扶桑家系研究所 リポート25 
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扶桑家系研究所 リポート25
美濃明智氏一族の系譜
 
闇のヒーロー、天下の謀反人と喧伝される明智光秀は、通説に於いては、美濃源氏土岐氏一族の流れを汲むと伝えられる。基本系図として、一定の評価を受ける『尊卑分脈』の清和源氏の系図では、土岐氏の庶流に明智氏を記しているので、美濃土岐氏の庶流に明智氏がいたことは肯定されると考えても差し支えはない。ただ明智光秀が、この流れを汲む明智氏か否かという点に関しては、明確な証拠は、現状確認されていない。
源國房−光國−土岐光信−光基=光衡(土岐光衡)=光行−光定(光貞)−頼貞(隠岐頼貞・土岐頼貞)−頼基−明地頼重(明智頼重)…頼秀…頼高…光高(頼久)…光重(一族に政宣)…光兼(以下記載なし
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明智光秀とその一族
土岐光衡=光行−光定(光貞)−頼貞−頼基−頼重(土岐明智頼重)(兄弟に頼高、頼助を記す)−頼篤−國篤−頼秋−頼秀(土岐明智十郎)−頼弘−頼定−頼尚−頼典光隆−光秀(明智十兵衛、惟任日向守)−女子(細川忠興妻、玉・ガラシャ) ※「尊卑分脈」の明智系図とは整合せず。
土岐光衡=光行−光定(光貞)−頼貞−頼基−頼重(土岐明智頼重)(兄弟に頼高、頼助を記す)−頼篤−國篤−頼秋−頼秀(土岐明智十郎)−頼弘−頼定−頼尚−頼明−定明−定政(菅沼定政・土岐定政)(沼田藩祖)
土岐頼貞−頼基−頼重(土岐明智頼重)−頼秀(明地彦六)−頼高(明智兵庫頭)(入道常秋か?(奉書.1447)頼久(光高)(明知美乃頼久)−頼連(明智兵庫助、入道玄宣(奉書.1495)(連歌史料)−政宣(明知中務少甫(連歌史料)  ※ 明智兵庫助家  ★ 明智玄宣は、明応4年(1495)頃、土岐明智頼定と所領相論。 (津田勇氏推定復元系図) ☆ 拙著『肥前の龍と遠山桜』P.266からP.294及びP.300以下参照(津田論考再掲)。
土岐頼貞−頼基−頼重(土岐明智頼重)−頼秀(明地彦六)−頼高(明智兵庫頭)(入道常秋か?(奉書.1447)頼久(光高)(明知美乃頼久)−光重(明知美乃、彦一郎)(連歌史料.1486)−光兼(光継.同一人物か?)−光綱(光隆)=光秀(彦太郎、明智光秀)(養子説あり)−玄琳明智系図作製者?
土岐頼貞−頼基−頼重(土岐明智頼重)−頼秀(明地彦六)−頼高(明智兵庫頭)(入道常秋か?(奉書.1447)頼久(光高)(明知美乃頼久)−光重(明知美乃、彦一郎)(連歌史料.1486)−光兼(光継.同一人物か?)−光安(明智兵庫助入道宗寂
美濃及び幕臣明智氏一族の系譜
【室町幕府奉公衆明智一族】(『美濃・土岐一族』谷口研語、新人物往来社)
文安番帳 永享番帳 長享番帳 東山番帳
明智中務少輔 明智兵庫助
明智左馬助政宣
明智兵庫頭
明智中務少輔
頼重(土岐明智頼重)−頼秀−頼高(明智兵庫頭頼久(光高)−頼連(明智兵庫助)−政宣(明知中務少甫  ※ 明智兵庫助家  
頼重(土岐明智頼重)−頼秀−頼高(明智兵庫頭頼久(光高)光重(彦一郎)−光兼(光継.同一人物か?)−光安(明智兵庫助入道宗寂 ※ 明智美濃家  ★ 上記概略系図参照(津田論考に注目)。
★ 『尊卑分脈』の明智氏の系図(明地頼重…頼秀…頼高…光高〔頼久〕…光重…光兼)は、室町幕府奉公衆明智氏の系図の一部ということになる。子孫は記載なく不詳。
謎の明智氏系図
明智光秀の系図を語るとき、よく紹介されるのが、『群書系図部集・第三』掲載の明智系図である。原典は「群書類従巻第百二十八・系圖部廿三掲載の土岐系圖の後の舟木系圖の後に掲載の『明智系圖』である。この系図は寛永8年に妙心寺塔頭・僧玄琳が、喜多村彌兵衛に送ったものと伝えられる(編纂者は、玄琳か?)。しかし、この系図は、額面道通りには信用できない。 ざっくり云えば、改竄・捏造・創作の可能性が高い歴代数が、通常の系図に比較して多い印象を抱く。記述に疑問な点も・・・・・。
【土岐系図】(家督継承ではなく、血統歴代)
光行−頼貞−頼清@-頼忠A−頼益B−持益C−成頼D−政房E−頼藝F
【明智系図】(家督継承ではなく、血統歴代)
光行−頼貞−頼基@-頼重A−頼篤B−國篤C−頼秋D−頼秀E−頼弘F−頼定G−頼尚H−明智頼典I−光國J−光秀K−僧玄琳
★ 道三に追われた土岐頼藝までの歴代と、頼藝と同時代と推定される明智頼典までの歴代に三代開きがある。
