扶桑家系研究所 リポート19 
トップ > リポート集 > リポート19
館内案内
扶桑家系研究所 リポート19
播州小寺氏・黒田氏一族
目次へ
小寺官兵衛一族とルーツの謎
小寺・黒田氏
私が、播磨の戦国大名小寺氏を知ったのは、20代の頃購入した『播州歴史散歩(黒部亨、創元社〔昭和49年初版、昭和51年第3刷〕)』による。小寺氏は、赤松則村の子の貞範が、築城した姫路城を三年余りで出て、庄山に移った後、小寺頼季が目代として姫路城に入り、以後百年ほどこの地を領して戦国時代に至る。この間、嘉吉元年(1441)6月に主君赤松満祐が将軍足利義教を弑逆(「嘉吉の乱」)、9月に幕府軍の総攻撃を受け、満祐は自害、姫路城主小寺職治も討死する。播州の守護職は山名持豊に与えられた。赤松氏は、その後に起こった応仁の乱で細川勝元に属し、播磨・備前から山名一族を一掃し、赤松政則は旧領を回復する。政則は、文明元年(1469)に置塩城を新築して移り、姫路城は小寺一族の小寺豊職(伊勢守)に守らせた。明応5年(1469)4月に政則が没すると内紛が表面化、浦上・別所・小寺氏ら実力者が対立、御着城主の小寺政隆は、国内状況を見極め、姫路城の東方に永正16年(1519)1月、御着城を築き、御着城を拠点に姫路城と併せて外敵に対抗、赤松氏の代官にすぎない小寺氏は、事実上自立して戦国大名としての第一歩を踏み出す。小寺政隆は、息子の則職(のりもと)に姫路城を守らせた。大永元年(1521)9月、赤松義村が浦上村宗に弑逆されると、その後、享禄3年(1530)7月、庄山城にいるところを小寺政隆は浦上村宗に攻め滅ぼされ、息子の則職は御着城に移り、姫路城は執事の八代六左衛門が留守居となる。14年後の天文14年(1545)、黒田重職(重隆の誤記か?)が八代氏にかわって姫路城に入り、ついでその子職隆(もとたか)が姫路城主となる。天正5年(1577)11月、姫路城は、中国征伐軍の羽柴秀吉に献じられ、秀吉軍の本営となる。職隆・孝高は、妻鹿村の国府山城に移るが、出陣中は、職隆が留守居として姫路城を守ったという(『播磨歴史散歩』をベースに概略を記す)。
※ 黒田重隆―職隆―孝高という黒田氏三代の系譜については、後世の改竄の可能性が浮上している。
黒田宗満―宗信―高教―高宗高政重隆―職隆(小寺職隆)―孝高(黒田官兵衛・如水)―長政
『歴史読本臨時増刊'77−12「戦国大名家系譜総覧」(新人物往来社)』抜粋。
 黒田宗満―宗信―高教―高宗―高信―清高―政光―高政重隆―職隆(小寺)―孝高(黒田)―長政
『歴史読本臨時増刊'77−12「戦国大名家系譜総覧」(新人物往来社)』本文記載の異説
宇野将則―■■―■■―頼定―頼季(小寺頼季)―景治―景重―職治―則職―政職―職隆孝高(黒田)
『歴史読本臨時増刊'84−3「戦国大名家370出自総覧」(新人物往来社)』
黒田宗満―宗信―高教―高宗高政重隆―職隆(小寺職隆)―孝高(黒田官兵衛・如水)―長政
『歴史読本臨時増刊'84−3「戦国大名家370出自総覧」(新人物往来社)』抜粋。
高宗まで近江國。高政(近江国より備前国邑久郡福岡に移る)。重隆からは播磨国。小寺氏家臣。
   上記が通説的に主張されているが、世代数に疑義があり、高政の近江出奔も不可解(異説参照)。
※ 黒田氏と小寺氏の系譜上の関係にも疑義がある。職隆は小寺氏一族で、孝高が一時小寺氏の猶子になったのではとの意見もある。今後の検討課題である。
