扶桑家系研究所リポート3,織田信長の系譜
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織田信長の系譜
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   尾張の織田信長は、 尾張国下半国の守護代織田家の奉行の家系の出身である事は知られているが、 その系譜には不明な部分がある。   江戸時代に作られた系図では、 桓武平氏・平清盛の孫・平資盛の末裔という事になっている。 しかも、 尾張織田宗家の古岩倉織田家は抹殺され、 清洲織田家の織田敏定に系図が結び付けられている。 しかし、 織田信長は、 織田敏定の末裔ではない。

   織田信長の家系は、 弾正或いは、 弾正忠の名跡を継承した織田傍系であり、 清洲織田家の古い傍系の可能性が高い。 清洲守護代家の織田敏定に直結するとは考えられない。 もしそうであるなら、 信長の父親の織田信秀が、 清洲織田家を乗っ取っていたであろう。

   信長の父親は、 清洲織田家の奉行でありながら、 三河の松平、 駿河の今川、 美濃の斎藤などど戦っている。 大名並の軍事指揮権を握っていたのである。 しかし、 統治権までは握れず、 清洲織田家三奉行(弾正忠・藤左衛門・因幡守)の一人という地位に止まっていた。 とは云っても、 津島・勝幡を拠点に、 小大名並の経済基盤を持ち、 主家を倒す力は充分に蓄えていた。

   やがて美濃の斎藤道三と同盟を結ぶ事に成功し、 娘(俗に濃姫と伝えられる)を信長の嫁に迎える事となる。 道三と会見した信長は、 「うつけ」から凛々しい青年武将へ変身して、 道三の前に現れたが、 この時、 道三は信長の資質を見抜き、 自分の息子達は信長臣下となるだろうと家臣に語ったと伝えられる。 道三は、 信長に隠居後、 美濃を譲ってもいいと考え、 その事を長男義龍が察知し挙兵、 道三軍を撃破し殺害、 戦国大名斎藤家二代当主となり、 美濃と尾張は手切れとなり再び争う事となる。 三代目の龍興の時、 永禄7年(1564)に家臣の竹中半兵衛らに稲葉山城を乗っ取られる(後に返還)。 この後織田軍に攻められ、 同年或いは翌年の永禄八年に、 斎藤龍興は稲葉山城(後の岐阜城)から逃亡・落城したとも伝えられるが、 某帝国大学の教授の主張により、 岐阜城は永禄10年(1567)落城・美濃平定併合・信長の岐阜城入城がごく短期間に行われた事になっている。

   愛知県の某郷土史家によれば、 永禄7年から8年に落城し、 その後、 抵抗勢力を懐柔或いは殲滅しながら、 庶民の人心掌握に努め、 旧斎藤家臣で織田家に臣従した者らの協力も得ながら美濃国内を平定・安定化したのを見届け完全併合して、 岐阜城に拠点を移したと主張される。 永禄10年落城説が通説化する以前の物語などでは、 永禄10年以前落城説を採り入れているらしい。

   斎藤龍興が逃亡したからと云っても一族は殲滅されていないから、 家臣がその内の誰かを四代目に擁立して反織田軍として抵抗する可能性もあったし、 美濃三人衆は、 早くから内応したが、 長井一族は、 かなりの期間抵抗した様なので、 落城から数カ月で完全併合というのは、 当時の織田家の力からすると厳しいような気もするが・・・・・。 だから、 永禄7年頃には、 ある程度の地位(信長の書状に添え書き出来る)にいた藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、 永禄9年に墨俣に一夜城(砦)を造った事になってしまったのである(「信長公記」 によれば、 墨俣には、 砦があり、 それ以前の美濃攻めの時に、 信長も入った事があるらしい)(年次不詳だが、 加納か伏屋に砦を築いた話が、 墨俣にすり替えられたという説もある)。

   永禄10年に完全に美濃を平定併合して岐阜に拠点を移した信長は、 天下取りを意識する。 織田家が平氏の末裔と称したのは、 この辺りからではなかろうか。 或いは、 足利義昭を擁立して上洛し、 将軍に就任させたが対立、 追放した時点かもしれないが・・・(源平交替)。 尾張時代には、 本姓藤原氏を自称していたので、 桓武平氏末裔というのが後世の改竄なのは明白である。
(2006.1.10.随時更新)
齋部(忌部)茂藤--春光--頼友--頼成--明成--頼親--親光--親澄--親眞(津田親眞・織田権太夫)--親基(織田権太夫・津田親基)--津田三郎右衛門尉基実--織田常昌(藤原道意)--常勝==教広--教信(常松)--郷広--敏広(伊勢守)==良広(寛広?)--親広--広忠(古岩倉織田家) 
※ 織田敏信(清巌・常也・常巴)--信安(照巌)--信賢(新岩倉織田家)
織田常昌(藤原道意)--教広(藤原信昌)--教信(藤原将広・織田常松)--郷広--敏広(伊勢守)--広遠--広高==信安(新岩倉織田家)--信賢   ※ 織田郷広--広近--寛近==信康--信清(犬山織田家)
織田常勝--常任(常竹)--勝久  ※ 織田教広==常任(常竹)--勝久--久長(常祐)--敏定(大和守・常英)--寛村(常巨)==達定(寛村同一人物か?)==達勝==信友(織田彦五郎)(清洲織田家)
織田常任--勝久--敏貞(次郎左衛門尉)--敏正(弾正忠・良信・西巌)--信貞(弾正忠・信定・月巌)--信秀(弾正忠・備後守・桃巌)--信長(弾正忠・上総介・泰巌)--信忠--秀信(三法師)【改易・断絶】(出典『織豊興亡史』p.150-151.「推定織田氏系図」抜粋)
信長の家系は、常竹系統・清洲織田家の古い傍系、楽田織田家の末裔か?
(2006.1.14.更新)
   織田一族の系図は、本来の岩倉家(古岩倉織田家・伊勢守家・尾張織田家宗家)の系譜が抹殺された事、清洲織田家(大和守家)の系譜も混乱・改竄がある事、更に織田信長が尾張を統一し、美濃も併合して天下取りを意識したあたりから系図の改竄が行われ、本来の織田一族の系図の姿が失われた事も、この系図に多くの謎をもたらした。各研究者も挑戦しているが、完全な復元は難しい。私も先達の研究を踏まえ、各種系図も勘案し、一応の推定系図を作成した。本推定系図の作成には、古代氏族研究会の宝賀寿男氏の論考が大いに参考になった。
 
   この推定系図が、どこまで本来の系譜に近づいたかは分からないが、少なくとも、大和守織田敏定に、信長の祖父の織田弾正忠信定(本来の名前は、信貞と推定される)を繋いだ系図は、改竄系図と指摘しても、間違いではなかろう。私は、そういう系図は怪しいものと考える。
 
推定織田氏一族系図(弾正忠織田家のルーツ)】
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推定織田氏一族系図
 
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   岩倉織田家は、本来の岩倉織田家と、後の岩倉織田家と二流あったのではなかろうか? 後の岩倉織田家は、織田敏貞流つまり、織田弾正忠家の一族の可能性が、法名から読み取れる。但し異説では、大和守家の一族(法名の類似性)を示唆している。断定は難しい。信長の系譜は、清洲織田家を本流とし、そこへ弾正忠家の系譜を繋いでいるので、本来の宗家である古岩倉織田家は、早い段階で抹殺されたのではなかろうか。著名な学者・研究者が歴史雑誌などに系図を発表しているが、一致するものがない事が、復元の難しさを物語っている。
(2006.2.27)
織田一族の系譜  織田一族系図・パート2
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