  二十五年の法則に照らすと七十五年。三十年の法則に照らすと九十年。系譜上、同じ人物を始祖とする二つの家系の直系歴代に、これだけの差が生じることは考えにくい。明智家図の中に同一人物を親子2人に錯誤したか、傍系の家督相続を親子関係に書き換えた可能性も考えられる。うがった見方をすると、この系図の作者は、幕府奉公衆明智氏の庶流で、美濃に残った一族に、光秀の系譜を結びつけ、尚かつ、自分や喜多村彌兵衛の先祖と思われる人物を、光秀の庶子として系図を改竄・捏造した可能性も考えられる。頼基@-頼重A−頼篤B−國篤C−頼秋D−頼秀E−頼弘F−頼定G−頼尚Hの系譜は、『群書系図部集・第三』の巻第百二十八掲載の冒頭の「土岐系圖」にも掲載されていることから、幕府奉公衆明智家(『尊卑分脈』掲載)の明地頼重(明智頼重)…頼秀…頼高…光高(頼久)…光重(一族に政宣)…光兼の庶流の可能性は、考えられる。注目すべき点は、「群書」の土岐系図の頼弘の附記に、異本は、頼弘を頼高に記し、その子に光高(一作頼久)その子に十郎光重。弟に政宣。光重の子に光兼を記し、光重は文明時の人と記している点である。これを系譜として構成すると、頼基@-頼重A−頼篤B−國篤C−頼秋D−頼秀E−頼弘F(頼高−光高(頼久)−光重(弟に政宣)−光兼という「尊卑分脈」幕府奉公衆明智系図が復元される。しかし、「尊卑分脈」では、光高の兄弟として、頼定は確認できないし、その子とされる頼尚の系図の記載はない。先達の研究によると、この家系は、明智姓の発祥の地の可児郡にわたる明智荘は、所領とした痕跡がなく、武儀郡や多藝庄内多藝島郷や妻木郷武気庄内など、可児郡明智とは無関係な地域を分散所領としており、その後は、どんどん所領を失い、頼尚の時代には僅かな所領しか保持していなかったと指摘している。国人領主(国衆)以下土豪・地侍レベルで、とても戦国大名として台頭できる基盤も保持していなかったということになる。となると明智城主とされる明智氏は、別系統或いは、幻の明智家ということになる。この系譜は、ある程度評価される系譜文献には、一切記載がない。光秀が、この幻の明智一族の末裔ではという見方もでているが、それを立証する系譜や文献は、現状確認されたという話しは聞いたことがない。(2016.4.28現在)
『群書系図部集』掲載の「明智系図」は、参考になる情報も含んではいるが、一部改竄・捏造の可能性もあり、全面的に信用することは出来ない。異常な歴代の多さも、その疑いがある事を示唆している。又、実父の名前も確定できないほど、歴史上に痕跡の確認できない光秀の父親の正室が、若狭守護武田義統の姉もしくは妹というのも、釣り合いから云って信用しかねる。片や腐っても若狭の守護大名。一方明智は、土豪程度の家系、或いは浪人の可能性もある。「群書系図部集』掲載の「武田系図」も確認したが、明智との痕跡を示すものはない。若狭武田家は滅亡しているから、あえて明智との関係を消し去る必然性もない点から、光秀の母親が、若狭武田家の姫というのは、怪しいと云わざるを得ない。現在流布する光秀の系譜には、信用できるものはないといっても、言い過ぎではなかろう。
緊急告知
平成28年(2016)11月21日PM7:00にTBSの「7時にあいましょう」で、クリス・ペプラー氏明智光秀の末裔(直系子孫)であることの検証が「専門家」によって行われ、間違いないという論調の内容が放送されました。
問題なのは、放送の前の週に、番組宣伝サイトで、番組関係者が、系図を専門的に研究している「日本家系図学会」も、今回の検証番組を受け「末裔といっても構わない」みていると記し、11月19日夕方配信の「スポニチ」のサイトに引用され拡散、11月21日の放送後は、更に幾つかのサイトやブログなどに転用され拡散しました。当方のサイトの閲覧者の方に申し上げます。
「日本家系図学会」は、基本系図資料や、ある程度精査された歴史文献などの裏打ちのない系譜の、真贋鑑定や、論評などは、行いません。
「日本家系図学会」は、役員の間で、本件の協議・検証を行ったことはありません。従って、役員による統一見解もなく、「日本家系図学会」として、お墨付きを与えたと誤解されるような論評や、公式見解を発することはあり得ません。在京役員から、問い合わせを受けたこともありません。当会の会長は、古代氏族研究会の関連サイトで、明智氏については、論考を掲載されているが、明智系図に疑問も呈しておられるから、当然の事ですが、お墨付きを与えるような見解を述べることはありません。放送前に、会長に確認しましたが、番組内容を承認するようなコメントは、出していないと云うことです。要するに、「日本家系図学会」として、何の公式:見解も発していないと云うことです。仮に、当会の関係者が、番組関係者に、何らかの発言をしたとしても、それは、個人的見解であり、「日本家系図学会」の公式見解ではありません。
クリス・ペプラー氏の祖母方が「土岐家」の血脈なら、土岐氏の末裔というのは、裏付けがあれば、肯定されるかも知れませんが、光秀の末裔というのは、信憑性のある系図資料や文献などの裏付けがあり、学者や系図研究のトップクラスの研究家が納得できるものでなければ、軽々に光秀の末裔とは、いうべきではない。「寛政重修諸家譜」の土岐家系図や、「系図纂要」の土岐家系図では、土岐頼勝が、養子であるとは記されていない。仮に養子であり、光秀の名前が記載できないなら、某氏より養子と附記することは出来る。確認の範囲では、土岐頼勝は、養子ではなく実子と云うことになる。歌手でタレントのDAIGOが、墓の家紋を見てオーバーに驚いていたが、桔梗紋は、土岐一族の多くが用いているから驚くべき事ではない。