(2013.7.24)
目次
1. 播州小寺氏一族(1)(姫路御着小寺家) 『播州歴史散歩』、他。
2. 播州小寺氏一族(2)(姫路御着小寺家) 『地方別 日本の名族』、『系図研究の基礎知識』、『戦国大名家370出自総覧』
3. 播州小寺氏一族(3)(姫路御着小寺家、筑前黒田家) 『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『日本家系・系図大事典』
4. 播州小寺氏一族(4)(姫路御着小寺家姻族) 『歴史群像シリーズ38黒田如水』、他。
5. 播州小寺氏一族(5)(姫路御着小寺家)  ネットデーター『世界帝王事典』、他。
6. 播州小寺氏一族(6)(小寺氏参考諸家) 『姓氏家系大辞典』、『系図纂要』、『尊卑分脈』
7. 播州小寺氏一族(7)(姫路御着小寺家) 『姫路城史・上巻』
8. 播州小寺氏一族(8)(姫路御着小寺家) 『姫路城史・上巻』
9. 播州小寺氏一族(9)(姫路御着庄山小寺家) 『播磨御着群誌別冊/御着城主小寺政隆公伝』
10. 播州小寺氏一族(10)(姫路御着庄山小寺家) 『播磨御着群誌別冊/御着城主小寺政隆公伝』
11. 播州小寺氏一族(11)(姫路御着小寺家子孫) 『播磨御着群誌別冊』
12. 播州小寺氏一族(12)(姫路御着小寺家子孫) 『播磨御着群誌別冊』
13. 播州小寺氏一族(13)(姫路御着小寺家子孫) 『播磨御着群誌別冊』
14. 播州小寺氏一族(14)(姫路御着小寺家子孫) 『播磨御着群誌別冊』
15. 播州小寺氏一族(15)(姫路御着小寺家子孫)(天川) 『播磨御着群誌別冊』
16. 播州小寺氏一族(16)(姫路御着小寺家子孫) ネットデーター『武家家伝』、他。
17. 播州小寺氏一族(17)(小寺家姻族)(魚住氏略系図) 『系譜と傳記・第一巻』、他。
18. 播州小寺氏一族(18)(御着姫路小寺家) 『史伝 黒田如水』
19. 播州小寺氏一族(19)(姫路小寺家・播州黒田家) ネットデーター『黒田家前史論集』、他。
20. 播州小寺氏一族(20)(姫路小寺家・播州黒田家) ネットデーター『黒田家前史論集』、他。
21. 播州小寺氏一族(21)(御着小寺家・広峰氏) 『姓氏家系大辞典』、『古代豪族系図集覧』
22. 播州小寺氏一族(22)(姫路小寺家・播州黒田家) 『改訂増補 大武鑑・上巻』、『姓氏と家系』、『続群書系図部集(下)』
23. 播州小寺氏一族(23)(姫路小寺家・播州黒田家) 『日本の名家・名門人物系譜総覧』、『日本家系・系図大事典』、『日本史諸家系図人名辞典』、他。
24. 播州小寺氏一族(24)(姫路小寺家・播州黒田家) 『姓氏と家系 第7号』『荘厳寺黒田系図』、他。
播州黒田氏一族
1. 播州黒田氏一族(1) 『古樹紀之房間』『荘厳寺黒田系図』
2. 播州黒田氏一族(2) 『荘厳寺黒田系図』、他。
3. 播州黒田氏一族(3) 『姓氏と家系 第7号』『荘厳寺黒田系図』、他。
4. 播州黒田氏一族(4) 『諸系譜(国立国会図書館.蔵)』、『姓氏と家系 第7号』
5. 播州黒田氏一族(5) 『姓氏と家系 第7号』
6. 播州黒田氏一族(6) 『歴史群像シリーズ38黒田如水』、『新訂寛政重修諸家譜』『黒田官兵衛のすべて』、他。
7. 播州黒田氏一族(7)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(1)
 
