扶桑家系研究所 リポート3−2 
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扶桑家系研究所 リポート3−5
目次
(織田一族の系譜・パート4)
(復元織田一族系図・パート4)
先に織田信長一族の推定系譜を紹介したが、本ページでは、織田一族のルーツ及び『寛政重修諸家譜』などで抹殺された「古・岩倉織田家(伊勢守家)」や「清洲織田家」の系譜などを先達の研究も引用しながら紹介していこうと思う。江戸時代に編纂された織田家の系譜はどうしても信長中心になるが、実際の信長の家系は、織田家の傍系の傍系で、信長出現までは、清洲織田家の家老・奉行の家柄の一つに過ぎなかった。信長がいなければ織田家は周囲の戦国大名に蹂躙されていたかもしれない。父親以上に卓越した能力を持つ信長は、遂に父親を凌駕して守護代家を倒して尾張を統一し、苦戦しながらも美濃も併合して天下を狙える戦国大名に成長した。信長が天下を狙うと、織田家を平家の末裔と主張し、江戸時代の系図では、岩倉織田家や清洲織田家の系譜を抹消し、織田弾正忠家中心の系譜を作成した。いわゆる平家落胤系図である。拙著『織豊興亡史(今日の話題社)』でも織田一族の系図を紹介したが、戦国までが中心だったので、今回は可能な系譜については江戸時代まで含めて追跡したい。
(2010.11.23)
幾つも類似の系図が登場するが、各出典により微妙に異なるので、その違いもわかってもらえれば、当方の意図も御理解いただけると思う。当然、先のルーツ編とも重なる物もあるので了解願いたい。このページでは、最初に清洲織田家の系譜の謎に迫りたいと思います。
清洲織田家(大和守)
清洲織田家は、尾張織田氏一族の庶流で、又代(又守護代)の流れを汲む。楽田城主と伝えられる織田久長の息子とされる敏定は、応仁の乱の時、尾張守護斯波義廉が西軍に属したのに対し、東軍に属し、幕府の命を受けて尾張に下向し、西軍に属した織田敏広に代わり、事実上の尾張守護代となる。敏定は、斯波義敏・松王丸を擁立することになる。織田敏広は、その後も守護代を称し、尾張には2人の守護代が誕生した。やがて和議が成り、敏定は、尾張二郡を支配下に置く。岩倉織田家織田敏広の後継者千代夜叉丸(後の寛広)は、斯波義廉から離反し、斯波義良(松王丸)に伺候し、幕府に帰順する。尾張は、守護斯波義良のもと、岩倉織田家・清洲織田家の対立は表面上終結し、一時の安定期となる。敏定は、宗教統制を進める中、文明14年(1482)7月、清洲宗論を行うが、この時、織田左京亮広長(因幡守祖か?)、弾正忠良信(信長の先祖?)、次郎左衛門尉広貞(次郎左衛門尉敏貞の子か?)、又七郎良縁(藤左衛門の先祖?)が、敏定の奉行として連署状を発給している。大和守家三奉行成立の萌芽が垣間見える(この段階では、清洲三奉行は確立されていない)。織田一族は、その後に行われた六角氏攻めに従軍している。明応4年(1495)美濃で船田合戦が起こると、清洲織田家と岩倉織田家は、再び対立関係になる。この合戦で、織田敏定は、陣中没し、長男とされる近江前司(近江守寛広に比定)、その弟の某が戦死し、清洲織田家は、一時壊滅的危機を迎えるが、近江前司の弟の寛村が継承し、その後、五郎(達定)、大和守達勝、彦五郎(信友)が、清洲織田家(下四郡守護代)を継承し、彦五郎の時、守護の斯波義統一を殺害する。そのまま戦国大名として尾張支配に乗り出すかと思われたが、翌年(1555/弘治元年)、守山城主の織田信光に殺害され(信光は、信長と手を結んでいた)、下四郡守護代家(清洲織田大和守家)は、滅亡する。