土岐氏庶流の明智氏も、桔梗紋を用いるが、家紋が同系だからといって、光秀の末裔と断定するのは、或いは視聴者にそういう印象を与えるのは、如何なものか。視聴率が取れればそれでいいというのでは、番組関係者は、地道に歴史や系譜を追跡している研究家を小馬鹿にしていませんか。昨今は、ネットの時代。誤った情報が拡散すると、収拾がつかなくなるし、地道に歴史を追いかけているものにとっては、はた迷惑な話。放送局や、ネット配信のマスメディアには、それだけ大きな「責任がある」ということです。以前には、NHKが、著名人のルーツを追いかけ、番組で放送したら、本物の末裔から、クレームが付くという、大失態を犯している。名家や有名武将の末裔と称したい人も少なくないが、偽系図をでっち上げると云うことは、本物のご先祖様を冒涜することになるということを知ってもらいたい。
土岐氏の庶流に明智氏がいることは、「尊卑分脈」などでも確認できるが、この家系は、室町幕府奉公衆の明智系図である。他の資料では、異なる系譜を記すが、こちらは、美濃に残った明智一族の一流だが、発祥地とされる可児郡明智庄周辺に、所領を持っていなかったことが、先達の研究により、明らかにされつつある。明智光秀は、確かに明智姓を称しているが、果たして明智一族か、明智一族だとしたら、どの流れの明智か、謎は多い。江戸時代に、大名になった土岐家は、菅沼を称したが、そのルーツは、明智一族である。系譜によっては、この系譜に光秀の系譜を結びつけるものもあるが、現時点で、正しい系譜は確定されていない。光秀の系図は、謎と疑惑が交錯する系譜である。
(2016.11.27)
TBSの番組で、解説していた「専門家」は、大学の歴史学の教授・学者ではなく、明智憲三郎氏という、「明智光秀の末裔を自称・公称する人物」ということです。確かに明智光秀研究の「専門家」かもしれないが・・・・。「解説」「解説者の人選」には、疑問・違和感を感じました。視聴率を採りたいために、番組関係者が焦ったと云うことでしょうか。放送前の番組宣伝のサイトでは、無関係の「日本家系図学会」も認めたような文言を記載して配信していたが・・・・(その文言は、直後のスポニチサイトと、番組放送後スポニチサイトなどを経由し拡散しています。11月21日の放送後は、急速に拡散しています。いつ終息するか気になるところ)(明智光秀末裔、明智光秀子孫、明智光秀・日本家系図学会などのキーワードで検索すると、記載のサイト名が分かります)。大手マスコミのモラルの低下を感じました。
目次
1. 明智氏一族の系譜(1) 『日本系譜綜覧』、『戦国大名家370出自綜覧』
2. 明智氏一族の系譜(2)(土岐氏概略) 『尊卑分脈』
3. 明智氏一族の系譜(3)(土岐氏概略) 『群書系図部集』
4. 明智氏一族の系譜(4)(土岐氏概略) 『系図纂要』、他。
5. 明智氏一族の系譜(5)(謎の明智氏系図) 『俊英 明智光秀』
6. 明智氏一族の系譜(6)(謎の明智氏系図) 『明智光秀 野望!本能寺の変』、『明智光秀』
7. 明智氏一族の系譜(7)(沼田藩土岐家先祖系) 『寛政重修諸家譜』『系図纂要』
8. 明智氏一族の系譜(8)(明智・妻木氏略系図) 『寛政重修諸家譜』『美濃・土岐一族』、他。
9. 明智氏一族の系譜(9)(明智氏姻族系図) 『明智光秀 野望!本能寺の変』、『明智光秀』
10. 明智氏一族の系譜(10)(明智氏姻族系図) 『國史叢書「美濃國諸旧記」(國史研究會蔵版)』
11. 明智氏一族の系譜(11)(改竄された明智系図) 『群書系図部集』、『系図纂要』、『俊英 明智光秀』、他。
12. 明智氏一族の系譜(12)(室町幕府奉公衆) 『明智光秀・浪人出身の外様大名の実像』、『美濃・土岐一族』、他。
13. 明智氏一族の系譜(13)(諸族) 『姓氏家系大辞典』、『日本家系・系図大事典』
14. 明智氏一族の系譜(14)(明智氏姻族略系図) 『系図研究の基礎知識』
15. 明智氏一族の系譜(15)(宮城家先祖系図) 『明智氏一族宮城家相傳系圖書』
16. 明智氏一族の系譜(16)(宮城家系図) 『明智氏一族宮城家相傳系圖書』
17. 明智氏一族の系譜(17)(改竄された明智系図) 『明智光秀公家譜古文書(復刻)』
18. 明智氏一族の系譜(18)(山岸氏関係系図) 『明智光秀公家譜古文書(復刻)』、『國史叢書「美濃國諸旧記」(國史研究會蔵版)』
19. 明智氏一族の系譜(19)(三宅家系図) 『明智氏一族 三宅家の史料』
20. 明智氏一族の系譜(20)(三宅家系図) 『明智氏一族 三宅家の史料』、『明智氏一族宮城家相傳系圖書』、『三百藩家臣人名事典・7』
21. 明智氏一族の系譜(21)(三宅家系図附記山岸系図、他) 『大石家系圖正纂』、『大石家外戚枝葉傳』、『明智氏一族 三宅家の史料』
22. 明智氏一族の系譜(22)(明智光秀の子供) 『群書系図部集』、『系図纂要』、『俊英 明智光秀』
23. 明智氏一族の系譜(23)
24. 明智氏一族の系譜(24)
25. 明智氏一族の系譜(25)
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明智氏一族の系譜(1)
 
