扶桑家系研究所 リポート3−4 
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扶桑家系研究所 リポート3−4
(織田一族の系譜・パート3)
(復元織田一族系図・パート3)
先に織田信長一族の推定系譜を紹介したが、本ページでは、織田一族のルーツ及び『寛政重修諸家譜』などで抹殺された「古・岩倉織田家(伊勢守家)」や「清洲織田家」の系譜などを先達の研究も引用しながら紹介していこうと思う。江戸時代に編纂された織田家の系譜はどうしても信長中心になるが、実際の信長の家系は、織田家の傍系の傍系で、信長出現までは、清洲織田家の家老・奉行の家柄の一つに過ぎなかった。信長がいなければ織田家は周囲の戦国大名に蹂躙されていたかもしれない。父親以上に卓越した能力を持つ信長は、遂に父親を凌駕して守護代家を倒して尾張を統一し、苦戦しながらも美濃も併合して天下を狙える戦国大名に成長した。信長が天下を狙うと、織田家を平家の末裔と主張し、江戸時代の系図では、岩倉織田家や清洲織田家の系譜を抹消し、織田弾正忠家中心の系譜を作成した。いわゆる平家落胤系図である。拙著『織豊興亡史(今日の話題社)』でも織田一族の系図を紹介したが、戦国までが中心だったので、今回は可能な系譜については江戸時代まで含めて追跡したい。
(2010.11.23)
幾つも類似の系図が登場するが、各出典により微妙に異なるので、その違いもわかってもらえれば、当方の意図も御理解いただけると思う。当然、先のルーツ編とも重なる物もあるので了解願いたい。このページでは、最初に岩倉織田家の系譜の謎に迫りたいと思います。
ブレイクタイム
織田信長の系譜 推定織田氏系図
1. 織田氏の系譜(岩倉織田氏)(1) 「群書系図部集」、「織田家の人びと」、「歴史読本」
2. 織田氏の系譜(岩倉織田氏)(2) 「古代氏族系譜集成」、「羽前天童織田家譜・副本」
3. 織田氏の系譜(岩倉織田氏)(3) 「古代氏族系譜集成」、「羽前天童織田家譜・副本」、「織田家の人びと」、他
4. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(4) 「古代氏族系譜集成」、「羽前天童織田家譜・副本」、「織田一族系譜論考」、他
5. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(5)  「尾張・織田一族」
6. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(6) 「織田一族系譜論考」、他
7. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(7) 「新訂寛政重修諸家譜」、「系図纂要」
8. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(8) 「群書系図部集」、「系図纂要」
9. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(9) 「士林泝」、「群書系図部集」、「系図纂要」
10. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(10) 「羽前天童織田家譜・副本」、「羽前天童織田家譜・正本」
11. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(11) 「鈴木真年本・織田系譜」、「新訂寛政重修諸家譜」
12. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(12) 「鈴木真年本・織田系譜」、「新訂寛政重修諸家譜」、「系図纂要」
13. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(13) 「岩倉市史」、「織田一族系譜論考」、「士林泝」、
14. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(14) 「鈴木真年本・織田系譜」、「古代氏族系譜集成」、「羽前天童織田家譜・副本」、「羽前天童織田家譜・正本」、「系図纂要」
15. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(15) 「鈴木真年本・織田系譜」、「羽前天童織田家譜・副本」、「尾張群書系図部集」、
16. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(16) 「士林泝」、「尾州織田興亡史」
17. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(17) 「尾州織田興亡史」、「武功夜話・四」
18. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(18) 「尾州織田興亡史」、「武功夜話・四」、「新編犬山城史」、「織田信長の系譜」、
19. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(19) 「鈴木真年本・織田系譜」、「古代氏族系譜集成」、「羽前天童織田家譜・副本」、「羽前天童織田家譜・正本」、「系図纂要」、
20. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(20) 「尾張群書系図部集」、「織田家の人びと」
21. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(21) 「尾張群書系図部集」、「古代氏族系譜集成」
22. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(22) 「姓氏家系大辞典」、「寛政重修諸家譜・第八」、「旅とルーツ」
23. 織田氏の系譜(岩倉織田家)(23) 「寛政重修諸家譜・第八」、「尾張群書系図部集」、「系図纂要」、
24. 織田氏の系譜(小口・木ノ下織田家)(24) 「羽前天童織田家譜・副本」、「新編犬山城史」
25. 織田氏の系譜(大赤見織田家)(25) 「尾張國諸家系図」、「尾張群書系図部集」、
26. 織田氏の系譜(大赤見服部家)(26) 「尾張國諸家系図」、「尾張群書系図部集」、「姓氏家系大辞典」、
27. 織田氏の系譜(次郎、三郎)(27) 「羽前天童織田家譜・副本」、「系図纂要」、「群書系図部集」、他。
28. 織田氏の系譜(次郎、三郎)(28) 「羽前天童織田家譜・正本」、「古代氏族系譜集成」
29. 織田氏の系譜(次郎、弾正)(29) 「寛政重修諸家譜・第八」、「尾張國諸家系図」、「織田信長のすべて」、
30. 織田氏の系譜(次郎、五郎)(30) 「尾張群書系図部集」、「新編犬山城史」、他。
31. 織田氏の系譜(因幡守家)(31) 「織田信長事典」、「古代氏族系譜集成」、「織田信長の系譜」、
32. 織田氏の系譜(因幡守家)(32) 「寛政重修諸家譜・第八」、「系図纂要」、「武功夜話・四」、他。
33. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(33) 「系図纂要」、「武功夜話・四」、他。
34. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(34) 「系図纂要」、「群書系図部集」
35. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(35) 「士林泝」
36. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(36) 「系図研究の基礎知識」、「士林泝」、「系図纂要」、「群書系図部集」、他。
37. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(37) 「尾張群書系図部集」、「旅とルーツ」
38. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(38) 「尾州織田興亡史」、「羽前天童織田家」
39. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(39) 「尾張群書系図部集」、「旅とルーツ」、「系図纂要」、「群書系図部集」、他。
40. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(40) 「古代氏族系譜集成」、「旅とルーツ」
41. 織田氏の系譜(藤左衛門家)(41) 「古代氏族系譜集成」、「旅とルーツ」、「系図纂要」、「群書系図部集」、他。
42. 織田氏の系譜(藤左衛門家関係系図)(42) 「織田信長総合辞典」、他。
43. 織田氏の系譜(尾張織田一族概略系図)(43) 「古代氏族系譜集成」、「旅とルーツ」、「岩倉市史」、他。
44. 織田氏の系譜(検証.岩倉織田家)(44) 「鈴木真年本・織田系譜」、「羽前天童織田家譜・副本」、「羽前天童織田家譜・正本」、「尾張・織田一族」、
ブレイクタイム(四国織田氏略系図) 『平家秘史 落人からの報告』
45. 織田氏の系譜(初期系図主要人物)(45) 「織田信長の系譜」、他(『清洲町史』含む)。
46. 織田氏の系譜(46) 『日本家系・系図大事典』、他。
織田一族の系譜・パート4
織田氏の系譜(47)
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織田氏の系譜(1)
 
