扶桑家系研究所 リポート3−6 
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扶桑家系研究所 リポート3−6
目次
(織田一族の系譜・パート5)
(復元織田一族系図・パート5)
先に織田信長一族の推定系譜を紹介したが、本ページでは、織田一族のルーツ及び『寛政重修諸家譜』などで抹殺された織田弾正家(弾正左衛門・弾正忠)の系譜(織田信貞以前の系譜)などを先達の研究も引用しながら紹介していこうと思う。江戸時代に編纂された織田家の系譜はどうしても信長中心になるが、実際の信長の家系は、織田家の傍系の傍系で、信長出現までは、清洲織田家の家老・奉行の家柄の一つに過ぎなかった。信長がいなければ織田家は周囲の戦国大名に蹂躙されていたかもしれない。父親以上に卓越した能力を持つ信長は、遂に父親を凌駕して守護代家を倒して尾張を統一し、苦戦しながらも美濃も併合して天下を狙える戦国大名に成長した。信長が天下を狙うと、織田家を平家の末裔と主張し、江戸時代の系図では、岩倉織田家や清洲織田家の系譜を抹消し、織田弾正忠家中心の系譜を作成した。いわゆる平家落胤系図である。拙著『織豊興亡史(今日の話題社)』でも織田一族の系図を紹介したが、戦国までが中心だったので、今回は可能な系譜については江戸時代まで含めて追跡したい。
(2010.11.23)
このページでは、清洲織田家とは切り離し、本来の織田弾正家一門の系譜が追跡できればと考える。通説系図では、信長の祖父を信定と記し、清洲織田家の織田敏定の系譜に結びつけているが、妙興寺などの記録によれば、信長の父の信秀(桃巌)の祖父を西巌と記す(すなわち信長の曾祖父は、西巌)。この人物は、清洲宗論に登場する奉行・判者の一人、織田弾正忠良信と、多くの先達が推定している。『織田信長事典(岡本良一、奥野高廣、松田毅一、小和田哲男.編、新人物往来社)(1981)』では、新井喜久夫氏の『清洲町史』掲載の「織田氏系譜に関する覚書」により、織田良信(弾正忠、西巌を初代とし、三法師・岐阜城主従三位権中納言織田秀信までの一族概略系図を掲載している。
(2016.6.1)
織田敏定(大和守、常英信定(弾正忠、月巌)−信秀(弾正忠備後守、桃巌)−信長(上総介弾正忠、泰巌)−信忠−秀信(関ヶ原西軍、改易)  ★ 通説系図(改竄織田系図
織田良信(弾正忠、西巌)−信貞(弾正忠、月巌)−信秀(弾正忠備後守、桃巌)−信長(上総介弾正忠、泰巌)−信忠−秀信(関ヶ原西軍、改易)  ※ 地元の文献では、信貞と記されるが、系譜は信定と記す。
織田弾正家(勝幡織田家)
信長のルーツは、『信長公記』により、織田西巌まで遡ることが出来る。この人物は、多くの先達により、織田敏定の家臣で、清洲宗論に登場する織田弾正忠良信と推定されている。そこから先は判然としない。織田一族で弾正と称する人物は、『満済准后日記』の正長元年8月6日条に見える織田弾正で、在京し、尾張織田家初代守護代織田常松に近侍した人物として歴史に登場する。その実名は不明。仮に、この織田弾正が信長の本来の先祖としても、織田弾正から、織田弾正忠良信に至る系譜は、基本系図集(『系図纂要』、『群書系図部集』、『系図綜覧』)では確認できない。