明智氏一族の系譜(1)
 
『日本系譜綜覧』は、明智氏一族が、美濃土岐氏の一族庶流と明記しているが、この系譜が正しい否かは断定できない。ただ、今後追跡の各種系図を比較検討する場合には、参考になろう。
熱田公氏も指摘されておられるが、明智光秀の前半生は、よく分からない。信長に仕える以前に越前朝倉家の客分だったらしいという程度で、それ以前の動向は、定かでない。又、光秀の子女は、文献などの裏付けのあるのは、二男三女。通説で嫡男とされる十五郎(系譜では、惟任光慶・明智光慶とされる人物)、実名不詳の男子。織田信澄の室細川忠興の室(細川ガラシャは、「寛政重修諸家譜」の附記でも確認できる。細川ガラシャは、光秀の子女の中では、最も知られた存在で、関ヶ原合戦の時、大坂屋敷からの脱出を石田方に阻止されたガラシャは、キリシタンであるので自殺出来ないので、家臣に自らを刺殺させ、大坂の細川屋敷は炎上した。他に女子一名を記す。系図によっては、多くの子女を記す物もあるが、はなはだ怪しい。
(2016.4.23)
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明智氏一族の系譜(2)
 
明智氏一族の系譜(2)
 
美濃土岐氏一族に明地(明智)氏がいたことは、『尊卑分脈』でも確認できるが、その系譜は判然としない。頼秀以下系線は波線表記で、疑問も残るが、『群書系図部集・第三(原典は、「群書類従・系譜部」掲載系譜)』の土岐系図に記された明智系図とは重なる部分もある。異本系譜として附記された記述を系図化すると、、「分脈」掲載の系図に重なり、改めて、土岐一族に明智氏がいたことは確認できる。しかし、この明智氏が、可児郡の明智氏の本宗家(明智氏惣領家)の可能性は低い。この家系が、可児郡の明智領域を所領とした痕跡が確認されないからである。当然のことだが、明智城主の可能性も極めて低い。
(2016.4.28)
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明智氏一族の系譜(3)
 
明智氏一族の系譜(3)
 
この『明智氏系図』は、僧玄琳が、喜多村氏に贈ったとされるが、正妻の子に関する記述が曖昧なのに、庶子は明記されている。何らかの意図により作製されたと見るべきで、光秀の子に関しては、疑義がある。又、本来異なる系譜に属する光秀の系譜を、没落した他の明智系図に結びつけた疑惑もある(『頼』を通字とする明智氏に、『光』を通字とする光秀の系図を結びつけ、系図を整えた可能性も考えられる)。
(2016.5.5)
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明智氏一族の系譜(4)
 
明智氏一族の系譜(4)
 
明智氏の系譜は、頼兼系頼重系を記すが、頼兼系は、途中が不詳。頼重系は、菅沼系土岐氏を称し、江戸時代、本流(旧美濃国守護土岐氏)を差し置いて大名に列する。雑誌などには、この二つを合成改竄した系図が掲載されていることもある(明智頼典明智光継同一人物として系図合成)。頼兼系は、長山氏を称し、美濃国可児郡の長山城主(明智城主)で、幻の明智氏惣領家(明智城主家)とする見立てもあるが、立証はされていない。或いは、幕府奉公衆一族の流れを汲む者が本流か?明智光秀の系は、定まっていない。
(2016.5.22)
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明智氏一族の系譜(5)
 
明智氏一族の系譜(5)
 
明智氏は、美濃土岐氏一族と伝えるが、始祖の名前も、光秀の父祖の名前も各系図により異なり判然としない。土岐氏一族に明智氏がいる事は、断片的だが『尊卑分脈』室町幕府奉公衆明智氏の系図が記されているから、土岐氏庶流である事は認められようが、起立時点から歴代も判然としない混乱した系図である。明智氏が土岐氏一族としても、光秀が明智を称するからといって、この血脈か否かは立証されていない。現状、明智光秀は、謎の人物であり、光秀の家系は謎だらけ。判然としないと云わざるを得ない。
※ 『群書類従』掲載の『明智系図』に記される一本系譜(別伝)の文書を系図化すると、『尊卑分脈』の系図に重なる。
明智氏一族の系譜(2)
(2016.6.10)
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明智氏一族の系譜(6)
 
明智氏一族の系譜(6)
 
明智光秀の出自は諸説あり混乱している。中には、明智と無関係という説もあり、詳細は不詳。一般的には、美濃土岐氏一族の庶流とされるが、正確な系図は確認されていない。又、土岐氏庶流の明智一族であるとしても、美濃明智の本流とするのは疑問あり。「軍記物」などによる脚色の可能性もあり、現時点で、断定するに至る系譜は確認されていない。室町幕府奉公衆の明智氏との関係も想定されるが、結論を出すには至らない。谷口氏らも、明確な答えを出すには至らない。それだけ明智光秀の系譜には、謎があるということである。
(2016.12.3)
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明智氏一族の系譜(7)
 
明智氏一族の系譜(7)
 
一部研究家の中には、明智光秀と土岐定政が、同系とみる人もいるが、同族ではあるが、別系と見るべきであろう。定政の大伯父の頼典に結びつける系図もあるが、改竄の可能性が高い。光秀の先祖系譜は、判然としない。定政の先祖の明智氏は、室町幕府奉公衆の同族で、美濃に残った一族の流れかもしれない。可児郡明智や長山城とは別系の可能性も考えられる。一方の光秀は、「幻の明智一族=長山城主」の流れを汲む者かもしれない。
(2016.12.4)
明智氏一族の系譜(4)もご覧下さい。
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明智氏一族の系譜(8)
 
明智氏一族の系譜(8)
 
明智一族は、草創期から系譜が混乱している。室町幕府奉公衆の明智氏は、土岐明智の「頼重系」で、光秀の家系は、長山明智の「頼兼系」の末裔と『系図纂要』は記すが、光継以前は、系譜不詳(中抜)で、幻の明智一族か?
光秀の妻は、妻木氏の出身とされるが、『寛政重修諸家譜』の旗本妻木系図は、藤右衛門に該当する人物は記しているが、光秀の舅の妻木範煕(勘解由左衛門)は、記載されていない。
(2016.12.6)
 