織田氏の系譜(1)
 
通説系図に於いては、前期岩倉家(郷広系織田氏)の系譜が抹殺され、常任系のみが記されている。その結果、岩倉家・清州家・小田井家・弾正忠家は、すべて織田勝久の子孫とされている。しかし、この通説系図には疑問な点も少なくない。たとえば犬山城主とされる人物。しかし、彼らの時代に犬山城は存在しなかった。犬山城は、織田信康が木ノ下城を継承し、その後、三光寺山を経て現在地に移転して正式に犬山城となる。実際、犬山市図書館近くの愛宕神社には、木ノ下城跡の碑がある。横山住雄氏が「新編犬山城史」で紹介しているし、拙著『織豊興亡史』でも紹介している。横山氏の解析に寄れば、通常犬山城主とされる人物の在城記録は、織田信康以前は事実に反すると云う。改竄系図に合わせた附会の可能性が極めて高い。木ノ下城は、前期岩倉織田家傍系の小口織田家の織田広近の支配下にあったという。現在流布する「織田系図」は、複数の箇所で改竄されているので慎重な対応が必要。
(2011.8.17)
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織田氏の系譜(2)
 
織田氏の系譜(2)
 
通説系図では抹殺されている前期岩倉織田家の系譜の一部が、この系譜では記載されている。先達が推定した前期岩倉織田家の系譜とも一部重なる。前期岩倉織田家は、尾張守護代織田家一門であり、後期岩倉織田家は、尾張又代織田家一門の末裔と推定される。両岩倉織田家の継承過程は判然としない。
(2011.8.19)
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織田氏の系譜(3)
 
織田氏の系譜(3)
 
前期岩倉織田家一族と後期岩倉家の関係については、不明な点も少なくない。又、通説系図で後期岩倉家の初代に位置付けられる敏信は本当に岩倉城主だったのかという疑問もある。敏定が36歳頃に、敏信は清洲城内居住していたが、その頃前期岩倉織田家は庶流も含め健在であり、果たして上四郡の支配圏を奪えたかは疑問。又、敏信が敏定の長男或いは次男である場合、明応4年(1495)の船田合戦で討ち死にしたと伝えられるから、その頃岩倉城主に就任したとは信じられない。新岩倉織田家には謎が多い。
(2011.8.29)
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織田氏の系譜(4)
 
織田氏の系譜(4)
 
