介する。
(2007.4.10)
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『江戸初期・前期の真田氏姻族系図』(参考.真田騒動関係系図)
 
真田騒動関係系図(江戸初期・前期姻族系図)
 
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関ヶ原の合戦の後、西軍方と見られた旧上田真田家が改易処分となると、その領地は、真田信之に与えられ、上田・沼田真田家(新上田真田家)が成立し、沼田を本拠地として上田を支配した。信之は、大坂の陣で豊臣家が滅亡して八年後、松代へ加増転封となる。沼田はそのまま真田家が領有したので、長男の信吉が分封沼田藩主となり、次男信政と三男信重は、松代周辺(埴科・川中島周辺)を分封された。沼田藩は、その後、信吉の嫡男熊之助が相続したが早世、弟(後の、信利・信直・信澄)も幼く、廃絶の危機となったが、松代分封藩主の信政が、五千石を捨て扶持として信利に与え、沼田真田家の四代目を継承した。自身の松代分封藩は実弟の信重が自分の領地と併せ一萬七千石を相続した(埴科藩主)。その後、信重には嗣子がなく、父親の松代藩に統合される(松代十萬石)。その後、信之の隠居により、沼田藩主の信政は、本藩たる松代十萬石を継承し、松代二代目藩主となり、沼田藩は、信利が継承、自領と併せ、沼田藩三萬石・沼田藩五代目当主(沼田藩主)となる。この時より、沼田藩は、信之の管轄を離れ独立藩となる。これで二藩の真田家が並び立つかと思われたが、本藩を継承した信政は、お国入りから半年余りで急逝する。ここで松代三代目藩主相続問題が浮上する。二代目の信政は、庶長子の信就(当時旗本、廩米二千俵)の継承を認めず、末子の信房(後の三代目藩主幸道)への相続を遺言した。隠居の信之もこれを尊重して、三代目候補として幕府へ申請した。常々自分が真田家の本流と自負していた沼田五代目当主で沼田藩主の信利は、従兄弟の高力高長や父の正室の甥の酒井忠清(老中首座)らを巻き込んで、松代藩相続を働きかけたという。松代藩と幕府中枢の間で幾度か交渉が持たれた。二代目藩主信政の旧臣(沼田侍)を中心として家臣団が、沼田真田家の本藩相続に反対していた事もあり、結局、遺言状が尊重され、信房(真田幸道)が、二歳余で本藩を継承した。真田信利は、そのまま沼田藩主にとどめ置かれた。相続問題はこれで片づくかと思われた。しかし、次には遺金の問題が発生する。
※ 某研究家の説によれば、信利派の人物は、実は、三代目相続に協力したという(別冊歴史読本)。
近世真田家の祖の信之は、幸道の三代目継承を見届け数ヶ月後に没するが、そうすると、沼田藩より、遺金の分配請求を求められた。この時も酒井忠清らの圧力があったと云われるが、松代藩はその要求を拒絶し、最終的には沼田の要求は退けられた。すると、四代目の信政が、沼田真田家から七萬両余りを持ち出したとして返還要求を突きつけたが、これも拒否、真田信利の要求は退けられた。結局、これらの問題が片づくまで、三代目継承のしこりは残ったということである。
沼田真田家の信利は、松代真田家への対抗意識であろうか。三萬石(新田開拓しても四萬石程度)の沼田藩を拡大検地により十四萬石に水増しした。結果は領民への重税ということになる。領民は疲弊し、磔茂左衛門事件等が発生する。更には両国橋の掛け替えに絡んでトラブルを起こし、信利及び嫡男信音は評定所へ呼び出し尋問の後、改易・他家預けを命じられ、沼田真田家は五代、百年弱で廃絶となった。後に信音が許されて旗本として復帰(廩米千俵、後に采地千石)するが、無嗣により食禄没収となる。後に一門の真田信興が名跡を継承するが、その子の政賢に至り不行跡により追放処分となり、沼田真田家は三度目の廃絶となり、父(信興)の実家の真田信清も連座で改易となる。ついに沼田真田家は、大名家・旗本家の地位を失い復活することはなかった。真田騒動は沼田真田家廃絶の遠因にもなったと云いえる。
(2007.5.4)
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『真田氏姻族系図』
 