土岐光定−頼基−明地頼重−頼秀頼高−光高−光重−光兼(谷口研語 『明智光秀』 抜粋系図)
土岐光定−頼基−明地頼重−頼秀頼高−光高−政宣(『明智光秀・浪人出身の外様大名の実像』 谷口研語)
谷口氏作成の系譜は、『尊卑分脈』をベースにしている(室町幕府奉公衆の明智氏)。
【明智】 『尊卑分脈』は、光兼までで、以下記載なし(早瀬.注)。
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼秀頼高−光高(頼久)−光重−光兼(光継)−光綱(光隆)−光秀−玄琳
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼秀頼高−光高(頼久)−頼連(玄宣)−政宣
【土岐明智】(後の明智・菅沼系土岐氏=沼田藩主土岐家)
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼篤(國篤)−頼秀−頼弘−頼定−頼尚−頼明−定明−土岐定政
 津田勇氏作成の修正明智氏復元系図より構成(『尊卑分脈』『明智系図』と連歌関係文書などから復元)。
津田氏に寄れば、『尊卑分脈』には、一部誤りがあると指摘する(政宣の系譜)
明智光宣(可児郡明智城主)−山岸光貞−貞秀=光信(明智光継二男)−貞連 
明智光宣(可児郡明智城主)−山岸光貞−貞秀=光信−女子(千種)−明智光重(父は明智光秀 
 美濃國関係資料による。
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼篤−國篤−頼秋頼秀−頼弘−頼定−頼尚−頼明−頼典
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼篤−國篤−頼秋頼秀−頼弘−頼定−頼尚−頼明−定明−土岐定政
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼篤−國篤−頼秋頼秀頼高−光高(玄宣)−光重−光兼
土岐頼貞−頼基−明地頼重−頼篤−國篤−頼秋頼秀頼高−光高(玄宣)−政宣
 合成された「土岐明智系図」 (明智憲三郎 『本能寺の変431年目の真実』P.295掲載系図より構成) 
明智氏の作成系図と、谷口、津田氏の推定復元系図には、食い違いがある。又、光秀の名前は、記載なし。
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明智氏一族の系譜(9)
 
明智氏一族の系譜(9)
 
明智光秀の姻族関係は、光秀の一族や、織田家外様衆などにより形成されている。この閨閥は、本能寺の変にも絡んでくる。細川父子と筒井順慶は、本能寺の変後、明智軍への参加を求められるが、事実上拒否した。
本能寺の変は、信長の四国に対する方針変更も要因の一つと云われる。
(2017.1.4)
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明智氏一族の系譜(10)
 
明智氏一族の系譜(10)
 
光秀の明智氏は、美濃山岸氏一族と数回姻族関係を形成している。光秀の明智家は、長山系明智一族の末裔か?後世の系図は、別系の明智一族に系図を結びつけたものが流布している。光秀の正系は、判然としない。
(2017.1.7)
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明智氏一族の系譜(11)
 
明智氏一族の系譜(11)
 
現在流布する明智系図(『正続群書類従・系譜部』掲載の「明智系図」がベース)は、江戸時代に、作成された、合成改竄系図の可能性が極めて高い。光秀の系図を、「土岐文書」などで傍証される沼田藩主土岐家(美濃明智一族で、戦国時代、一時、菅沼姓を称する)の系図に結びつけ、尚かつ、自称、光秀の庶子や子孫を附記して整えた系図である。ここには、通説で光秀の嫡男とされる光慶は、記載されていない。
(2017.1.8)
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明智氏一族の系譜(12)
 
明智氏一族の系譜(12)
 