岩倉織田家は、前期岩倉家(織田家嫡流・尾張国守護代家)と後期岩倉家(小守護代・上四郡守護代)が存在した。但し、どの段階で後期岩倉家が前期岩倉家の支配権を継承(或いは簒奪)したかは定かでない。後期岩倉家は、信安―信賢の二代は、多くの研究家も概ね認めているが、その先代とされる敏信については疑問視する見方もある。織田敏信は、万里集九と清洲の敏信の邸宅で犬追物を見物しているが、その人物が直ちに岩倉城主になれたかは疑問。前期岩倉家が旧下津城に拠点を移したとしても、一族は小口や木ノ下城などにあり、上四郡内である程度の勢力は維持していた。木ノ下城は、信長の叔父の信康が織田寛近から譲られるまで、木ノ下(小口)織田家の支配下にあったと、横山住雄氏が『新編犬山城史』で検証している。織田敏定が尾張を統一し、小口や木ノ下城を奪ったとする瀧喜義氏の説(『尾州織田興亡史』)には、没落したはずの旧岩倉織田家が清州織田家として復活したと記すが、斯波家からすれば、敵対した斯波義廉の家臣筋。戦国斯波家は敏定が擁立し尾張守護となった末裔。だから旧守護所の下津城ではなく、清州城に入った。従って、清州織田家も敏定或いはその一門の子孫と見るのが妥当。岩倉を奪って、清州と守護を奪われたら何の意味もない。後期岩倉家は、敏定の子孫という系図が流布するが、敏定と敏信の親子関係及び敏信と敏安の親子関係には疑問な点もあり、流布する系図が敏定―敏信―信安―信賢と記しているからと云って、現在流布する系図が改竄系図という現状では、そのまま鵜呑みにするのは危険な感じがする。結論は急がない方が良い。
(2011.9.11)
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織田氏の系譜()
 
織田氏の系譜(5)
 
前期岩倉家は、尾張織田氏宗家にして尾張守護代家と云われるが、尾張織田家初代守護代・織田常松から連綿と守護代を継承した訳ではない。初期の織田氏には不明な部分もあり系譜確定が困難である。敏広が守護代を継承する以前には傍系の人物も継承した可能性がある。前期岩倉家は下津城から岩倉に移り、その後、旧下津城に移り没落したという。敏広―寛広の二代は確かだが、その後は判然としない。寛広は、敏広の弟の小口織田家の広近の次男とも云われる。天文年間に記録がある織田広高が前期岩倉家最後の当主の可能性を指摘されている。尚、小口織田家は、その後木ノ下城を築き移る。広近―寛近の後は、弾正忠家の織田信秀の弟の信康に木ノ下城を譲ったと伝えられる。信康は、三光寺山に移り、更には現在の地に移り、犬山城に改める。信康は犬山織田家初代の当主となる(信康―信清)。前期岩倉織田家傍系の広季の子孫は、広季―広久―広泰―広延と『古代氏族系譜集成』に記されるが、この名跡を継承したのが織田因幡守の可能性もある。ただ因幡守家には不明な点もあり、直ちに断言は出来ない。通説系図では、前期岩倉織田家一門の系譜は抹殺されており、完全に解明するのは困難である。谷口氏の『尾張・織田一族』では、後期岩倉家については言及していないので、二つの岩倉織田家がどう繋がるかはよく分からない。多くの研究者が追跡するも謎は今だ解明されてはいない。
(2011.9.12)
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織田氏の系譜(6)
 
織田氏の系譜(6)
 
前期岩倉織田家も後期岩倉織田家も混乱しており、正確な系譜は分からない。この系図は、「羽前天童織田家譜・副本」及び木村信行氏の「織田一族系譜論考」をベースに作成したが、通説系図や、何人かの研究家により作成された推定復元系図とも異なる異色の系図である。具体的には、信長の母を木村氏の系図は、織田敏信の女とするが、多くの系図は、信長の母は土田氏の女とする。又、稲葉地城主織田定政を岩倉織田家の織田信安の兄弟とするが、「旅とルーツ」の宝賀寿男氏の論考では、織田信長の一族に記す。この系図に於いては、織田敏信を文明8年(1476)生まれとするが、文明17年(1485)に清須で万里集九と犬追物を見物した織田敏信は、長髭を蓄えた人物と記される(横山住雄『織田信長の系譜』より)。しかし、文明8年生まれでは10歳ぐらいで、とてもそんな面相にはなり得ない。又、一説には、明応4年(1495)、美濃の船田合戦で兄と共に戦死とする説もある。そうなると天文17年(1548)に没したというのはおかしな事になる。『系図纂要』は天文8年没とするが、これも根拠は定かでない。岩倉織田家縁の寺の記録では、永正14年(1517)正月26日に卒と記す(生年不詳)。この件は、後述する別の系図の中で検討する。更に述べれば、既に他の研究者も指摘するが、敏定と敏信の親子関係にも疑義があり、慎重な検討が必要と考える。この問題も、今後掲載予定の系図の中で検討する。
(2011.9.19)
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織田氏の系譜(7)
 
織田氏の系譜(7)
 
流布する織田家の系譜は江戸時代に大幅に書き換えられ混乱している。『分脈』、『寛政』、『纂要』、『群書』は基本系図であるが、織田に関しては『分脈』は使えない。残りの基本系図だが微妙に食い違いがある。本来すべてが真実の系譜であれば食い違いは生じないはずだが、織田家の系譜は戦国末期から江戸時代前期に書き換えられており、各研究者が挑戦するが今だ織田家の系譜の謎は解き明かされていない。
(2011.9.20)
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織田氏の系譜(8)
 
織田氏の系譜(8)
 
織田氏の系譜は、基本系図でも微妙に食い違う。通説系図では前期岩倉家は掲載されず、後期岩倉家は清州織田家より分かれたとされている。しかし、敏定・敏信・信定は当時存在しない犬山城主と記されており疑問が浮上する。江戸時代に清州織田家の系図をベースに書き換えた結果不合理な系図が作られたのであろう。
(2011.9.28)
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織田氏の系譜(9)
 