織田久長(常祐)−敏定常英)−寛定=寛村(弟)(常巨)=達定(五郎)=達勝=信友(彦五郎)【滅亡】
織田信長の系譜 推定織田氏系図 織田一族の系譜・パート3
目次
1. 織田氏の系譜(47)(清洲織田家@) 『新訂寛政重修諸家譜』、『系図纂要』、他。
2. 織田氏の系譜(48)(清洲織田家A) 『織田家の人びと』、『織田信長の系譜』、『新編犬山城史』、他。
3. 織田氏の系譜(49)(清洲織田家B) 『織田一族系譜論考』、『南朝式神代戦国大名系譜総覧』、他。
4. 織田氏の系譜(50)(清洲織田家C) 『古代氏族系譜集成』
5. 織田氏の系譜(51)(清洲織田家D) 『尾張群書系図部集』、『尾張織田一族』、『織田家の人びと』、他。
6. 織田氏の系譜(52)(清洲織田家E) 『新訂寛政重修諸家譜』、『系図纂要』『群書系図部集』、他。
7. 織田氏の系譜(53)(清洲織田家一門) 『羽前天童藩織田家譜・副本』、『鈴木本・織田系図』、『天童藩織田家譜・正本』(東大史料編纂所アーカイブデーター
8. 織田氏の系譜(54)(清洲織田家一門) 『桓武平氏國香流』、『系図纂要』、他。
9. 織田氏の系譜(55)(清洲織田家一門) 『織田信長総合辞典』、『新訂寛政重修諸家譜』、『群書系図部集』、他。
10. 織田氏の系譜(56)(清洲織田家一門) 『新訂寛政重修諸家譜』、『系図纂要』『旅とルーツ』、他。
11. 織田氏の系譜(57)(清洲織田家一門) 『羽前天童藩織田家譜・副本』、『鈴木本・織田系図』、『織田信長総合辞典』、他。
12. 織田氏の系譜(58)(清洲織田家一門) 『三百藩家臣人名事典・5』、『鈴木本・織田系図』、他。
13. 織田氏の系譜(59)(清洲織田家一門) 『織田一族系譜論考』、『旅とルーツ』、他。
14. 織田氏の系譜(60)(清洲織田家一門) 『新訂寛政重修諸家譜』、『徳川八万騎人物系譜総覧』、他。
15. 織田氏の系譜(61)(清洲織田家一門) 『新訂寛政重修諸家譜』、『徳川八万騎人物系譜総覧』、他。
16. 織田氏の系譜(62)(清洲織田家一門) 『新訂寛政重修諸家譜』、『古代氏族系譜集成』、他。
17. 織田氏の系譜(63)(清洲織田家一門) 『尾張・織田一族』、他。
18. 織田氏の系譜(64)(清洲織田家一門) 『尾州織田興亡史』、『織田信長一族の謎(昭和61年歴史読本)』
19. 織田氏の系譜(65)(清洲織田家一門) 『尾州織田興亡史』、『織田信長の系譜』、『尾張・織田一族』、他。
20. 織田氏の系譜(66)(清洲織田家一門) 『織田家の人びと』、他。
21. 織田氏の系譜(67)(清洲織田家一門) 『旅とルーツ』、『尾張群書系図部集』、他。
22. 織田氏の系譜(68)(清洲織田家一門) 『新訂寛政重修諸家譜』、『系図纂要』『群書系図部集』、他。
23. 織田氏の系譜(69)(清洲織田家一門) 『尾張織田氏』
24. 織田氏の系譜(70)(清洲織田家一門) 『旅とルーツ』、『尾張群書系図部集』、他。
25. 織田氏の系譜(71)(清洲織田家一門) 『尾張群書系図部集』、他。
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織田氏の系譜(47)
  