明智光秀の系譜は判然としないが、昨今の先達の研究で、美濃明智氏一族の系譜が、明らかにされつつある(谷口研語、津田勇氏など)。一つは、室町幕府奉公衆明智氏で、こちらは、部分的には『尊卑分脈』とも照合できる。もう一つは、美濃に残った明智氏だが、こちらは、明智の本拠地とされる可児郡ではなく、土岐郡や、その他の地域に所領を持ち、戦国期には、多くの領地を失い、國人領主どころか、土豪レベルまで没落している。この家系は、明智定明が、土岐頼芸と斎藤道三が争った時、土岐氏に荷担し没落。遺児の定政は、母方の縁で、三河山家三方衆の菅沼一族を頼り、成人後は、菅沼氏として、徳川を称する以前の家康に仕え、江戸時代には、明智・菅沼系土岐家を創設。後に沼田藩主土岐家となる。この間の明智光秀の一族系譜は、定かでない。江戸時代捏造され、『群書類従』に掲載の「明智氏系図」では、定明の一族に記すが、定明の系と、光秀の系は、「系図纂要」などを勘案すると、別系統と推察される。定明の明智一族は、土岐文書などでもある程度検証されるから、後から、光秀の系図を接続した可能性が高い。「通字」の点からも、両系図を同一系とするには、疑問がある。
(2017.1.18)
謎の明智氏
美濃の明智氏は、明智光秀が信長に仕え、本能寺の変を起こさなければ、歴史の表舞台で注目されることはなかったかもしれない。せいぜい信長の重臣として、名前をとどめる程度の存在だったかもしれない。明智光秀は、明智氏を称しているが、その系譜は判然としない。「軍記物」などによる光秀の出自は信用することはできない。明智氏が、美濃守護土岐氏一族の庶流だとしても、光秀が明智氏であることを立証する文献は確認されていない。江戸時代に流布した明智氏系図は、改竄系図だから信用することはできない。『群書類従』掲載の「明智系図」は、光秀の系譜を語る時に紹介されるが、明らかに改竄系図で、沼田藩主土岐家の系図(明智・菅沼系図)に、光秀の系譜を結びつけたものである。沼田土岐家の系光秀の系別系であることは、「系図纂要」の明智系図が示唆している。ただし、光秀の正系は確認できない。『纂要』は、長山系明智の末裔とするが、光秀の祖父以前は不記載で、歴代は明記されていない。又、光秀の父と祖父の名前も、本当の名前かは立証できない。美濃土岐氏庶流の明智氏は、室町幕府奉公衆の系譜が、断片的だが、『尊卑分脈』により確認されるが、美濃在住の明智氏(後の菅沼系)や、光秀の系譜は、『尊卑分脈』には記されていない。つまり、一定程度評価される系譜文献で、明智氏一族の系譜を検証することは、事実上不可能という事である。学者は、系譜を軽視するが、多くの在野の研究家や研究者が明智系図の検証復元にアプローチしている。特に谷口研語氏と津田勇氏のアプローチは、室町幕府奉公衆の明智家系譜を再浮上させ、少なくとも、土岐氏庶流とされる明智氏は、通説のように一系(明智・菅沼・土岐系図)ではなく、複数の流れがあることを明らかにした。問題なのは、光秀が、美濃明智氏一族の血脈である場合、どの系譜に属するかという問題である。少なくとも、菅沼系とは、別系てあろうことは推察される。もちろん、明智を称しても明智と無関係の可能性もあるが、明智庶流には、繋がるのでは無かろうか?それと、明智一族の、発祥地の問題もある。著名な学者が、安易に結論付けしていることから、色々誤解を生じている部分もあるし、少なからず、次代の学者などにも悪影響及ぼしている。この点については、二つの在野の家系図研究団体の代表を兼務する宝賀寿男氏も、自身の関連サイトで明智氏の論考を掲載する中で、疑問を呈している。
明智氏一族に関する宝賀氏論考
高柳光寿氏の『人物叢書 明智光秀』によれば、光秀の明智家は、恵那郡明智城での敗北で離散したとするが、恵那の明智城は、明智遠山家の領域であり、明智一族の勢力圏外。恵那の明智で籠城、討ち死にすることは、あり得ない。斎藤龍興が明智城を攻めたというのも誤り。龍興の親の義龍配下の長井氏が、明智城を攻撃し、一端、可児の明智一族は滅亡した(光秀と一部の者は、越前に逃亡する)。可児の明智家(ここでは、明智光秀の明智家を、可児長山の明智家と仮定する)は、弘治2年(1556)9月、道三を敗死させた斎藤義龍は、道三と姻戚関係にあった可児の明智家の明智光安(通説的見解は、光秀の叔父と記す)を攻めた。城は落ち、光安ら明智一族は滅亡。光秀らは、城を逃れ、越前に逃亡したという。「明智軍記」は、斎藤龍興が明智を攻めたとするが、この時の当主は、斎藤義龍であり、龍興ではない。光秀は、越前に逃れたあと、一時越前を離れ、2年ほど全国を遍歴したとするが、まず物理的に無理だし、内容も史実を無視した小説であり、「明智軍記」には、何ら資料的価値はない。そのことは、高柳氏が、人物叢書で指摘している。高柳氏によれば、光秀の父とされる人物は、良質の史料には全く所見がなく、結局光秀の父の名前さえはっきりしないのである。ということは、光秀の家は土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生まれた当時は文献にでてくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が広く世に知られるに至ったと記す。美濃明智氏が、土岐氏の庶流であることは、室町幕府奉公衆の明智氏の存在により明らかだが、光秀の明智家が、明智氏一族とは、何ら立証されていない。光秀に関しては、『細川家記』が傍証史料として用いられることが多いが、幾つかの作為があり全面的に信用するのは危険である。細川家は、戦国時代を生き延びた名家である。不都合な真実は、当然のことだが隠蔽したであろう。元室町幕府幕臣で、足利義昭を擁立して将軍とし、幕府を再興したが、後に義昭を見限り信長に仕え、本能寺の変の後、光秀に与力せず、秀吉が光秀を滅ぼした後は、秀吉に接近、豊臣時代を生き抜き、関ヶ原では、東軍に荷担し、江戸時代、幕藩体制で、熊本藩主となり、現代に至る。抜群の政治感覚と洞察力で、厳しい時代を生き抜いた。不都合な真実を、改竄・隠蔽するのは、造作ないことであろう。当代の大名の中では、文人大名として知られていたし、当時の天皇も、幽齋(長岡藤孝・細川幽齋を殺さないように、関ヶ原の西軍に働きかけているほどの人物。細川家の記録も、単純には信用できないということである。通説的所見では、光秀が歴史の表舞台に登場するのは、永禄12年(1569)からである。それ以前のことは、よく分からないというのが現実の所。
高柳氏は、『人物叢書 明智光秀(吉川弘文館)』の光秀出自の項で、『続群書類従本土岐系図』、『明智一族宮城家相伝系図書』、『鈴木叢書本明智系図』、『系図纂要』などを列記し、参考文献として『明智軍記』、『細川家記』などを記すが、出自の項目を読んでいても、高柳氏が、これら史料などを詳細に比較分析・検証したという印象をえることはできなかった。単に、怪しいものという感じで、ざっくり扱っている感をぬぐい去ることができない。系図が怪しいことは、高柳氏の指摘を待つまでなく、在野でも永らく系図を追跡している者ものなら当然の認識、常識と読んでもいい。それを踏まえ、比較解析しながら、容認できる部分(歴史と整合)と、疑問点をあぶり出しているのである。学者は、系図を、二次資料或いはいい加減なものとしてぞんざいに扱うが、高柳氏も、同書を読む限り、そういう印象を受ける。明智系図が怪しいことなど、系図をテーマとしている在野の研究家でも承知していることである。学者なら、光秀の「正系」を明らかにしろと云いたい。『鈴木叢書本明智系図』は、管理人は、所持していないが、「「分脈」、『群書』、『纂要』などは所持しているから、それらの比較検討から、通説的に扱われている「群書」の「明智系図」が、明智・菅沼系図(沼田藩主土岐家)に、光秀の系を結びつけた可能性があることくらいは推察できる。そうなると問題なのは、明智光秀が、本当に美濃明智一族の血脈であった場合、どういう系譜に属するかが問題になるが、高柳氏が、真摯に光秀の家系に対して検討したという印象は受けない。菅沼系と別流の場合、明智のどの流れなのか、そこが大いなる『謎』である。高柳氏は、『尊卑分脈』の土岐氏庶流明地系図には、言及されていないが、これも系図資料を詳細に検討していない証拠だろう。高柳氏が、明智氏を、恵那郡明智の領主としているのは、鎌倉以来の遠山一族の存在を知らないのかと云いたくなる。『肥前の龍と遠山櫻』で、遠山一族をざっくりではあるが追跡した者としては、「唖然」とする。恵那郡は、岩村の遠山家、明智の遠山家、苗木の遠山家が、「遠山三家」と称され、そのほかに複数の遠山家が散在し恵那郡周辺を支配している。明智氏が、守護土岐氏からは独立している遠山氏の支配圏に城を構え、発祥の地とするのは、無理がありすぎる。
高柳氏同様、史学界の重鎮・権威とされる桑田忠親氏は、『明智光秀(新人物往来社)』で、高柳氏同様、明智の系譜関係史料として『続群書類従本土岐系図』、『明智一族宮城家相伝系図書』、『鈴木叢書本明智系図』、『系図纂要』などを列記し、参考文献として『明智軍記』などを記すが、具体的に比較分析した事は、確認できない。
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明智氏一族の系譜(13)
 