織田氏の系譜(9)
 
「系図纂要」の織田氏の系譜は、他の基本系図と食い違う。清須の織田彦五郎も岩倉織田家の縁者とするが、「群書」や「寛政」或いは尾張藩の「士林泝」の津田(岩倉織田)家の系譜では記されていない。
(2011.10.3)
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織田氏の系譜(10)
 
織田氏の系譜(10)
 
「天童織田家譜」は、正本と副本で記述が異なる。副本は、前期岩倉家を掲載している事が注目される。岩倉織田家の系譜は、『系図纂要』の系図[織田氏の系譜(岩倉織田家)(7)]と整合せず。
(2011.10.10)
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織田氏の系譜(11)
 
織田氏の系譜(11)
 
この系図には、基本系図にない記述もあるが、一部に疑問な点もある。織田信安は、弘治2年に戦死とするが、『群書系図部集』では、息子の信賢に追放され、美濃の斎藤家を頼ったり、その後流浪するが、信長に美濃で白銀庄を与えられ、天正19年(1591)10月24日卒と記す。各種系図で食い違いがあり、織田系図には謎が多い。
(2011.10.16)
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織田氏の系譜(12)
 
織田氏の系譜(12)
 
岩倉織田家は、永禄2年に落城没落する。『寛政重修諸家譜』では子孫は不記載だが、『系図纂要』では、信安の末子正盛の孫(金二郎)まで記す。正盛の子孫は尾張徳川家に仕え、『士林泝』に数代を記す(別記)。信賢の子孫と称する一英の系譜は異説もあり、実態がよく分からない。又、織田信有の系譜は、基本系図では確認できない。子孫と称する清幽の系譜には異説もあり附会の可能性も浮上する(後日再検討)。
(2011.10.24)
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織田氏の系譜(13)
 
織田氏の系譜(13)
 
敏定と敏信の親子関係には疑問あり。岩倉の寺の戒名からは、敏定よりも西巌(良信?)に近い印象を持つ。横山住雄氏は、敏信を良信と同一人物とするが、良信は織田敏定配下の奉行の一人。一方敏信は通説では後期岩倉織田家とされる。両者を同一人物とするには少し無理な感じがする。二人の敏信が存在すれば説明しやすいが、敏信には謎が多い。単純に系図改竄の弊害だけで片づくかはよく分からない。
(2011.11.11)
史料により敏信の法名が異なる。単なる誤記か、それとも複数の敏信が存在したか、今だよく分からない。
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織田氏の系譜(14)
 
織田氏の系譜(14)
 
各種織田系図では、細部では微妙な食い違い有り。これは流布する系図が江戸時代に改竄され、各家でも伝承に差違を生じた結果であろう。一部には疑問な記述もあり注意を要する。弘治2年に織田信安が信長と戦い戦死というのは疑問。息子に追放された信安を憐れみ、美濃併合後、美濃で隠居所を与えたという説もある(『群書系図部集・第四』参照)。
(2011.11.16)
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織田氏の系譜(15)
 
織田氏の系譜(15)
 
この系譜は、前期掲載の各系図を再構成したものである。各系譜は微妙に食い違いあり。それは織田系図の復元の難しさを示すものでもある。特に問題となるのは後期岩倉家の系譜である。どういう形で前期岩倉家と繋がるか。それに関しては今だよく分からない。
(2011.11.25)
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織田氏の系譜(16)
 
織田氏の系譜(16)
 
瀧喜義氏の説は、他の研究者の論考と異なる部分が少なくない。織田常松を織田郷広と同一人物とするが、「清州町史」や、その他の論考に寄れば、織田常松は、尾張織田家初代守護代とされる人物。しかし、織田郷広は、その数代後に登場する人物なので常松の子に位置する人物と推定される。「古岩倉織田家の系譜」は、「羽前天童織田家譜・副本(東大史料編纂所.蔵)」のアーカイブデーターに照らしても整合しない。常松=郷広説は、小和田哲男氏(元静岡大学教授)なども歴史雑誌で否定している。又、小田井織田家の系譜も、尾張藩士となった小田井織田家(江戸時代には津田氏を称す)の系図が『士林泝』に掲載されているが、少し食い違う。前期岩倉織田家一族に清州織田家の系図を繋げるなど疑問な点もあり、安易には瀧説は採用できない。
(2011.12.5)
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織田氏の系譜(17)
 
織田氏の系譜(17)
 
(16)にも記したが、瀧説には疑問な点が少なくない。前期岩倉織田家の子孫が清州織田家で、清州織田家の子孫が後期岩倉織田家というのも俄には信じがたい。通説系図でも織田敏定の息子の敏信が後期岩倉織田家の始祖の位置付けだが、敏定と敏信の親子関係も疑問(敏定及び長男・次男は、船田合戦で戦死したと云われる。そうであれば信安の位置付けも含め瀧氏の系図は、信憑性に疑問ありということになる)。
(2012.1.2)
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織田氏の系譜(18)
 
織田一族の系譜(18)
 