播州小寺氏一族(1)
 
播州小寺氏は、赤松氏同族宇野氏の庶流と伝えられる。赤松則村が足利尊氏に呼応して上洛する時、西国の北條方の上洛を阻止する事と、本拠の白旗城防衛の為に姫山に縄張りを行い城を築き(城といっても砦を重厚にした程度。山頂の寺を中心に防衛ラインを構築したもの)、小寺頼季を守将にしたのが姫路小寺家の始まりといえる。赤松貞範の時代に姫路城が築城され、前の姫山守将の小寺頼季が、赤松貞範の後を受けて姫路城目代となる。時代が下り、赤松家は嘉吉の乱で赤松満祐が自刃に追い込まれ、姫路城主の小寺職治も自刃に追い込まれ、小寺氏の第一次姫路城主時代は終焉となる。姫路城は赤松氏に代わり守護となった山名氏の支配下に入る。その後、応仁の乱で、赤松氏は細川勝元と結び東軍として山名氏と戦う。その後、赤松政則が播磨守護に復帰すると、小寺氏も姫路城目代として復帰する。小寺氏は、政隆の時代に御着城を築城し、赤松氏から事実上自立(独立)して、西播州の中心勢力となる(東播州は別所氏が事実上支配)。その後、政職の時代、一旦は、織田家と同盟を結ぶも、後に寝返り滅亡する事になる。この過程で、小寺官兵衛は、小寺政職の謀略(実態は、小寺官兵衛をねたむ反官兵衛勢力が主君の小寺政隆を巻き込み仕掛けたもの)により、荒木村重説得のために有岡城に派遣され幽閉される。小寺政職は、官兵衛謀殺を荒木村重に要請するも、殺害せず幽閉する。このことは、小寺官兵衛家にとっては一大ピンチ。嫡男松寿丸は、織田家との同盟の時に、主君が嫡男の人質送付に難色を示し、官兵衛の嫡男が同盟の証として人質になっていた。主君の謀略を知った官兵衛の父の職隆は、主家との義絶を決意する。有岡城が落城し、官兵衛が救出された時には劣悪な環境で片足が不自由となり頭や顔にはかさぶたも出来ていた。官兵衛は温泉で養生後、秀吉の属将として復帰し、戦国大名に向けての第一歩を踏み出す。官兵衛は小寺姓を黒田姓に改め正式に御着小寺氏から独立する。ここから官兵衛はその実力を発揮していく。しかし、そのルーツには謎の部分がある。どこまで追跡できるか難問。
(2013.10.23) 
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(2)
 
播州小寺氏一族(2)
 
小寺官兵衛(孝高・黒田如水)の家系は、播州(御着)小寺氏一門であり、尚かつ御着小寺氏の家老でもある。官兵衛の祖父に当たるとされる重隆は、近江黒田一族の末裔と称す。それについては近年播州黒田氏一族の末裔ではないかという説も地元の研究グループの関連サイトで公開されている。そのあたりは今後の検討課題となるが、とりあえずは播州小寺氏の系譜を追跡しよう。ここに紹介した小寺氏の系図は一致しない。欠落や誤記があるのであろうか?
(2013.10.26)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(3)
 
播州小寺氏一族(3)
 
筑前福岡藩黒田家の家祖(藩祖)である小寺官兵衛(孝高・黒田如水)は、播州御着小寺家の家老で、一門格の小寺職隆(姫路小寺家)の息子と通説は伝える。しかし、姫路小寺家は、官兵衛の祖父とされる重隆の時代から小寺姓を称し、姫路城を預かっていたとする説もある(『日本名家・名門系譜人物総覧』、『尾張群書系図部集』など)(小寺重隆―職隆―孝高〔黒田如水〕【姫路城主】)。小寺氏一族の系図には判然としない部分もあり、姫路小寺家が、御着小寺家とは、正確にはどういう関係であったかは謎である(異説では、黒田如水は、小寺職隆の養子であり、小寺職隆は御着小寺家の血族とする説もネットでは流布している)。通説では、重隆は黒田姓に記す。姫路小寺家は、2代か3代か
(2013.10.30)
『尾張群書系図部集(下)(加藤國光.編、続群書類従完成会)』蓮池(宝池)氏系図の参考附記に光蓮寺の古位牌の記録に、黒田備前介宗満(道法)、小寺下野守重隆(宗卜)、小寺美濃守職隆(宗円)の名前がある。注目すべきは、黒田備前介宗満(道法)は、近江黒田氏一族の祖であり、福岡藩主となった黒田家の先祖とされる人物である。小寺下野守重隆(宗卜)は、通説では黒田下野守重隆とされる人物であり、小寺美濃守職隆は、御着小寺家の家老で姫路城主。小寺官兵衛(黒田如水)の父とされる人物である。尾張の寺(名古屋市東区)の記録に、何故黒田重隆とされる人物が小寺重隆と記されていたか?後世の作為でなければ、黒田一族の誰かが、黒田重隆が小寺重隆と称していた事を知っていて記録を残したということであろうか? 謎が深まる。小寺重隆―職隆―孝高(小寺官兵衛) 今はこの系譜に留意しておこう。
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(4)
 