織田氏の系譜(47)
  
現在流布する織田系図は、戦国末期から江戸初期に改竄された系図であり、戦国以前は信用できない。信長の家系(弾正忠織田家)の主家であった清洲織田家の系図は、完全に破壊され、古文書などで確認される人物は、改竄系図では、その系譜から消されている。又、敏定を犬山城主とするのも、改竄の証拠。犬山城は、三光寺山城の奥の乾山砦を戦国末期に増強改築したもの。その事は、元犬山市職員で、現在は岐阜県在住の史家の横山住雄氏が、若かりし頃、犬山城と、その歴史を追跡した論考「新編犬山城史」で指摘している。歴代城主についても、その虚構を明らかにしている。敏定が犬山に居したとするなら、それは、父とされる久長が築城したと伝わる楽田城ではなかろうか?
(2015.11.2)
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織田氏の系譜(48)
 
織田氏の系譜(48)
 
清洲織田家の本来の系図は、戦国期から江戸時代初期に、書き換えられ、破壊されている。地元の史料・古記録などから、先達が復元を試みた系図によると、又代で楽田城主とされる織田久長の子の敏定が、尾張守護斯波家が家督継承問題で東西に分裂した時に、東軍に属し、織田宗家(古岩倉織田家・前期岩倉織田家)が西軍に属した事により、敏定は、幕府の命により尾張に帰還し、清洲を拠点に守護代として斯波家を支える(前守護の斯波義廉は、守護職を剥奪され、織田一族の義廉派は、浪人となる)岩倉織田家は、斯波義廉から離反し、新たな守護に臣従し、旧領の支配権を回復し、守護代を称し、清洲と岩倉、二つの守護代家となる。清洲で守護を擁立いているのは清洲織田家で、基盤を固めていく。その後美濃で船田合戦かおこり、清洲織田家は、石丸氏方に、岩倉織田家は、斎藤方に分かれ、再び対立し、この合戦で、清洲織田家は、敏定が陣中病没。数ヶ月後、近江前司(近江守寛定)とその弟が戦死し、大和前司(大和守寛村・常巨)が、守護代清洲織田家を継承する。一方、岩倉織田家も、寛広以後の動向は定かでない。書き換えられた織田系図では、敏定の息子とされる敏信が、岩倉織田家の名跡を継承し、後期岩倉家の当主になったと記すが、疑問を指摘す説もある。又、織田敏定の息子という説にも異説があり、よく分からない人物。清洲織田家は、伝えられると頃によると、敏定・寛定・寛村・達定・達勝・彦五郎(織田信友)守護代を継承し、織田信友が、守護の斯波氏を殺害したあと、斯波氏の遺児の要請を受けた信長・信光連合軍が、清洲城を襲撃し、信友は殺害され、守護殺しの張本人の坂井某は逃亡し、清洲城は陥落、清洲守護代織田氏は滅亡する。
(2015.11.8)
尾張織田氏一族の系譜を検討する場合、清洲町史の新井氏の論考が、一つの指針となる。通説系図には、記載されない複数の織田一族の名前、通称等が紹介されており、実際の織田氏の系譜は、江戸時代に流布した改竄系図ほど単純ではないことを示唆している。新井氏の論考は、多くの織田氏や織田系図研究者(学者・研究者)・研究家(在野の研究家・郷土史家)にも少なからず影響を与えているが、一部研究家を称する人の中には、新井氏や地元史家・研究家の論考を無視し、信長の家系を織田敏定に結ぶ系図を実質的に肯定する研究家もいるが、明治時代のある研究家らの収集系譜が、敏定と信長の家系が繋がっている点を絶対視し、「信長公記」や地元の研究家らが検証している古記録・文献を歯牙にもかけない姿勢が、そういう結論付けにしているが、やはり新井氏の論考や「信長公記」は無視すべきものではなく、柴裕之氏(東洋大学非常勤講師/千葉県文書館嘱託)の編纂した論文集 『論集 戦国大名と国衆6 尾張織田氏(岩田書院.2011年)』にも新井氏の「織田系譜に関する覚え書き(『清洲町史』掲載)」が再掲載されている。又、それ以前に刊行された戦国史研究家谷口克広氏の 『尾張・織田一族(新人物往来社.2008年)』に於いても、通説系図には記載されない、織田一族の人物が、本来の清洲織田家の歴代という仮説系図を紹介しているが、これは、地元に在職の学者・研究家の推定系図とも概ね重なる。清洲織田家が、前期岩倉織田家(古岩倉織田家)と養子縁組をした事実は確認されておらず、船田合戦で、岩倉織田家一族が殺害した清洲織田家の人物が養子になることはあり得ない。敏広−寛広(前期岩倉家寛定−寛村−達定−達勝−信友(清洲織田家という系譜は、各種論考からは、あり得ないこと(養子縁組の事実も確認されないし、守護代継承の事実も確認されない)だが、そう力説(信定を敏定の実子とする)する論考もあるので、目にされた当サイトの閲覧者の方には、鵜呑みにされないように注意喚起しておきます。偽書の指摘もある「ある文献」が世間に広まるきっかけを作った郷土史家の織田氏に関する論考(1993年)も、悪しき影響を与えている。この人物に関しては、別の郷土史家が、かなり強烈な批判をしていたが、共に物故されているので、ここでは名前は伏せる。前期岩倉織田家は、寛広以後動向がはっきりしない、岩倉家一族の織田広高の文書発給の記録(天文6年/1537年)があるので、傍系は存続していたのであろう。従って通説系図で敏定の子供に記す敏信が、岩倉織田家を継承したとする説にも疑問が生じるし、実際の所、敏信に関しては、織田一族だが出自が判然としない。広義に於いては、清洲織田一族の同族と推定されるが、信長の先祖の弾正家(弾正忠、弾正左衛門)流織田家に関係する可能性もあり、現時点ではよく分からない人物ということになる。
敏定は、蓮光院常英で、信長の曾祖父は、「妙興寺文書」などから「西巌(西岩、材岩と記すものもある)」と記されているので、常英と西巌は、別人と推定するのが妥当。つまり敏定は、信長の曾祖父ではありえないことになる。
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織田氏の系譜(49)
 