明智氏一族の系譜(13)
 
『姓氏家系大辞典』などでも明智氏を紹介しているが、『纂要』、『群書』などから引用しているようである。Bの「雑記」では、幾つかの名前を紹介するが、残念ながら系譜の追跡は、行われていない。尚、「尊卑分脈」の明地系図には触れていないから、太田氏は見落としたか。従って、『姓氏家系大辞典』では、「室町幕府奉公衆明地系図」は、紹介されていない。
(2017.1.21)
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明智氏一族の系譜(14)
 
明智氏一族の系譜(14)
 
明智光秀の実父の名前は諸説あり混乱している。現在流布する明智系図は、改竄系図であるので、疑問多し。
(2017.2.6)
この史料に於いては、『群書』明智系図(喜多村・明智系図が、光秀の子女13人記すことに、疑問を呈している。
この系図に於いて、明智氏は、室町幕府奉公衆系(『尊卑分脈』)と、在国系(菅沼定政系)(『群書類従』)の二系を記すが、可児の明智(光秀の系)は、在国系とは、別系の可能性がある。その場合、通字の類似性から、没落した奉公衆明智氏の庶流の可能性も推定される。
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明智氏一族の系譜(15)
 
明智氏一族の系譜(15)
 
この系図は、光秀を明智光綱の養子と記す。この系図では、光秀の実父を進士(山岸)信周とするが、日本家系図学会会長の宝賀寿男氏は、光秀の最初の舅の山岸光信を誤記した可能性を、関係サイトの論考で指摘している。尚かつ信長時代の堂洞城主『岸信周』も錯誤し合成して創作された人物の可能性も指摘している(進士信周架空人物説)。
(2017.2.12)
山岸氏は、府内古城主の流れ。山岸光信は記載するが、山岸信周は記載なし。 明智氏一族の系譜(10)
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明智氏一族の系譜(16)
 
明智氏一族の系譜(16)
 
宮城家系図は、明智氏の一族と伝える三宅家の系図とは、整合しない。又、光俊自体も、明智の血脈か疑問のあるとろ。又、進士(山岸)家に関しても、『美濃諸旧記』の山岸氏関係の記述と不整合な部分があり、信憑性に疑問あり。
明智氏一族の系譜(10)
(2017.2.27)
明智氏一族に関する宝賀氏論考
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明智氏一族の系譜(17)
 
明智氏一族の系譜(17)
 
この系図は、色々疑問あり(『相伝系図』をベースに、喜多村明智系図なども取り込んで構成されている)。  前記系図参照。
(2017.3.5)
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明智氏一族の系譜(18)
 
明智氏一族の系譜(18)
 
明智氏一族の系譜(10) 明智氏一族の系譜(16)
「相伝系図書」などに記される明智・山岸氏系図は、信憑性に疑義あり。基本系図や、信憑性を担保される文献での裏付けは、専門家(学者など)の論考では、成されていないというのが現状。
(2017.3.9)
明智氏一族に関する宝賀氏論考
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明智氏一族の系譜(19)
 
明智氏一族の系譜(19)
 
この系図は、三宅家を、光秀の叔父とされる明智光安の子孫に記すが、三宅藤兵衛重利は、三宅出雲重時の孫と記すものもある。重時の父の三宅彌兵衛光俊は、光秀の女婿で、後に明智姓を称している。
(2017.3.15)
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明智氏一族の系譜(20)
 
明智氏一族の系譜(20)
 
宮城家と三宅家は、明智光安の子孫と称するが、両家の系図は、整合せず。
(2017.3.16)
明智氏一族の系譜(15)(宮城家先祖系図) 明智氏一族の系譜(16)(宮城家系図)
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明智氏一族の系譜(21)
 
明智氏一族の系譜(21)
 
歴史雑誌では、明智光秀の多くの子女を掲載する系図があるが、これらの系図は、改竄系図・捏造系図の可能性が高く信用できない。大石内蔵助が明智光秀の末裔とする系図もあるが、デタラメ系図といっても言い過ぎでは無かろう。これらを掲載した執筆者は、どこまで裏取りしたか、全く検証せず掲載したなら、著者、編集者は、普通の読者に誤解を与えかねないことを考えなかったか疑問を感じる。
 