播州小寺氏一族(4)姻族系図
 
赤松氏は、嘉吉の変で没落したが、応仁の乱の時に細川勝元と結び、旧領回復に成功する。しかし、時代は下克上・戦国時代へと突入する。備前では浦上氏が台頭し、播磨は、東播磨では別所氏が、西播磨では、小寺氏(宇野氏)が守護代的な地位に立つ。その地位を固めるために国人領主層とも縁組みしている。戦国時代、中クラスの戦国大名が、小クラスの戦国大名(実際は大名と云うより、国人領主)と縁組みし、やがて彼らを被官化して足場を固めることは当然のこと。別所氏・小寺氏・浦上氏は、やがて赤松氏の領地を分割支配するに至る。同時に赤松氏一族は、惣領家も庶流家も弱体化し国人領主並の地位に落ちる。小寺氏は、浦上氏の圧力を受けることになる。姫路・御着小寺家の姻戚関係は、間接的に官兵衛の姫路小寺家とも姻戚関係を結ぶことになる。実はこの関係は、後で触れることになるが、官兵衛の姫路小寺家が、通説で云われるような単なる家臣・家老ではなく小寺一門で、一門強化を図るための関係だったのではないのか。小寺官兵衛が有岡城で幽閉されたのは、史実として知られた話だが、実際には小寺政職は、官兵衛の謀殺を荒木村重に要請していたのではないか。御着小寺家は、一旦は、織田家に誼を通じたのに、反官兵衛派の重臣に乗せられて、官兵衛謀殺と織田家からの離反を決意する。荒木村重がクリスチャンでもなく、知性も教養もない凡将なら、間違いなく官兵衛を謀殺したであろう。しかし、村重は最終的に信長の人間性から、信用することが出来ず離反し、滅亡することになるが、謀殺の危険も覚悟して自分を説得に来た官兵衛を謀殺する気にならなかったのであろう。結局、小寺政職の愚考が御着小寺家の滅亡に繋がり、生き残った姫路小寺家(官兵衛流小寺家)は、小寺姓を捨てて黒田姓を名乗る(通説では復姓)事になる。官兵衛系の播州黒田家が成立し、後の福岡藩黒田家に繋がるわけである。それにしても官兵衛系小寺家は、官兵衛以前には謎がある。
(2013.11.6)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(5)
 
播州小寺氏一族(5)
 
幾つかのサイトが、播州小寺氏一族の系譜を紹介しているが、その系譜は一致しない。通説では、小寺氏は、赤松氏同族宇野氏の庶流(村上源氏末裔)とするが、某サイトでは、清和源氏末裔とする系譜を掲載する。しかし、その典拠となる原典は明記していない。疑問が残る。政職の子に正則(天川氏祖)を記す事には疑問とする意見もネットにあった。『世界帝王事典』の他、播磨屋さんの「武家家伝」の小寺氏系図は、政職の子に、天川久兵衛正則を記すが姫路城史・上巻』掲載の小寺氏系図では、政職の子は、氏職と良明しか記されていなかった(他に二女を記す)。没落した戦国大名の家系には謎が残る。
(2013.11.12)
世界帝王事典  小寺氏(武家家伝)  小寺氏とは
 小寺氏の系図は、政隆を豊職の弟に記すもの、豊職の息子に記すものがあり混乱している。
 姫路小寺家の職隆の位置付けも、小寺政職の養女の婿というものと、小寺則職の猶子(家督継承権を伴わない準養子)というものがある。更に近年播磨の研究会が作成しているサイトによると、小寺職隆は、小寺則職の息子(小寺政職の兄弟)で、官兵衛(孝高黒田如水)はその養子播州説(黒田家前史論集)ということらしい。戦国期の御着小寺家と官兵衛の姫路小寺家との関係には謎がある。
 播磨の研究会が作成しているサイトによると、官兵衛の父は通説では祖父とされる重隆で、兄は治隆で、播州黒田家本家は断絶する。後に官兵衛が小寺姓から黒田姓に復帰し、播州黒田家が再興され、後の福岡藩主黒田家に繋がるという。福岡藩主黒田家は、近江黒田家の末裔(佐々木氏系京極氏庶流)と称すが、従来説とは、大いに異なり注目される。今後の検討課題となろう。
このページのトップへ移動 
播州小寺氏一族(6)
 
