扶桑家系研究所リポート2,南朝・後南朝・異聞皇統
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『南朝・後南朝・異聞皇統』
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南朝・後南朝略系図
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『南朝・後南朝・異聞皇統』

   「後南朝」 と云っても、 マニアックな人でないと判らないであろう。 私も「熊沢天皇」 という存在を知る機会がなかったら、 知らずに通り過ぎたであろう。

   そもそも 「後南朝」 というのは、 授業では習わない。 又、 南北朝合一後に、 南朝皇胤が神器(正統神器である「神璽」) を推戴して、 短期間だが南朝を復活した事など知らなかった。 厳密に言えば 「後南朝」 というのは正しくない。 南朝の後或いは、 後の南朝と呼ぶべきであろう。 しかし、 ここでは、 便宜上 「後南朝」 と呼ぶ。 後南朝を語るには、 その前に南朝について触れる必要がある。 授業では、 鎌倉末期に即位した後醍醐天皇が倒幕後、 「建武新政」を開始したが、 武士の存在を無視して、 旧体制回帰を図った為、 討幕に協力した武士の反発を招き、 足利尊氏が離反し武家政権の復活を図った。 後醍醐は、 悪党出身の楠木正成らの協力で、 一度は、 尊氏軍を九州まで逃亡させるが、 反転した尊氏軍の反攻を受け劣勢となる。

   ここで足利尊氏は、 旧天皇家の持明院統の皇胤を 擁立する事に成功し、 賊軍となる事を回避、 京都に戻り、 持明院統皇胤を即位させ、 後醍醐の皇位を停止する。 その後、 後醍醐帝は、 京都を脱出し、 吉野で正統帝を宣言(自立登極・神器も奪う)、 ここに京都と吉野に二人の天皇が出現した(南北朝)。 後醍醐の朝廷を南朝と云う。 授業では、 北朝は持明院統、 南朝は大覚寺統と教えられた。 しかし、 これは正しくない。 南朝は、 大覚寺統の傍系、 枝葉に過ぎず正統ではない。

   大覚寺統の嫡流は京都に残り、 北朝とも深刻な対立は避けていた。 従って、 南朝とは後醍醐流と呼ぶべきである。 即ち、 後醍醐天皇が、 自分の血脈で皇位を独占しようとした事が 、 南朝誕生の最大の理由である。 本来の皇統の両統迭立なら、 後醍醐の後は、 北朝皇統、 その後は、 大覚寺統嫡流へ皇位は移り、 後醍醐の皇子が継承する可能性はゼロに等しい。 そうなれば院政により、 政治の実権を握れなくなる。 十年で皇位を明け渡す気持ちの無かった後醍醐帝は、 両統迭立の呪縛から逃れ、 自らの系統による単独皇統王朝を築くしか道がなかったという事である。 鎌倉幕府を倒す事に失敗した後醍醐は、 持明院統を擁立され皇位停止(本人は認めていない)された経験があり、 今回も再び同じ道をたどる所に追い込まれた。 結局、 北朝と足利幕府を否定し、 京都から遷都して正統朝廷を名乗るしかなかったという事である (従って、 厳密には、 後醍醐は、 光厳天皇の擁立で廃位され、 更には建武新政崩壊後、 足利尊氏の光明天皇擁立、 京都再進攻により、 事実上廃位に追い込まれたが、 これを認めず、 二度自立登極した事になるが、 当人は、 首尾一貫して天皇であったと主張、 光厳・光明天皇を否定した。実際に光厳については、 廃位している)。 * 一貫しているから、 隠岐に移るとか、 吉野に移るとか表現している(一時遷都)が、 隠岐の場合は流罪であった。 南朝は、 後醍醐・後村上・長慶・後亀山と続いた。 この間、 後村上の時代、 正平年間に短期間だが、 南朝が京都を占領、 北朝の神器も摂取して単独王朝となる。 その後、 幕府軍に再び京都を追われ、 南朝は、 吉野や紀伊で朝廷を維持した。
(2005.10.6)(随時更新)
 