織田敏信が織田敏定の嫡男或いは次男であれば、船田合戦の中で戦死或いは陣中没していたことになり、敏信が永正元年(1504)に犬山城を継承することはあり得ない(継承以前に、継承すべき犬山城は存在せず)。又、織田信安を敏定の末子とする瀧説には疑問が残る(羽前天童織田家系譜の副本では、織田信安は、敏定没後の誕生で親子関係は成立しない。他の説でも信安が百歳近いかそれ以上でないと不成立)。従って、織田久長―敏定―敏信―信安―信賢という通説の岩倉織田家の系譜も疑問ありということになる。岩倉織田家の系譜解明は更なる検討が必要ということであろう。
(2012.1.4)
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織田氏の系譜(19)
 
織田氏の系譜(19)
 
織田敏定と敏信の親子関係は敏信に諸説あり、確実に実の親子であるかは証明出来ない。又、瀧義喜氏の説だと、信安は敏定の息子で、兄の後を継いで岩倉織田家当主となると記すが、確認できる生没年などからすると敏定敏安には親子関係は成立しない。瀧説のベースとなる「武功夜話」も含め疑問ありということである。
(2011.1.20)
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織田氏の系譜(20)
 
織田氏の系譜(20)
 
岩倉織田家の歴代には不明な部分もあり、初期の岩倉織田家と戦国後期の岩倉織田家の系譜的繋がりも判然としない。後期岩倉家は、清州の敏定の一族とする説が通説化しているが(『寛政』、『纂要』)、『尾張群書系図部集』では異説を掲載する。
(2012.1.21)
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織田氏の系譜(21)
 
織田氏の系譜(21)
 
岩倉織田家の系譜は、通説系図では前期岩倉織田家は抹消されており、後期岩倉家は織田敏定の子孫にされている。しかし、それが正解かと云えば極めて怪しい。
(2012.2.6)
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織田氏の系譜(22)
 
織田氏の系譜(22)
 
後期岩倉織田家は、系譜を清須の敏定に繋げる。敏信が岩倉城主になり上四郡を支配したかという問題については明確な答えが示されない。敏信の時代には岩倉織田家の庶流も健在であり、敏信が上四郡を支配したかは疑問。又、敏信が敏定の子供とする点については再検討の余地が残る。
(2012.2.23)
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織田氏の系譜(23)
 
織田氏の系譜(23)
 
後期岩倉織田家の系図は各資料で食い違いあり。敏定・敏信・敏安の関係にも疑問な点がある。「寛政系譜」は、清須織田家の彦五郎を敏定の養子に記すが、他の資料に於いてその事は確認されない。岩倉織田家の敏信が本当に敏定の息子かは疑問。清須織田家は敏定から彦五郎の間に複数の人物が当主となっているから、「寛政系譜」とは整合しない。検討の余地が残る。
(2012.3.17)
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織田氏の系譜(24)
 
織田氏の系譜(24) 
 
通説では、織田敏定・敏信を犬山城主と記すが、天文6年以前に犬山城は存在せず。
廣近@(木之下城主)―寛近A(木之下城主)信康B(木之下城主)@(犬山城主)―信清A(犬山城主)(没落)
通説的に紹介される犬山歴代城主に疑問のあることは、横山住雄氏が「新編犬山城史」で指摘している。横山氏が示す木ノ下城主歴代には、織田敏定や織田敏信は登場しない(『新編犬山城史』P.11)。木ノ下城跡については、拙著『織豊興亡史』P.155でも写真で紹介しています。現在は愛宕神社になっています。
(2012.3.29)
織田氏の系譜(岩倉織田氏)(3)  織田氏の系譜(岩倉織田家)(18)  織田氏の系譜(岩倉織田家)(19)などから、織田敏信を犬山城主とするのは疑問。
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織田氏の系譜(25)
 
織田氏の系譜(25)
 
(『織田氏の系譜(26)』へ続く)
主な織田系図に於いては、織田敏任の子に敏豊(赤見三郎左衛門尉)は記載なし。この系譜は、服部家の系譜によるらしいが、織田一族と断定するには傍証に欠ける部分があり検討の余地を残す。
(2012.4.8)
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織田氏の系譜(26)
 
織田氏の系譜(26)
 
大赤見服部家は織田一族末裔を称するが、先祖の敏豊は、楽田城主の織田久長の兄弟の織田敏任の子供とされるが、主要系図である「纂要」、「群書」、「寛政」、「系図綜覧」等には記載なし(前項参照)。又、この一族から桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った服部小平太(或いは服部小平次)が出たとするが、異説もあり戦国時代の織田系譜は混乱している。
(2012.4.9)
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織田氏の系譜(27)
 
織田氏の系譜(27)
 