播州小寺氏一族(6)(小寺氏諸家)
 
小寺氏は各地にいるが、特に知られているのが播州小寺氏一族である。基本系図の『分脈』、『纂要』の赤松一族系図では、小寺姓は記載無し。姫路小寺家(官兵衛系)は、近江佐々木氏末裔か?
(2013.11.13)
このページのトップへ移動
 播州小寺氏一族(7)
 
播州小寺氏一族(7)
 
播州小寺氏は、宇野為助の子の為頼が小寺姓を称したことにより始まるが、為頼の子の景頼は、宇野姓に復し、小寺氏は一時消滅する。為頼の曾孫の頼季が小寺姓を復活し、小寺氏が再興されるが、頼季が播州小寺氏の事実上の初代に位置付けされる。小寺氏は、その後、姫路・御着系岩屋・庄山系(後に鹽谷系)の二流となるが、姫路・御着系が事実上の惣領家(本家)となる。姫路小寺家は、後に御着城を拠点にし、一時八代氏を留守居役(城代)とするが、後に準一門の職隆(通説では、小寺則職の猶子、或いは女婿)に譲り、分家格の姫路小寺家(職隆系)が誕生する。この家に誕生したのが、小寺官兵衛である。小寺家は、一度は織田信長に誼みを通じるが後に離反し、御着小寺家は大名家としては滅亡する。姫路小寺家は、官兵衛が荒木村重に捕縛幽閉され、松壽丸(後の黒田長政)は、織田家に人質として送られていて一大危機に陥るが、職隆が家臣団をまとめ秀吉に全面協力し危機を脱する。荒木家が滅亡すると官兵衛も救出され、人質だった松壽丸も送り返され、織田信長や秀吉の信頼を得て、織田家直臣・秀吉属将として、中国・四国併合に活躍する。小寺氏一門では、姫路小寺家(官兵衛家)が唯一生き残る。姫路小寺家は、小寺氏一門から自立し、小寺姓を黒田姓に改める。
(2013.11.20)
小寺氏(武家家伝)
播磨屋さんの武家家伝は、職隆を黒田重隆の子と記す。これは、近江黒田氏末裔説と重なる。しかし、それは果たして事実なのであろうか?即ち、官兵衛家の小寺家は、果たして職隆が初代なのかという問題に突き当たる。ネットで黒田氏に関する研究を発信する播磨黒田氏研究会は、職隆を小寺氏の実子とする系図を記し、孝隆(小寺官兵衛)を播磨黒田氏の二男で、小寺職隆の猶子と記す。ここに一つの謎が浮上する。官兵衛系姫路小寺家は、官兵衛一代なのか、職隆・孝高の二代なのか、それともそれ以外のケースなのか。悩みが増える。小寺官兵衛の謎を解くには、姫路小寺家の謎を解かねばならない。
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(8)
 