   南朝は、後亀山天皇まで、大和・吉野・紀伊などを拠点としながら皇統を維持、後醍醐の皇子の子孫も、三河や九州などで、幕府に対する抵抗運動を継続、信州・甲州・関東・東北などでも、南朝を支持する武将が幕府方と対峙した。これらの勢力は、南北朝が合体後も抵抗運動を継続する。より正確に述べるなら、神器の受け渡しのみで、真の南北朝合体ではなかった。北朝は実質的には関知せず、南朝本流とされる吉野南朝(後亀山南朝)が、幕府のペテンに引っかかり、神器を奪われたのが真相。後亀山天皇を承認したのは、帝の位にない者を上皇とした先例に倣った特例であり、本当は帝とは認めていない形式的な措置であった。北朝の後小松天皇は、神器を得て、正統天皇となり、幕府は正統政権となり支配権の正当性を確保した。両統迭立の約束は反故にされ、南朝が全国政権として皇位を回復する機会は失われた。この間、九州南朝は独自の抵抗を続け、中国の王朝からは、日本国王とも錯覚されていた。後亀山時代、南朝は、後醍醐の時の様な統一政権ではなく、南朝連合の様な感じで、吉野南朝が降伏したからといって、右に倣えで降伏しなかったというわけである(『消された皇統』P.167参照)

   約束を反故にされた後亀山は、吉野へ走る。旧南朝の皇子や皇胤、支援する大名や豪族は各地で挙兵し、南朝再興の為の戦いを展開する。嘉吉3年(1443)には、旧南朝勢力は、神璽と神剣を奪い、途中で神剣は放棄するが、神璽(勾玉・正統神器)を奪取し、南朝皇胤尊義王に奉戴、南朝中興天皇・高福天皇に即位、南朝を復興する(通史では、神器紛失事件として扱われているが、日本史の授業では習わない)。攪乱の為の影武者は、吉野新帝義有王(円満院円胤・説成親王の王子)。その後は、尊秀王が継承して南朝中興天皇二世(北山天皇・自天皇・自天大王)、その後は、尊雅王(興福天皇・南天皇)が継承するも、神璽は奪われる。そして、応仁の乱では、西陣南帝か擁立された。その正体は諸説あり定かではない。熊沢天皇は、尊雅王の王子の十津川宮の信雅王を、虚構の熊野宮信雅王にすり替え、南帝王とし、熊沢現覚として、先祖に位置づけた。しかし、寛道系統、照元系統の熊沢系図以外の第三の熊沢系図の登場により、熊沢天皇の主張は怪しいものになってきた(『消された皇統』参照)

後亀山天皇
−良泰親王(小倉宮・招慶天皇)−尊義王(高福天皇)−尊秀王(北山宮・自天皇・自天大王)=尊雅王(市河宮・興福天皇)    西陣南帝(正体不明・熊沢家では、熊野宮信雅王・熊沢廣次王現覚、尊雅王の子供に位置付ける)(美作南朝伝説では、忠義天皇)、以後の系譜は、各自称南朝の系譜は一致しない。復活南朝は、尊雅王(興福天皇)で消滅と考えるのが妥当か?西陣南帝以降は伝説の闇であり、自称南朝の出現の遠因となっている。我々は、今後、後南朝と自称南朝を切り離して検討したときに何らかの答えを見いだせるのではないかと考える。伝説と史実は切り離さなければならない。
※ 『消された皇統(今日の話題社)』、『南朝興亡史(近代文芸社)』参照
(2006.3.21)
 