織田次郎一族とは、織田常任(尾張織田家初代又代織田常竹)の末裔と考えられる。この一族からは織田三郎家(弾正一族)が派生している。現在流布する織田系図は書き換えられているが、それでも後期岩倉家(織田敏信―信安―信賢)と弾正忠織田家(織田信貞―信秀―信長)がこの傍系の可能性を示している。
一方、流布する系図は、大和守織田家の系図も書き換えている為奇妙な形になっている。流布する系譜では、織田敏定の後の大和守は、織田勝秀―遼勝を記すが、「清州町史」の織田一族に関する記述や地元の研究家の調査・論考とは一致しない。流布する系図は、敏定を伊勢守と記すが、地元の研究家の論考では、大和守は又代系と推察される織田敏定(清州家)で、伊勢守は守護代系の織田敏広(前期岩倉家)となっている。伊勢守は、尾張織田一族宗家の当主が称し、前期岩倉家がその資格を継承している。従って織田敏定が称した可能性があるとしたら、一時一族を統一した時期かと思うが、それなら代表的な大和守が併記されないのはおかしい。
(2012.4.19)
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織田氏の系譜(28)
 
織田氏の系譜(28)
 
信長の系譜は、清州織田家・敏定の後の大和守を直系から外し、信長の家系を接続させたものと思われる。清州織田家の系譜を常孝に繋げる(常孝―勝秀―遼勝)のは疑問。後期岩倉家、弾正家は、織田次郎の末裔で、分岐したものと思われる。
(2012.4.20)
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織田氏の系譜(29)
 
織田氏の系譜(29)
 
弾正家は、次郎家の分流と推定される。織田常竹の末裔で、清州織田大和守家の庶流と推察される。
(2012.4.21)
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織田氏の系譜(30)
 
織田氏の系譜(30)
 
加藤國光氏の推定系図によれば、織田次郎の兄弟の五郎が大和守を称し、以後子孫が継承したことになっているが、大和守家の系譜は横山説とは少し食い違う。ただこれらの系図は、羽前天童織田家の副本とは整合しない。織田一族の系譜には謎が多い。
(2012.4.22)
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織田氏の系譜(31)
 
織田氏の系譜(31)
 
便宜上この家系を因幡守家と表記したが、違和感もある。清須三奉行の系譜の中で、通称、或いは受領名・官職などの継承が唯一確認出来ない家系だからである。信長の家系は「弾正忠」を襲名しているし、小田井織田家には藤左衛門が複数登場する。一方因幡守家には、此処に掲載した系図では因幡守の襲名は確認されない。
@教広―教信―広季―広久―広泰―広延―達広(因幡守)―広信(信友彦五郎) ◆信友→清須織田家
A教広―常任―広住―■■―広長広延―達広(因幡守)―広信(信友彦五郎) ★広住(広任)
B教広―常任―勝久―敏貞―広貞―広延―達広(因幡守)―広信(信友彦五郎) ◆信友→清須織田家
―教信―季―久―泰―延―達(因幡守)―信(信友彦五郎) ◆信友→清須織田家
織田因幡守の系譜は、各種資料や先達の論考から概ね三説に集約される。ただどれが正しい系譜かは、今もって分からないというのが正直なところ。ここで注目すべきは、歴代当主とされる人物の名前。
系図を見ると一目瞭然だが「広」という字が多く登場する。室町幕府の足利将軍家が「義」を用いるように、この家系は「広」を通字としていたことが理解できる。@の系譜は旧岩倉織田家の庶流系譜。AとBは旧又代系織田家(織田常竹系)の庶流系譜。Bは又代系の内、大和守系庶流と推定される。
清須織田家最後の当主の彦五郎は、因幡守の実子とも云われる。謎多き家系。それが因幡守家である。
(2012.5.4)
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織田氏の系譜(32)
 
織田氏の系譜(32)
 
江戸時代に作成された織田系図は改竄系図であり、そこに記される因幡守家の系図は信用しがたい。
因幡守を敏定の弟や子或いは孫とするのは成立しがたい(敏定とその子の正確な系図は誰も立証しておらず、又、敏定と敏信の親子関係にも疑問な点がある)。(31)の系譜の様な共通項が見いだせない。因幡守は清須織田家の三奉行の一人。又、達勝を因幡守とすることは疑問。達勝は各種論考から大和守と推定される。敏定の子とするなら大和守(清須織田家当主の受領名)を称するのが妥当。江戸時代に改竄された織田系図は大和守織田家の系譜を事実上抹殺した。後で触れるが、結果として清須織田家の系図も不可解なものになっている。
(2012.5.5)
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織田氏の系譜(33)
 
織田氏の系譜(33)
 
織田藤左衛門は、各種系譜・論考から尾張又代織田常竹の一族末裔と推定される。ただ各種系図は食い違いもあり正確なところは分からない。瀧説は「武功夜話」をベースとするとされるが、細部は食い違いもある。
(2012.5.12)
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織田氏の系譜(34)
 
織田氏の系譜(34)
 
藤左衛門家の系図は、常寛から忠辰の間、資料により食い違いあり。子孫は尾張徳川家に仕える。尾張藩士の系譜である「士林泝」に記載あり。
(2012.5.15)
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織田氏の系譜(35)
 
織田氏の系譜(35)
 
藤左衛門家は、又八郎信直の時代の信長と姻戚関係となり、子孫は織田信雄に属し、後家康に召し出され尾張藩士となる。系譜は尾張藩士の系譜集「士林泝」に記されている。★ 他の資料(系図)では、忠辰以前混乱あり(前項参照)。
(2012.5.16)
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織田氏の系譜(36)
 
織田氏の系譜(36)
 