尾張織田氏(織田信長)系図
【通説】
常昌―常勝―教広―常任―勝久―久長(常祐)―敏定(常英)―信定(月巌)―信秀(桃巌)―信長(泰巌
常昌―常勝―教広―常任―勝久(弾正左衛門尉)―久長(弾正左衛門尉)―敏定(蓮光院常英)―信定(月巌弾正左衛門尉・弾正忠)―信秀(桃巌道見備後守・弾正忠)―信長(泰巌・弾正忠・上総介)(『系図纂要』)
【常松末裔説】
常松―■■(大和守・勝久?)―久長(大和守・弾正忠・常祐)―良信(西巌備後守敏信)―信貞(弾正忠・月巌常照)―信秀(備後守・弾正忠・桃巌道見)―信長(弾正忠・上総介泰巌安公)(横山住雄.説)(良信・敏信同一人物説)
織田信長の系譜 推定織田氏系図
目次
00. 織田氏の系譜(70) 『旅とルーツ』、『尾張群書系図部集』、他。
0. 織田氏の系譜(71) 『尾張群書系図部集』、他。
織田一族の系譜  織田一族の系譜・パート2  織田一族の系譜・パート3 織田一族の系譜・パート4
1. 織田氏の系譜(72)(弾正家一門) 『旅とルーツ』、『尾張群書系図部集』、他。
2. 織田氏の系譜(73)(織田弾正家) 『新訂寛政重修諸家譜』、『系図纂要』『群書系図部集』、他。
3. 織田氏の系譜(74)(織田弾正家) 『織田家の人びと』、『尾張群書系図部集』、他。
4. 織田氏の系譜(75)(織田弾正家) 『尾張・織田一族』、『織田家の人びと』、『尾張群書系図部集』、他。
5. 織田氏の系譜(76)(織田信長の系譜) 『天童藩織田家譜・正本』、『天童藩織田家譜・副本』、『鈴木本・織田系図』、東大史料編纂所アーカイブデーター、他。
6. 織田氏の系譜(77)(織田信長の系譜) 『歴史と旅』、『織田信長の系譜』、『旅とルーツ』、他。
7. 織田氏の系譜(78)(織田信長の系譜) 『日本家系・系図大事典』、『織田信長の系譜』、他。
8. 織田氏の系譜(79)(織田信長の系譜) 『織田信長の系譜』、『旅とルーツ』、『信長公記』、他。
9. 織田氏の系譜(80)(織田信長の系譜) 『旅とルーツ』、『尾張群書系図部集』、他。
10. 織田氏の系譜(81)(織田信長の系譜) 『旅とルーツ』、『織田信長総合事典』、他。
11. 織田氏の系譜(82)(弾正忠と三奉行) 『戦国大名と国衆6 尾張織田氏』、『織田信長の系譜』、他。
12. 織田氏の系譜(83)(織田弾正忠) 『新訂寛政重修諸家譜』、『旅とルーツ』、『織田信長総合事典』、他。
13. 織田氏の系譜(84)(弾正忠家一族) 『織田信長総合事典』、他。
14. 織田氏の系譜(85)(織田信長の系譜)
15. 織田氏の系譜(86)(織田信長の系譜)
16.
 