   前でも触れたが南朝とは、大覚寺統(亀山天皇の皇統)の内、その庶流にあたる後醍醐流(後醍醐天皇の皇統)の事であり、大覚寺統=南朝ではない。本来は、後醍醐一代で、後は北朝に皇位を戻し、その後は、後二條天皇の系統が、大覚寺統の嫡流として皇位を継承するはずであった。しかし、野心家の後醍醐天皇には、我慢が出来ぬ事であった。自分が皇位にあるうちに、北朝の後ろ盾である幕府を倒せば、自分の系統が皇位を独占出来ると考えた。倒幕は、野心のみで出来るものではない。幕府内部の反北條勢力や悪党などの武力を必要とした。足利尊氏が後醍醐方に加わったことで、ようやく倒幕の体勢が整うのである。結果は歴史が示すように、鎌倉幕府は倒れ、建武の新政となるのだが、武家の本心を把握せずに復古的政策を進めた為に、武家の離反を招き、足利尊氏は、武家の棟梁に擁立される。一度は敗北した尊氏だが、九州から反転、持明院統との連携に成功し、北朝の勅により反逆者・謀反人とされるところを回避した。京都を奪回した足利軍は、北朝の許で幕府設立にこぎ着け、武家政権を再興した。後醍醐天皇一門は各地に散り、政権回復の為の対抗運動を展開する。いわゆる南北朝の始まりである(前記参照)。関東甲信越・吉野・紀伊・伊勢・三河・九州などで南朝軍は、幕府軍に抵抗する。後醍醐天皇の後、村上天皇の時代に、足利兄弟の対立につけ込み京都を奪回して、北朝を廃すが、一年と持たずに奪い返された。以後、京都を回復して単独政権となる事はなかった。北朝再興過程で、本来の北朝嫡流は皇位を失い傍系が皇位を継承し、本来の嫡流は「伏見宮家(第二皇統)」となった。南朝は、後醍醐・後村上・長慶・後亀山の四代皇位を保つが、支配権は徐々に狭まり、ついには和睦し、神器の譲渡となる。いわゆる南北朝の合一である。しかし、各地の南朝勢力は幕府に降伏せずに抵抗を続ける。或いは一時的に逼塞して成り行きを見守りつつ体勢を整えた(九州南朝は、合一後も抵抗している)。後亀山天皇は、北朝側の特例措置で上皇の扱いとなり、出家して法皇となる(北朝は、全国を支配していない南朝を歴代と認めず、皇位に着かない者が上皇扱いとなった先例により上皇並に扱った)。やがて幕府は、和睦の条件を無視、後小松天皇の後は、後亀山の皇子には皇位継承させずに、後小松天皇の皇子に皇位を継承(称光天皇)、その後は、伏見宮の王子を後小松上皇の猶子とし(系譜上、称光天皇の義弟)皇位を継承させた(後花園天皇)のである。ついには、後亀山や南朝の王子や支持する豪族は、南朝再興運動を展開する。旧南朝皇族と支持集団及びその運動が、「後の南朝、即ち、後南朝と名付けられる事になる。
(2006.3.22)
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南朝・後南朝皇統系譜(1)
 
南朝・後南朝皇統系譜(1)
 
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   南朝・後南朝伝説は複雑怪奇。自称南朝末裔の出現が混乱に拍車を掛けた。三河南朝・三浦家、自称後南朝正統熊澤家・熊澤天皇、伊勢南朝・帝釈家・泰道家、防長南朝・大室家、津軽南朝・天内家、自称南朝正統後継竹内家、九州南朝・後醍院家など、各地に南朝後裔を称する家系がある。他にも吉野の伊藤天皇、美作南朝皇統と自称美作南朝酒本家、美作南朝一門流王家などがある。これらの家系の多くは、途中が抜けていて、とても検証に耐える系図ではない。熊澤家の場合は、歴代系図が公開されているが、一族内部でも食い違い、更には、国会図書館からも別の熊澤系図が登場。熊澤家が南朝末裔としても、熊澤天皇(寛道、照元)が南朝熊澤家かどうかは怪しくなってきた。又、西陣南帝の直系末裔とする主張は、現状までの検討では、厳しいものになってきている。尊義王・尊秀王・尊雅王の三代は、後南朝歴代と考えられるが、西陣南帝は、「纂輯御系図(明治時代に元老院が編纂)」に記載なく、「系図纂要」にも記載がない謎の人物であり、後南朝最後の人物である。その系譜はいまだ解明はされていない。後南朝の正統を自称する家系は、西陣南帝を取り込んでいる。よく知られるのは熊澤家で、西陣南帝は、南天皇(尊雅王)の息子の熊野宮信雅王としている。しかし、国立国会図書館所蔵の「皇統系譜」によれば、信雅王は、十津川宮であって、熊澤廣次(現覚)とは別人である。熊澤の主張とは、時代が若干合わない。又、この信雅王は西陣南帝ではなく、この点でも、熊澤天皇らの主張は虚構という事になる。西陣南帝の正体は、未だ明かならずという事である。
(2006.5.22) 
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南朝・後南朝皇統系譜(2)
 