各種系図から、織田藤左衛門家の系図小田井織田家の系図とされるが、各系譜は食い違いがあり一致しない。幾度かの各書き換えで混乱したのであろうか?
小田井織田家の初代は織田常寛と推定されるが、久寛を初代にする説もあり(『系図研究の基礎知識』、『古代氏族系譜集成』)。
(2012.5.30)
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織田氏の系譜(37)
 
織田氏の系譜(37)
 
小田井織田家の系譜は、古い部分に混乱あり(始祖伝説に食い違いあり)。ここで紹介する系図では、大和守織田家(清須織田家)一門に位置付けている。
(2012.5.31)
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織田氏の系譜(38)
 
織田氏の系譜(38)
 
小田井織田家の系譜は戦国から江戸初期にかけて混乱あり。久孝と常寛、良縁と久孝の関係など幾つか疑問な点が浮上する。小田井織田家は清須織田家の庶流と推定されるが、正確な系譜の復元は困難である。
(2012.6.9)
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織田氏の系譜(39)
 
織田氏の系譜(39)
 
戦国期から江戸初期の小田井織田家の系譜は混乱している。この間の小田井織田家の位置付けは各資料で食い違いを生じる。忠辰以前を確定するのは難解である。
(2012.6.18)
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織田氏の系譜(40)
 
織田氏の系譜(40)
 
この系図は、『古代氏族系譜集成』及び『旅とルーツ』掲載の宝賀氏論考をベースに構成した。先の項目にも記したが、戦国期から江戸初期の小田井織田家の系譜は混乱している。各種系図を勘案すると、小田井織田家は、尾張織田氏傍系清須織田家(織田大和守家)一族の可能性が高い。又、信長の家系である織田弾正忠家とも近い関係にある一族の可能性も浮上している。
(2012.7.1)
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織田氏の系譜(41)
 
織田氏の系譜(41)
 
小田井織田家の系譜は他の織田一族同様戦国から江戸初期混乱あり。
小田井織田家は、清須織田家の傍系一族で、弾正忠織田家とも近い一族と推定される。小田織田家は弾正忠織田家と共に清須織田家三奉行の一翼を担う。戦国中期、小田井織田家は弾正忠織田家と姻戚関係を結び、子孫は尾張藩士となる。
(2012.7.9)
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織田氏の系譜(42)
 
織田氏の系譜(42)
 
織田藤左衛門家は、織田弾正忠家と姻戚関係を結ぶ。小田井織田家織田弾正忠家と姻戚関係を結ぶ。
織田藤左衛門家小田井織田家同一家系だが初期系譜に混乱あり(詳細は、別記の小田井織田家系譜参照)。小田井織田家は清須(清洲)守護代家を補佐し、時に弾正忠織田家と対立関係にもなる。後に両家は姻戚関係となる。小田井織田家犬山織田家とも姻戚関係となる。
(2012.7.11)
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織田氏の系譜(43)
 
織田氏の系譜(43)
 
岩倉織田家は、前期と後期で血脈が異なる可能性が高い。前期岩倉家の系譜は、各種基本系図では無視され、地元の研究家などが復元した系図が地元の「市史」などにより知られる。前期岩倉家の系譜の一部は、羽前天童織田家譜の副本に記されているが正本は記載せず。正本が流布する通説系図のベースになっのではなかろうか。この系譜は東大史料編纂所がアーカイブデーターとして公開していた。この情報開示は大変参考になった。類似の系譜は「古代氏族系譜集成」、「旅とルーツ」などの宝賀論考でも紹介されている。通説系図に不記載の情報もあり、比較検証では大いに参考になった。
(2012.7.15)
織田氏の系譜(岩倉織田家)(13) 織田氏の系譜(岩倉織田家)(14) 織田氏の系譜(岩倉織田家)(18)参照
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織田氏の系譜(44)
 
織田氏の系譜(44)
 