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織田氏の系譜(72)
 
織田氏の系譜(72)
 
織田信長の先祖は、織田常松の老臣の織田弾正か? 『織田系譜に関する覚え書き(新井喜久夫論考/「清洲町史」掲載)によれば、織田弾正は、織田常松に近侍し、応永35年8月、織田常松が重病になった時、三宝院満済より見舞いの使者が送られた時、応対したのが、織田弾正と、『満済准后日記』に記されているという。
(2016.8.17)
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織田氏の系譜(73)
 
織田氏の系譜(73)
 
織田信長の系譜は、『信長公記』地元の寺の記録などにより、曾祖父の西巌まで確認できるが、通説系図では、信長家系の事実上の初代「織田西巌」を確認することは出来ない。これは、信長の祖父の月巌(織田信貞)を、清洲織田家の敏定に結びつけ系図改竄を行ったからである。江戸時代に流布した織田系図は、戦国以前については、改竄系図であり、信用できないということである。
(2016.8.19)
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織田氏の系譜(74)
 
織田氏の系譜(74)
 
戦国末期から江戸時代に作製された織田系図は、信長の家系を、清洲織田家の敏定に繋げ、先祖を平家に結びつけたが、戦国時代の織田氏は、清洲織田家の織田達勝や信長は、藤原姓を称していることから、平家の末裔とするのは僭称改竄であることは明らかである。信長の家系は、『信長公記』地元の寺社の記録から、西巌(清洲宗論の時の弾正忠良信に比定される)まで遡ることが出来るが、その先は判然としない。信長の家系は、織田一族でも、傍系の傍系であることは明らか。戦国織田家(弾正忠系織田氏)は、西巌を初代とし、月巌(信貞)・桃巌(信秀)・泰巌信長)・仙巌(信忠)・圭巌(三法師・秀信・岐阜城主、関ヶ原西軍)で、改易となり、本流は、表舞台から消え去った。
(2016.8.30)
織田良信(弾正忠、西巌)−信貞(弾正忠、月巌)−信秀(弾正忠備後守、桃巌)−信長(上総介弾正忠、泰巌)−信忠−秀信(関ヶ原西軍、改易)  ※ 地元の文献では、信貞と記されるが、系譜は信定と記す。
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織田氏の系譜(75)
 
織田氏の系譜(75)
 
戦国時代の織田弾正家は、西巌(弾正忠良信に比定される)(織田信秀の祖父と、地元の寺社文書は記す)が、事実上の初代と見なされる。系図で信定と記される信長の祖父は、地元文書では、信貞と記されている(横山住雄氏の『織田信長の系譜』等参照)。
織田良信は、織田敏定の奉行の一人だが、筆頭格でもない。織田良信と織田敏定が近い血縁としても、兄弟という関係は考えにくい。三親等もしくは四親等以上の関係ではなかろうか?
(2016.9.8)
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織田氏の系譜(76)
 
織田氏の系譜(76)
 
織田氏の系図は、戦国末期から江戸時代初期に書き換えられ、信長の祖父は、清洲織田家の敏定に系が結びつけられている。
(2016.9.16)
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織田氏の系譜(77)
 
織田氏の系譜(77)
 
織田弾正忠家(勝幡織田氏)は、西巌(弾正忠良信に比定)を事実上の初代と見なす。それ以前の系譜については、判然としない。織田常松に仕えた織田弾正が始祖かと推定されるが、その系譜は諸説あり判然としない。清洲織田家の早い段階での分家の庶流の可能性も・・・・(『尾張群書系図部集』及び『旅とルーツ』参照)。
織田氏の系譜(72) 織田氏の系譜(74)参照。
(2016.10.4)
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織田氏の系譜(78)
 
織田氏の系譜(78)
 
現在、幾つか織田系図を含む系図書や歴史書が刊行されているが、中には、疑問が多いものもある。基本系図が、江戸時代に改竄されたものであるのは明らかだが、地元の寺社記録などから復元された推定系図をを勘案して検討しても、どうにも続柄などがおかしな系図が掲載、刊行されているケースがある。それを一流の学者が行ったとなると最悪である。織田系図は、多くの系図を比較検討することが必要である。
(2016.10.9)
@教広が、敏広の兄弟というのは、各種系図を検討する範囲では、あり得ない。
A達勝は、達定の子と推定され、広遠との親子関係は確認されない。
B犬山織田家の信康は、岩倉の敏信の息子ではなく、弾正忠織田家の信定の息子、信秀の実弟。
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織田氏の系譜(79)
 
織田氏の系譜(79)
 