 
播州小寺家は、御着城に移った後、八代道慶を姫路城代(姫路城留守居)とし、後に黒田家(姫路小寺家)に守らせ、同家が姫路城主(厳密には姫路城代)となる
(2014.1.5)
小寺氏(武家家伝)
赤松貞範(1346〜)(初代姫路城主)=小寺頼季(1349〜)(姫路城代・小寺初代)―景治(1352〜)―景重(1357〜)―職治(1403〜)(嘉吉の変で自害)=山名持豊(1441〜)(嘉吉の変後、播磨守護職)赤松政則(1467〜)(赤松氏宗家再興)=小寺豊職(1469〜)―政隆(1491〜)(御着城を築城し、拠点拡大)―則職(1519〜)(御着城主に転ず)
 『姫路城史』より
小寺政隆(1491〜)(御着城を築城し、拠点拡大)(1519年、御着城主に転ず)則職(1519〜)(1531年、御着城主に転ず)―政職(1535〜御着城主)=八代道慶(1531〜1545.姫路城代・留守居役)黒田重職(1545〜1564)(姫路城代・守将)―黒田職隆(小寺職隆)(1564〜1567)(姫路城主)―孝高小寺官兵衛)(黒田所水)(1564〜1580)(1580年、秀吉に姫路城を献上し、妻鹿國府山城に移る)=羽柴秀吉(1580〜)(留守居役.小寺職隆
御着小寺家の小寺政職は、官兵衛と姫路小寺家を欺き、官兵衛は有岡城に幽閉された。小寺政職は、秀吉軍に御着城を攻められ退去する(戦国大名御着小寺家滅亡)。姫路小寺家は、官兵衛が、織田家を裏切った小寺の姓ははばかられると言うことで先祖の黒田姓に復姓、以後黒田官兵衛(晩年は、如水と号す)と称す。姫路小寺家は、発展的に消滅し、播磨黒田家(後の福岡藩主家・黒田家)となる。官兵衛は、織田家家臣・羽柴秀吉属将となり、戦国大名の道を歩みだした。
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(9)
 
播州小寺氏一族(9)
 
小寺氏系図は、各資料により多少の差異があるが、大きく二つの流れがあるが、姫路・御着の系統が本流となる。この御着小寺家が、姫路小寺家(小寺官兵衛家。後の福岡黒田家)の主家となる。通説では、官兵衛の父の職隆が、小寺家の猶子となり小寺姓を称し、小寺家の養女を正室に迎えたとされる。一方、播州説(黒田家前史論集)では、職隆は、小寺の一族で、官兵衛が、職隆の養子になったと主張するが、御着小寺氏にも同族の庄山小寺氏にも、播州説が血脈一族と主張する職隆の名前は確認できない。小寺系図に実子として職隆の記載はなく、播州説には疑問が生じる。職隆の小寺姓は、猶子として小寺姓を称したか、女婿となり小寺姓を許されたか、という可能性が浮上する。実子説は、確認した範囲では、現状裏がとれない。基本系図では確認不能である。
(2014.1.12)
播州小寺氏一族(7)、 播州小寺氏一族(15)もご覧下さい。
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(10)
 
播州小寺氏一族(10)
 
小寺氏一族の系図を追跡して疑問に感じることがある。播州説(黒田家前史研究)では、通史で小寺官兵衛の実父とされる小寺職隆が、実は養父で小寺の一族で、官兵衛は職隆の養子で、実父は、通説では祖父とされる黒田重隆と主張する。仮に黒田系図を操作したとしても、他家である小寺系図までは、通常は操作できない。戦国大名としての小寺氏は滅びたが、家系が絶えたわけではない。本流は、福岡藩黒田家の家臣として家系を繋ぎ庶流も存続している。小寺氏一族各家の系譜を操作することは、黒田家といえども自家の家臣以外の系譜を書き換えることは事実上不可能である。それらに鑑み改めて小寺氏系譜を追跡すると、血脈親族としては、小寺職隆が確認できない。つまり、現時点で、職隆が小寺一族とは立証できず、あくまで猶子或いは女婿として、小寺姓を称し、準一門に列したということであり、実態は小寺氏重臣という位置づけにすぎないと言うことである。
(2014.1.13)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(11)
 
播州小寺氏一族(11)
 
戦国大名としての小寺氏は、織田軍に御着城を攻められ没落するが、一族は討ち死にせず退去し、血脈は存続する。
小寺氏の末裔は、複数存在するが、一部系譜に食い違いがある。伝承の混乱か、系譜編纂時の誤記か?
(2014.1.19)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(12)
 
播州小寺氏一族(12)
 