南朝・後南朝皇統系譜(2)
 
   泰道尊信を西陣南帝とする説については、後南朝とは直接関係ない存在であり、泰道系図そのものに疑義がある。系図表記の常識から見ても、或いは皇統系譜という側面から見ても問題あり。帝釈系図及び泰道系図については、三重県の郷土史家の中世古祥道氏が「伊勢愛洲氏の研究」の中で、疑義を指摘し、批判されておられる。『纂輯御系図』の南朝系譜でも、西陣南帝は系譜に記載がなく、正体不明の人物であるので創作し易いという事であろうか。各南朝伝説でその位置付けは異なる。
(2006.5.23)
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南朝・後南朝皇統系譜(3)
 
南朝・後南朝皇統系譜(3)
 
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   熊澤系図は、1.寛道系熊澤系図、2.照元系統熊澤系図、3.国会図書館熊澤系図(朝里氏系図付属)の三種類が確認される。これらを比較検証すると、熊澤寛道氏やその賛同者、熊澤照元氏やその賛同者が、系図を改竄した事が読み取れる。熊澤家が南朝の末裔としても本流ではなく傍系と思われる。更に、熊澤寛道氏や熊澤照元氏の直接の先祖の直行が国会図書館系図に不記載である事から、熊澤家が南朝末裔としても、熊澤寛道氏(熊澤天皇)や熊澤照元氏(自称熊澤家宗家)が、南朝の末裔とするのは疑問が生じる。本来同一であるべき両家の系図の先祖部分の食い違いは、改竄の結果である。
   中田氏の系譜は、日本歴史研究所の刊行図書でも紹介されているが、中田憲信が南朝末裔である事には、宝賀寿男氏の論文では疑問を呈している(「古樹紀之房間」参照)。木村氏と宝賀氏の間で、この問題が検討されるか注目するところである。ちなみに 『系図纂要』、『群書系図部集』などの基本系図には、中田通直は登場しない。鈴木真年・中田憲信らの収集系図以外で立証されるかが鍵となろう。
(2006.6.2) 
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南朝・後南朝皇統系譜(4)
 
南朝・後南朝皇統系譜(4)
 
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   富士(富士谷)南朝の伝承や系譜は、他の造られた後南朝伝承や系譜に微妙に影響を及ぼしている。津軽南朝天内家、自称正統南朝熊沢家(熊沢天皇)、美作南朝系譜も無縁ではない。この系譜の中には、語呂合わせのような命名もあり、信憑性という点では、疑問が残る。
(2006.6.30) 
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南朝・後南朝皇統(5)
 
 
 
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   南北朝合一の条件が履行されない事に不満を持つ旧南朝勢力は、再び吉野や紀伊を拠点に南朝再興運動を展開するが、長禄の変で、後南朝天皇が襲撃を受け、神器を再度奪還されると、壊滅的状況となる。抵抗運動を継続する者、吉野や紀伊の山奥に逃れ逼塞する者、そこから伊勢へ逃れて、北畠氏や度会氏の庇護を受ける者様々である。飯野氏は、系譜によれば北畠氏の庇護を受け、江戸時代になると子孫は各地の大名家に仕えで家系を保った。又、朝里氏は、紀伊國東牟婁郡の旧家として家系を保ったという。熊澤家の様な派手なパフォーマンスはなく、現在の動向は定かでない。これ以上の追跡は、プライバシーの問題もあるので控える。後南朝の事に関しては、歴史研究家の木村信行氏(日本歴史研究所「南朝の星」の著者)が詳しい。尚、ここで紹介の系譜は、国立国会図書館でレファレンス可能であるので、詳しくはそちらを参照されたい。
(2006.8.12)
 
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