現時点で、信長のルーツは、信貞(通説系図は、信定と記す)までは、確定される。更に地元密着の学者(東海三県の大学に在勤したことのある史学者)や郷土史家らの追跡により、「信長公記」や地元の寺社関係文書から、信長の父の信秀の祖父が、西巌という人物であることが明らかとなった。この西巌は、清洲織田家の敏定の奉行の一人で、清洲宗論の時に登場する織田弾正忠良信に比定されている。これらの事から、良信(西巌)−信貞(月巌)−信秀(桃巌)−信長(泰巌とする系譜が構成される。この家系は、歴代当主が弾正(弾正忠、或いは、弾正左衛門尉)を襲名している。
(2016.10.25)
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織田氏の系譜(80)
 
織田氏の系譜(80)
 
織田弾正家は、当初、楽田を拠点に基盤固めを行い、その後、岩倉織田家の管轄外の、小田井や、海部郡(当時は、海東郡及び海西郡)に進出し、西巌は、岩倉方の妙興寺領などを横領して、経済基盤を固めていく。妙興寺領の横領は、次代の信貞(通説系図は、信定)の時にも続き、勝幡城を拠点に勢力を拡大する。津島にも進出を図り、有力者と姻戚関係を結ぶ。津島も支配下に置いたことで、勝幡系織田家(弾正忠家)は、飛躍的発展をとげ、主家の清洲守護代家と肩を並べることになる。
(2016.11.3)
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織田氏の系譜(81)
 
織田氏の系譜(81)
 
弾正忠系織田氏(勝幡織田家は、法名に『巌』、『岩』を用いているケースが目立つ。本流は、西巌(弾正忠良信に比定)、月巌(弾正忠信貞)、桃巌(備後守、弾正忠信秀)、泰巌(弾正忠、上總介信長)、仙巌(秋田城介信忠)、圭巌(三法師秀信)と続き、改易廃絶となり、大名の地位を失う。傍系は、四家が大名として存続した。
(2016.11.16)
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織田氏の系譜(82)
 
織田氏の系譜(82)
 
織田信長の家系は、当初は、清洲三奉行の中では、序列三位と推定される。その後、信長の父の信秀の代に、実力ではトップに飛躍した。信秀は、美濃の稲葉山城(後の岐阜城)攻めの時に、清洲三奉行の一人の織田因幡守や、三光寺山織田家(後の犬山織田家)の寛近・信康も動員しているが、清洲守護代家にも匹敵する力を有しており、当人にその気があれば、主家の清洲織田家を放逐して、守護代の地位を奪うことも可能だったろう。が、それは行わなかった。勝幡系織田家は、信長の代に、岩倉織田家を攻略し、清洲織田家を滅亡に追い込み、犬山織田家の当主を甲斐に逃亡させ、尾張をほぼ統一し、美濃併合に動き出した。勝幡系織田家は、清洲織田家の重臣だったが、信秀の時代には、津島周辺の経済圏も抑え、半独立状態。皇室や伊勢神宮への多額の献金は、世間を驚かせた。そして信長の時に、尾張をほぼ統一、その後、美濃も併合して、「戦国大名織田家」が歴史の表舞台に登場することになる。
(2016.11.28)
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織田氏の系譜(83)
 
織田氏の系譜(83)
 
勝幡系織田氏(織田弾正忠家一門)は、織田敏貞以後、勝幡及び津島を抑え、尾張西部で領地・支配領域を拡大した。津島を支配下に置いたことで、弾正忠家の経済基盤は強化され、朝廷や中央貴族も、尾張守護斯波氏の陪臣の弾正忠家に注目することとなる。
(2016.12.10)
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織田氏の系譜(84)
 
織田氏の系譜(84)
 
織田一族の系図は、資料により、若干差があるが、信長の一族は、概ね示されている。信長は、父の信秀以上に、多くの子女をもうけている。年長の男子は、城主となり、領国支配を行い、政権内の大名格・軍団長となる。神戸信孝は、本能寺の変勃発前に、四国軍団長に就任。本能寺の変が無ければ、四国に遠征し、長曽我部氏を討伐することになるが、本能寺の変勃発で頓挫した。
(2016.12.26)
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織田氏の系譜(85)
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