織田氏の系譜(49)
 
現在流布する織田系図は、戦国末期から江戸時代に書き換えられており、清洲織田家の系図は判然としない。地元研究家らが、古文書などから推定復元した系図とは整合しない。
(2015.11.17)
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織田氏の系譜(50)
  
織田氏の系譜(50)
  
『古代氏族系譜集成』掲載の織田氏系図は、平家落胤説を否定し、忌部氏末裔説を提示していることで注目されるが、戦国時代に関しては、疑問の部分もあり、著者も考証に苦労している様子が伺える(ページにより記述が異なる)。岩倉家の系図も混乱しているし、清洲織田家に関しても疑問がある。清洲の織田寛定(古文書、地元伝承では、近江前司とされる人物?)は、弟の某らと、岩倉家の織田家に船田合戦で敗れ討ち死にしたとされているから、岩倉家の名跡継承はあり得ない。弟とされる寛村は、生き残り敏定の名跡を継承しているから、岩倉家の系図に接続するのは疑問。これは、瀧喜義ら、『武功夜話』支持派の論考の影響があるか?又、後期岩倉家の始祖に位置づけされる敏信も、織田敏定の子とすることに異論もある。
(2015.11.23)
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織田氏の系譜(51)
  
織田氏の系譜(51)
  
清洲織田家の系譜は、通説系図(江戸時代編纂)では、本来の系譜が破壊され、判然としないが、地元在住、在職研究者や、地元の古文書などから解析する研究者により、かなり復元されてきている。清洲織田家は、船田合戦などで、壊滅的な打撃を受け、家督継承にも混乱を生じ、なおかつ養子相続もあり、正確な復元は難しそうである。清洲織田家最後の当主は、織田彦五郎(信友)で、守護の斯波義統を謀殺した1年後に、信長の叔父(守山城主)の織田信光に攻められ殺害され、清洲織田家は滅亡した。
(2015.11.30)
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織田氏の系譜(52)
 