真田氏姻族系図(小山田氏関係系図) 
 
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真田昌幸の長女は、村松殿と呼ばれる。生没年不詳(一説.永禄8年=1565生まれ、寛永7年=1630.6.20没)。元武田家臣で、後に真田昌幸に仕えた小山田壱岐守茂誠に嫁す。関ヶ原合戦後九度山に配流となった実弟信繁(真田幸村)と書状のやりとりをする。息子の主膳之知は、大坂夏の陣の前に幸村と会ったという。又、使者から主膳に姉の村松殿宛の書状を託している。村松殿の娘は、近江仁正寺藩主の市橋長政に嫁す。
(2007.5.17)
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『真田信繁(幸村)の末裔・姻族』(仙台真田家関係系図
 
仙台真田家関係系図
 
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謀将真田家の系譜は、幸隆・昌幸(初代天狼・二度の上田合戦で徳川軍を敗る)・信繁(俗書の伝える幸村の名前で知られる二代天狼・第二次上田合戦、大坂の陣で徳川軍を翻弄、一時は徳川の旗本隊を壊滅に追い込む)が喧伝される。大坂夏の陣で嫡男大助が自刃、信繁(幸村)も討死して信繁系の真田家は断絶したと思われていたが、次男の大助(片倉守信)が、仙台藩重臣の片倉家に匿われたことが、『宮城県姓氏家系大辞典』や、『仙台真田代々記』、『歴史読本』などにより明らかとなった。三男の幸信は、祖父の旧姓の三好を称し、岩城家に庇護された。仙台藩では、徳川の天敵・真田幸村の名を隠匿し、幕臣真田家の末裔として、重臣片倉家に庇護させ、後に仙台藩士としている。仙台真田家本家は途中、他姓の者を養子とするが、九代幸清は真田分家より本家を継承し、幸村の血脈が復活した。後に男系が絶え、女系より名跡を継承している(真田治彦家)。分家の方は、真田幸修(豊治)の息子の直の跡は、小西氏も調査されたが判明しない。『仙台真田代々記』によれば、小西幸雄氏は、真田分家女系の末裔。
   真田幸村の末裔は、女系では片倉氏(旧姓.田村氏)が仙台の関係資料で確認される。仙台以外では、岩城家と同家に庇護された三好家が女系の末裔であり、石合家や蒲生家も女系血脈である。讃岐の真田家も幸村の四男末裔と称するが、こちらは出自に不明な点もあり、断定しがたい。真田六文会は、幸村の四男の系譜として紹介している。幸村の子供は、男女十二名とも十三名とも伝えられる。従って、子孫がいても不思議ではない。歴史の表舞台からは退場しても、幾人かの人々に支えられ子孫を残したということである。その他にも自称幸村末裔もおり、こちらは伝説の範疇である。幸村こと真田信繁は、最後まで家康を苦しめ、敵からも「日本一の兵」と賞賛された希有な武将であった。従って色々な伝説も生まれ、時にそれは、秀頼の九州落の伝説にも絡んでいった。本来、真田三代とは、幸隆・昌幸・信之とすべき所、俗伝では、兄を押しのけて、幸村が三代目になっている。庶民にとっては、真田三代を幸隆・昌幸・幸村とした方が、わかりやすいということか?
(2007.5.30)
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『真田信繁(幸村)の末裔・姻族』(片倉家)
 
片倉家系図
 
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前記の仙台真田家は、伊達家重臣白石城主片倉家の庇護により、生き延びたが、白石片倉家は、浪人していた田村家も庇護し、縁戚となり片倉姓を許し、真田女系田村流片倉家が誕生した。白石片倉家は、二代重長の時に真田幸村の娘を庇護、後に後妻とするが、子供はなく、従って姻族ではあるが女系ではない。
真田六文会などの調査系図は、女系のように記しているが、それは正しくない。
田村系片倉家は、片倉小十郎景綱の異父姉喜多(喜多子)の名跡を継承して片倉を名乗る。資料の一部に食い違いがあるが、参考に併記した。田村系片倉家は後に石森片倉家とも記される。
(2007.6.9)
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