『寛政』、『纂要』、『群書』などの通説系図では前期岩倉家の系譜は掲載されていない。が、在野の研究論考などでは前期岩倉家の推定系図を紹介しているが、一部の学者を除き無視しているのが現状。しかし地元の市史などでは前期岩倉家にも触れているから概略を知ることは出来る。しかし後期岩倉家との繋がりについては判然としない。戦国後期に織田信安・信賢が信長と対立し岩倉織田家は滅亡した。現在流布する織田系図は江戸時代に書き換えられているが、羽前天童織田家譜・正本は流布する系図に近いもので前期岩倉家は登場しないが、裏家伝とも云える副本に前期岩倉織田家の系譜の一部が記載されており、小口織田家が前期岩倉織田家の分家であることが系譜により確認できる。この副本により在野の研究家の論考もある程度裏付けられた。前期岩倉家は広高以後の動向は判然としない。敏信が岩倉城主かは正確なところは分からない。清洲で万里集九に面会した敏信が、敵方の岩倉城主になったか疑問が残る。別記の織田敏信の項目織田氏の系譜(岩倉織田家)(18)織田氏の系譜(岩倉織田家)(19)織田氏の系譜(岩倉織田家)(21)を見てもらうと分かるが、敏信が清洲の織田敏定の息子とするには疑問が残る。敏信が敏定の長男か次男の場合(船田合戦で戦没)、信安との親子関係も怪しくなる。岩倉市の寺に残る位牌の法名(清巌常世、照巌常永)からは、信長の先祖の弾正忠一族(敏貞=月巌常照)と近い関係の可能性も浮上する。
(2012.7.16)
ブレイクタイム
異系織田氏略系譜(平家伝説
平知盛@―安盛(新ノ太郎左衛門)A―政盛B―種盛C―重清D―晴盛E―助盛F―義盛G―歳盛H―信盛I―尚盛J―茂盛K―久盛L―胤盛M―秋稲N―唯盛O=織田信重(実父は、織田長信?)P―繁盛Q…………………泰盛(26)  ※ 何時から織田を称したか、正確なところは判然としません。織田長信の系は不詳。
この系譜は、高知県高岡郡越知町の平家伝説に関係する織田氏略系図であるこれ以上詳細な系譜は、扶桑家系研究所の所持する、史料・書籍では確認できません)。 
長信を信長の誤記とし、その三男が信重とする意見もあるが、通説では、信長の三男は、神戸信孝であり、信長の息子に、信重なる人物は、主要系図集では確認できない。
2014年12月26日、倉爪様という方から、当方のサイトにメールを頂戴した。それによれば、信長の子孫が織田といわれるのは不愉快です。と記されていました。又、高知県高岡郡越知の織田をクローズアップして、もう少し織田をお調べになったらいかがですか?と強烈なジャブが記されていました。
織田信長は書類を作為し平清盛のひ孫寺住職から織田姓をもらいました。とも記されていました。
返信したのですが、先方のアドレスが、「ダミーアドレス」だったのか、返信したがメールデリバリーが宛先不明を示唆していました。よって、ここに返信の主要部分を掲載し、再度、当方のサイトを閲覧されることに期待します。
※ これがいたずらメールであれば、非常に残念で不愉快な気持ちになります。
尾張の織田氏は、信長が美濃併合まで、藤原姓を本姓とし、平姓は確認されていないようです。信長以外の尾張織田氏も、織田達勝は、藤原達勝であって平達勝ではありません(各種論考より)。
信長は、尾張織田氏ですから、その子孫が織田とされるのは、特に問題とは受け止めていません。本姓については、専門家の間でも固まっていないようですが・・・・・。
織田は名字ですから、先祖の出身地に由来しても何ら不思議はありません。
尾張織田一族は、近江の津田一族の者が、越前織田剣神社の神官に養われ、津田或いは織田を称したようです。剣神社の神官は、『古代氏族系譜集成』によれば、忌部(齋部)氏であり、そうであるならば平資盛に結びつけるのは、系図改竄・仮冒ということになります。信長の家系が、名字を織田と称するのは、織田剣神社の織田荘(織田庄)に由来するものと伝えられています。
あなたの指摘される四国の織田とは、別系の織田氏(本姓忌部→藤原→信長が天下を目指してから「平姓」)です。
織田信長は書類を作為し平清盛のひ孫寺住職から織田姓をもらいましたそれは、何かの誤伝・錯誤ではないでしょか。織田研究家のルーツに関する論考に、そういう事実は登場しませんし、私も把握していません。信長の織田は、織田剣神社もしくは織田荘に由来するものと理解しています。
当方は、尾張在住で、追跡しているのは戦国大名尾張織田一族ですので、四国の織田氏までは言及していません。
四国織田に関しては、私の持っているのは、上記の系譜までで、詳細な系譜は知りません。平家伝説に関しては、主要な系譜文献で考証・検証することは出来ませんので、個別に研究された論考などを参照勘案するしかありません。四国の織田に関しては、四国の平家伝説或いは、織田氏の研究家にお尋ねになるのが、あなたの求める答えが見つかるのではないでしょうか?
あなたの求めに答える回答になっていないかも知れませんが、現状では、これ以上の回答は出来ませんのでご了承下さい。
当方は、主に戦国大名の系譜を追跡しているので、尾張織田一族が追跡対象であり、四国織田の詳細な史料はもちあわせていませんのであしからず。
異聞歴史館/扶桑家系研究所
(2014.12.27)
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織田氏の系譜(45)
 
織田氏の系譜(45)
 
尾張織田氏の系譜は、戦国末期から江戸時代初期に書き換えられ、実態がよく分からない。尾張織田宗家・尾張守護代家は、古岩倉家(常松系織田氏)が継承するが、応仁の乱で西軍に荷担すると、又代系織田氏の敏定を守護代として尾張に入国させ、下津城の守護所を、出城の清洲城へ移し守護所とし、清洲織田家が、この後、守護斯波家を守護し形式上は、下四郡の守護代だが、実質的には尾張守護代に就任する。しかし、尾張守護代の正確な歴代は、よく分からない。岩倉織田家も健在だし・・・・・。
(2015.10.17)
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織田氏の系譜(46)
  
織田氏の系譜(46)
  
奥富氏編纂の系図(『日本家系・系図大事典』)は、疑問あり。
(2015.10.24)
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織田氏の系譜(47)
織田久長(常祐)−敏定常英)−寛定=寛村(弟)(常巨)=達定(五郎)=達勝=信友(彦五郎)【滅亡】
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