織田氏の系譜(52)
 
戦国末期から江戸時代に再編された織田系図では、各資料で食い違いがあるし、清洲織田家の本来の系図を消し去り、信長の家系を中心に、各家が織田敏定に系譜を結びつけている。「寛政」で、彦五郎を敏定の養子にすることは、敏定が、船田合戦中に没している事や、彦五郎が信長と同時代の人物で、大和守も継承していない点からも老齢とは考えられない。その人物が、敏定の養子・猶子になる事はあり得ない。「寛政」の織田氏系図には疑問が多い。
(2015.12.8)
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織田氏の系譜(53)
  
織田氏の系譜(53)
  
織田氏の系譜は、資料により食い違いあり。奥田織田家の永政は、信長の祖父の信定と対立し、伊勢に逃れたと伝えられる。永政は、『鈴木本』と『天童藩織田系図・副本』には記されるが、『正本』には記載無し。藤掛氏を称すると伝えられるが、後世に織田一族に結びつけたものか?
(2015.12.16)
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織田氏の系譜(54)
 
織田氏の系譜(54)
 
織田氏の系譜は、諸資料により、位置関係が食い違うものがある。戦国期から江戸時代初期の系図の改竄で、種々混乱を生じたか?
(2016.1.3)
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織田氏の系譜(55)
 
織田氏の系譜(55)
 
奥田系織田氏は、飯尾氏を称するが、諸資料に食い違い有り。奥田系織田氏(飯尾氏)は、織田信秀に属して美濃に出兵。信長の時には、鷲津砦を守り、今川軍と戦い、飯尾定宗は、討死する。飯尾尚清(信宗)は、織田信秀の女婿となる。
(2016.1.3)
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織田氏の系譜(56)
 
織田氏の系譜(56)
 
現在流布する織田系図は、戦国末期から江戸初期に改竄された系図であり、信用できない。従って各種系図で食い違いあり。信定が、敏定の息子でない場合、秀敏も、別の流れで、敏定に繋いだ可能性がある。基本系図でも、古い系図に記載無しと、疑問を呈している。秀敏は、弾正流織田氏の一門か?
(2016.1.23)
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織田氏の系譜(57)
 
織田氏の系譜(57)
 
通常の系図集では、比良城主織田家は、戦国以降は確認できない。『纂要』、『群書』、『系図総覧』などでは、追跡不能。ネットデーターなどでは、子孫は、瀧川一益に仕え、その後複数の家に仕え、その後は、池田家に仕えたという(東大アーカイブデーター等)。
(2016.1.30)
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織田氏の系譜(58)
 
織田氏の系譜(58)
 
尾張比良城主織田家(津田家)の子孫は、岡山の池田家に仕えた。池田家は、信長の乳母・養徳院の血脈である。
(2016.2.6)
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織田氏の系譜(59)
 
織田氏の系譜(59)
 
通説系図に於いては、織田信貞は、信定と記され、織田敏定の子供と記すが、織田信貞は、織田一族の庶流であって、清洲織田家の嫡流ではない。瀧喜義の『尾州織田興亡史』では、敏定を次郎左衛門、楽田殿と記すが、次郎左衛門尉敏貞と混同したものであろう。次郎左衛門尉敏貞は、応仁・文明の乱の時、敏定とは別行動で、一騎掛け(自軍単独)で上洛していることが記録にあるから、読みは同じ(としさだ)でも別人。敏貞の子孫からは、楽田城主に複数が就任と記す(『旅とルーツ』 宝賀氏論考)。
(2016.2.14)
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織田氏の系譜(60)
  
織田氏の系譜(60)
  
織田玄蕃頭秀敏は、信長の大叔父(父信秀の叔父)と伝えられる。今川義元の軍勢が尾張に侵攻した時は、鷲津砦に籠もり対峙した。
(2016.2.21)
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織田氏の系譜(61)
 