山岸信周明智光秀−浅野内蔵助−浅野正秀(甲斐)−大石良雄(内蔵助あり得ない系図捏造の可能性が高い)。
 
大石家の系図大石家外戚関係系図など、ある程度信用できる文献・系譜等では、大石内蔵助が、明智光秀の末裔と立証できる系図は、異聞歴史館が追跡した範囲では確認できていない大石内蔵助が、明智光秀の正統な末裔と立証できる自信がある学者・研究者がおられるなら是非とも再検証に挑戦されることを期待したい
(2017.3.20)
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明智氏一族の系譜(22)
 
明智氏一族の系譜(22)
 
明智光秀の子女に関しては、各種系図や、歴史雑誌掲載系図には食い違いがある。つまりどの系図にも疑問ありということである。明智氏一族系図に対しては、基本的には改竄系図という認識でアプローチすべき。他の文献などと整合しないものは、疑問ありと考えるべきである。
(2017.3.22)
明智光秀子女の謎
光秀の子女関しては、歴史雑誌などで紹介される系図では、多くの子女を紹介するが、人数はバラバラ。そもそも引用している諸系図が、改竄・偽系図であるから、信憑性を疑われる代物で、不一致は当然の帰結。
ところで、歴史学の権威・重鎮とされる学者(大家)は、どう認識しているのであろうか?史学会の権威」とされる高柳光寿氏の 『人物叢書 明智光秀(吉川弘文館)』によれば、二男三女が確実な子女と記す(熱田説と同じ)。
@女子(明智秀満の妻)(元、荒木村重の嫡男、荒木新五郎村安の妻
A女子(織田信澄の妻)( 津田信澄と記されることもある)
B女子(細川忠興の妻)( 細川ガラシャとして知られる女性)
C男子(十五郎)(通説的な系図は光慶と記す)(フロイスの記録では、天正10年、坂本落城で死亡と記す)(13歳)
※ 光秀の嫡男は、天正十年丹波亀山城で病死(14歳とする説と、亀山城で秀吉方の攻撃を受け、討ち取られたとの説あり。
D男子(小児、名前不詳
明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻(細川ガラシャ)、十五郎、某の五人ということの様である。
高柳氏が批判する『明智軍記』によると
@女子(明智左馬助光春の妻)(永禄12年冬、16歳で嫁す)
A女子(明智治右衛門光忠の妻)(元亀元年夏、15歳で嫁す)
B女子(細川忠興の妻)(天正7年正月、16歳で、嫁す)(信長の命令)(細川ガラシャ
C女子(織田信澄の妻)(天正7年正月、14歳で、嫁す)(信長の命令
D男子(惟任十兵衛光慶)(天正7年、11歳で亀山入)(天正10年6月13日、亀山城で病死
E男子(十次郎)(天正6年、筒井順慶養子
X男子(十郎左衛門)(明智光近)(光秀の何番目の子供かは不詳)(山崎表で戦死
高柳氏は、六男の十次郎と、十郎左衛門光近の関係が、さっぱりわからないと指摘。
●末子男子(乙寿)(坂本城で生害、八歳)(光秀の何番目の子供か不詳
明智左馬助光春は、史実に基づくものではなく、「軍記物」の創作した名前。十郎左衛門とか、末子乙寿というのはデタラメ高柳氏は、『明智軍記』に対しては、辛辣な批判をしている。
高柳氏は、『増補筒井家記』では、十次郎(12歳)、自然(11歳)、女子(9歳)、乙寿丸(8歳)か、坂本城で死んだとしている。
高柳氏によれば、坂本城落城で死んだ光秀の子女は、
『太閤記』では、男子三人、女子三人と記す。
『新撰豊臣実録』では、嫡子・自然及び弟二人、女子三人としている(つまり、男子三人、女子三人)。
『明智軍記』は、上記参照(デタラメな系図と批判)。
『鈴木叢書・明智系図』は、高柳氏によると、
@女子(菅沼新八郎定盈妻)(光秀養女・実は、三宅大膳入道長閑女
A女子(桜井監物家次妻)(光秀養女・実は、三宅大膳入道長閑女
B女子(織田七兵衛信澄の妻
C女子(細川与一郎忠興の妻)(細川ガラシャ
D女子(筒井順慶嫡子筒井伊賀守定次の妻
E女子(川勝丹波守妻)
F僧・玄琳妙心寺塔頭に住す
G安古丸(山崎合戦討死)
H僧・不立(天竜寺閑居)(音羽川辺横死)
I女子(井戸三十郎妻)
J男子(十内)(筒井伊賀守定次の養子)(後、左馬助に改む)(坂本城に於いて自害
K男子(自然)(同所〔坂本城〕に於いて死す
L男子(内治麻呂)
※ 十内→左馬助、坂本城で自害。→該当人物は、明智秀満。                   
@明智秀満は、左馬助とは称していない。
A秀満が、筒井定次の養子になったというのは、無茶な話し。定次は、天正10年には21歳。小泉四郎と称す。
天正10年には、筒井定次は、まだ筒井順慶養子になっていない。一方、秀満は、天正10年、坂本城で自刃
この一事によっても、この系図が信用できないことがよく分かる。他は一々その誤りを証明するには及ばないであろう。
筆者の妙心寺の僧というのは、この系図の玄琳であろうと思うが、自分を光秀の子とするためにでたらめな系図を作ったもので、まことに怪しからぬ男というべきである。要するに悪意のある偽系図である。と、高柳氏は、お怒りである(『人物叢書 明智光秀』より)。
※ 「群書類従」の明智系図も、光秀子女に関しては、玄琳作「喜多村・明智系図を取り込んでいる。
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明智氏一族の系譜(23)
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