織田氏の系譜(61)
 
織田秀敏の子孫は、幕府に仕え、津田氏を称する。津田正常の家系は、当初は七百石だったが、養子の正房が、石高を増やし、三千石の旗本となる。この間、一時甲府徳川家の家老となる。
(2016.3.7)
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織田氏の系譜(62)
 
織田氏の系譜(62)
 
清洲織田家の系図を解体・抹消した信長は、それでも清洲織田家の痕跡を完全には消せなかったから、敏定からは切り離し、群書に於いて久長の弟とされる常孝に繋げたのではなかろうか。又、織田一族庶流と伝える織田順高は、その系譜を織田常孝(常高)に結びつけた可能性も考えられる。
(2016.3.16)
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織田氏の系譜(63)
 
織田一族の系譜(63)
 
清洲織田家は、大和守某(系図では、勝久)の末裔で、又代或いは奉行から、守護代に押し上げた敏定の末裔である。大和守某を常松の息子とする説(久長は、常松の孫ということになる)と、又代常竹の流れとする説がある。
(2016.3.21)
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織田氏の系譜(64)
 
織田氏の系譜(64)
 
瀧氏の作製した織田系図には、疑問な点が少なくない。常松=郷広というのは無理がある。敏定の法名を西岩常祐というのは、根拠不明。他の多くの系図には、西岩常祐は、記載されず。敏定の法名は、常英。西岩は、織田弾正忠良信の法名の西巌を示すもの。瀧説は敏定と良信を同一人物に見なしていたこともあり、合成創作したものか?
(2016.3.30)
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織田氏の系譜(65)
 
織田氏の系譜(65)
 
多くの研究家の推定復元系図に比して、瀧説は、疑問・問題点が少なくない。参考にした資料に問題があるのか、瀧氏の解釈に問題があるのか。その点は、今後、織田系図の復元がすすめは明らかになろう。しかし、現状は、地元の諸資料を丹念に検討された、新井氏らの論考を、ベースに検討を進める方が、妥当ではなかろうか。
織田氏の系譜(16)  織田一族の系譜(15)  織田一族の系譜(16)  織田信長の系譜(17)  織田氏の系譜(18)
(2016.4.9)
織田氏の系譜(65-2
織田氏の系譜(18)
 敏定が、木ノ下城を三狐寺山に移城することは、あり得ない(横山住雄氏論考参照)。
(2016.4.16)
織田氏の系譜(65-3)
織田信長の系譜(17)  織田氏の系譜(18)
織田信安が、織田敏定の息子(敏信の弟)というのは、あり得ない。織田信安を清洲六郎とするは、近江前司と織田寛村の関係からの錯誤の可能性が高い。瀧氏の引用原典には、疑義がある。少なくとも、織田に関する記述は、信用できない。
(2016.4.29)
織田氏の系譜(65-4)
瀧氏の、常松・郷広同一人物説、織田久長・織田淳広同一人物説、織田良信・織田敏定同一人物説は疑問。
 敏定が、木ノ下城を三狐寺山に移城することは、あり得ない(横山住雄氏論考参照)。
(2016.5.15)
織田氏の系譜(65-5)
 
織田敏定が、織田信康を木ノ下城に配するのは、活躍時期が重ならないから不可能。又、敏信は、敏定と同時代の人物だが、敏定の嫡男とは立証されていない。
(2016.6.1)
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織田氏一族の系譜(65-6)
 
瀧氏の織田氏に関する論考は、他の先達の論考に比して、疑問な点が少なくない。掲載系図に関する疑問は、既に指摘ずみだが、主力の原典史料にも問題があるのではなかろうか。織田氏に関する限り、その疑惑は払拭されない。
織田氏の系図復元に関しては、新井・横山・谷口・小島氏などの論考を一つのベースとして勘案する方が、瀧説よりも、史実に近づくのではなかろうか。
(2016.6.14)
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織田氏の系譜(66)
 
織田氏の系譜(66)
 
江戸時代に流布した織田系図は、信長の家系を本流のように見せかけるために書き換えられ、前期岩倉織田家(尾張織田氏宗家)の系譜が抹殺され、信長の主家筋の清洲織田家の系図は破壊された。結果、新井氏や横山氏、谷口氏らが、地元の文献(寺社文書、棟札等)から復元した系図とは一致しない。「船田戦記」に織田敏定の息子に関する記述があるが、その人物(近江前司、某、大和前司)は、通説系図には登場しない。又、通説系図は、信長の家系を敏定に結びつけるが、信長の家系は、妙興寺の記録から、妙興寺領の一部を横領した織田西巌(材巌、西岩)の子孫で、西巌は、敏定の家臣で、清洲宗論に登場する奉行の一人、織田良信(敏正)(弾正忠)と推定される。織田敏定は、常英居士で西巌ではない。両者は別人で、君臣の関係。信長の祖父の信貞(弾正忠、月巌常照)(通説系図は、信定と記す)は、清洲織田家の奉行の一人。家臣であって一門(敏定の親族)とは記されていない。信長の家系は、織田一族では、傍系の傍系で、早い段階で、清洲織田家(大和守家)から分岐した庶流織田家の一族ではなかろうか?一門というより、一段下の家臣団を形成した織田一族の末裔ということであろう。信貞が敏定の息子なら、戦国時代の混沌とした時代、清洲織田家は、船田合戦で壊滅的打撃を受けているから、当主の座を奪うことは、息子だったら可能だろうが、息子ではないから、家臣に列している。下克上で、清洲織田家を倒して、織田一族の総帥となることは戦国時代だからあり得るが、同じ奉行の藤左衛門家も有力(弾正忠家より格上の可能性も)だったから、現実には厳しい。清洲織田家の家臣でありながら、半独立状態になったのは、勝幡城を拠点に、清洲織田家の直轄圏外の津島を抑えてからと推定される。実際、信貞の息子の信秀(信長の父)は、主家の清洲織田家と合戦に及んだこともある。しかし、守護代の座は奪っていない。信秀は、国外での合戦では、軍事指揮権を持ち、他の織田一族も動員しているが、敏定の孫なら、十分に、ぼんくら当主に代わる資格と力量はあるが、下克上は仕掛けていない。敏定の子孫というのは、後世の改竄であることは明白であろう。
(2016.6.21)
織田氏の系譜(48) 織田氏の系譜(50) 織田氏の系譜(51)
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織田氏の系譜(67)
 
織田氏の系譜(67)
 
清洲織田家は、尾張織田家初代守護代の織田常松と末裔とする説が有力だが、宝賀氏は、「古代氏族系譜集成」や「旅とルーツ」の論考では、又代織田常竹の末裔に位置づけている。
(2016.7.3)
織田氏の系譜(50)
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織田氏の系譜(68)
 
織田氏の系譜(68)
 
清洲織田家は、敏定の流れを汲むが、通説系図(改竄織田系図)は、敏定の子孫には記さず(信長の家系を敏定の系図に結びつけたので、本来の清洲織田家の系譜は、破壊された)。
(2016.7.13)
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織田氏の系譜(69)
 
織田氏の系譜(69)
 
柴氏の論考に於いては、清洲織田家は、常松系統としている。
清洲織田家の事実上の始祖は、大和守某(通説系図に於いては、勝久に比定)。複数の織田氏系譜研究家の指摘するところ。尚、常竹末裔説でも、大和守某を勝久に比定している。勝久は、弾正左衛門尉と称したと伝えられているから、戦国期の織田弾正忠一族(織田弾正家)に繋がる可能性も考えられる。敏定は、本来又代或いは奉行の家系だが、応仁の乱で、斯波義廉が西軍になった事により、幕府から討伐対象となり、幕府は、敏定を尾張國守護代に任じた。義廉に仕えた岩倉織田家は、実質的には守護代の地位を失う。
(2016.7.27)
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織田氏の系譜(70)
 
織田氏の系譜(70)
 
清洲三奉行の一人因幡守の系譜は判然としないが、次郎左衛門尉敏貞の息子と推定される広貞の末裔なら、清洲三奉行(因幡守・弾正忠・藤左衛門家)は、敏貞の流れを汲む一門ということになる(『尾張群書系図部集』だと、弾正忠・藤左衛門家は、敏信の子孫になるが、敏信・良信・良縁は、清洲の敏定とほぼ同一世代なので疑問)。
(2016.8.8)
織田氏の系譜(59) 織田氏の系譜(67)
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織田氏の系譜(71)
 
織田氏の系譜(71)
 
尾張の織田一族は、応仁の乱以後、岩倉織田家(岩倉城主)、清洲織田家(守護代家)に分かれ、尾張を分割支配する。清洲の守護代家では、因幡守家・藤左衛門家・弾正忠家が台頭、奉行として守護代家を支えるが、時に守護代家とも争った。
(2016.8.11)
 
清洲織田家(大和守家)は、又代・奉行の家系だったが、敏定が、室町幕府から、東軍系斯波氏の守護代に任命され、西軍系斯波氏の守護代の岩倉織田家(伊勢守家)と争い、尾張国内の内、二郡を獲得し、守護代家の基盤を固めた。岩倉織田家は、西軍系斯波家の没落、尾張退去により、事実上守護代の地位を失う。岩倉織田家は、東軍系斯波氏に臣従し、応仁の乱による分裂は収束し、尾張は、東軍系斯波氏が守護となり、清洲織田家(守護代家)と岩倉織田家(岩倉城主家)が分割統治した。両方の織田家は、美濃の内紛の「船田合戦」に巻き込まれ、再び争うことになる。この過程で、一時、守護代織田家(清洲家)は壊滅的打撃を受ける(敏定が遠征先で陣中病没、その後、近江前司と弟某が討ち死にする)。その後、寛村が、清洲織田家の名跡を継承し、重臣の補佐を受け、清洲織田家を再建する。
清洲織田家を支えた重臣として知られるのは、織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠で、清洲宗論の判者・奉行として登場する人物の流れを汲むという。通説では、清洲三奉行と伝える。その内、織田弾正忠の家系が、戦国三英傑(愛知県郷土三英傑)の1人、織田信長の家系である。通説系図は、信長を尾張織田一族の本流のように記すが、実際は、織田家傍系大和守家(清洲織田家)の分家筋から派生した庶流の一家系である。
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織田氏の系譜(72)
(織田一族の系譜・パート5)
織田敏定(大和守、常英信定(弾正忠、月巌)−信秀(弾正忠備後守、桃巌)−信長(上総介弾正忠、泰巌)−信忠−秀信(関ヶ原西軍、改易)  ★ 通説系図(改竄織田系図
織田良信(弾正忠、西巌)−信貞(弾正忠、月巌)−信秀(弾正忠備後守、桃巌)−信長(上総介弾正忠、泰巌)−信忠−秀信(関ヶ原西軍、改易)  ※ 地元の文献では、信貞と記されるが、系譜は信定と記す。
織田弾正家(勝幡織田家)
信長のルーツは、『信長公記』により、織田西巌まで遡ることが出来る。この人物は、多くの先達により、織田敏定の家臣で、清洲宗論に登場する織田弾正忠良信と推定されている。そこから先は判然としない。織田一族で弾正と称する人物は、『満済准后日記』の正長元年8月6日条に見える織田弾正で、在京し、尾張織田家初代守護代織田常松に近侍した人物として歴史に登場する。その実名は不明。仮に、この織田弾正が信長の本来の先祖としても、織田弾正から、織田弾正忠良信に至る系譜は、基本系図資料では確認できない。
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(織田一族の系譜・パート5)
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