御着城主小寺政隆の弟の小寺則治の子孫は、丹波へ逃れて血脈を存続させたという。ここに伝わる系図には、姫路小寺家の職隆は記されていない。
(2014.1.25)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(13)
(前項より続く)
 
播州小寺氏一族(13)
   
小寺則治の子孫と言われる丹波小寺氏は、各地に広がった。戦国大名小寺氏は、城を枕に一族討ち死にしなかったので、戦国大名としては没落したが、子孫は各地に広がった。
(2014.1.26)
小寺氏(武家家伝)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(14)
  
播州小寺氏一族(14)
  
丹波小寺氏は、小寺城主小寺主馬助則治の子孫と伝える。戦国大名としての小寺氏は滅亡したが、小寺一族は播磨を離れて存続した。
(2014.2.1)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(15)
  
播州小寺氏一族(15)
  
天川氏は、播州小寺氏一族末裔とされるが、ネットではこれを否定する意見もある。小寺政職が、御着城から逃亡後、織田軍に降伏した岡村秀治(反織田同盟の別所家から派遣)の子孫か?
(2014.2.3)
播州小寺氏一族(9)もご覧下さい。
小寺氏とは(備考参照)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(16)
  
播州小寺氏一族(16)
  
御着小寺氏は、信長から離反し、毛利方となり、戦国大名としての小寺家は滅亡する。しかし、血脈は存続し、嫡流は、福岡藩黒田家に仕える。姫路小寺家は、元は黒田を称する。重隆より御着小寺家の小寺則職に仕え、息子の職隆は、小寺氏の女婿・猶子となり小寺姓を称し、準一門・家老職となり、姫路城を預かり姫路小寺家となる。
(2014.2.8)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(17)
  
播州小寺氏一族(17)
  
魚住氏は、御着小寺氏と姻戚関係だが、別所氏に属し、織田軍に攻められ滅亡する。長範から長秀に至る系譜は定かでない。
(2014.2.9)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(18)
  
播州小寺氏一族(18)
  
御着小寺家は、通説では赤松氏庶流と言われる。政職の時、一度は織田方となるが、後に毛利方に寝返る。

小寺氏をはじめ播州の国人らは、毛利方となるが織田軍に敗れ没落する。姫路小寺家は、主家の御着城主小寺政職に裏切られ、官兵衛は、使者として赴いた有岡城の荒木村重に捕らえられ幽閉される。官兵衛は、有岡城落城後救出される。この間、姫路小寺家は、官兵衛の妻が当主代行となり、家臣(小寺家から付属の寄騎も含む)は、官兵衛不在でも離反せず誓詞を提出し、隠居の職隆と共に姫路城を死守する。姫路小寺家は、旧姓は黒田で、近江黒田氏の一族末裔と称する。姫路小寺家は、御着小寺家から離反し、官兵衛が復帰すると、事実上、小寺氏から独立し、織田家属将となり秀吉の播磨攻略を補佐し、黒田姓に復する。播州黒田家が大名を目指し始動する。主家の御着小寺家は、戦国大名として地位を失い流浪する。小寺氏職は、後に黒田家に客分として迎えられ臣従し、地位が逆転する。
(2014.2.16)
※ 通説では、黒田氏は、京極家庶流近江黒田氏の末裔と称す(近年は、別所氏庶流を主張する研究家もいる)。
播州説(黒田家前史論集)   もう一つの黒田氏系図(武家家伝)(播州黒田氏)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(19)
  
播州小寺氏一族(19)
  
播磨説によれば、播州黒田家は、別所氏の庶流で、小寺家とは姻戚関係であり、官兵衛は、播州黒田家から姫路小寺家に猶子として入り、小寺家没落後、黒田姓に復し、滅亡した黒田家を復活させ(播州説の主張するところに寄れば、播州黒田家は、官兵衛の兄、黒田家9代目治隆の時に滅亡したとの事)、秀吉の属将として活躍し、大名となり、九州征伐後、豊前中津城主となり、官兵衛は、大名・九州黒田家の始祖となり、筑前福岡藩の藩祖となる(福岡藩初代藩主は、黒田長政)。小寺系図も、掲載した各種小寺系図では、播州黒田家に嫁した女性は確認できず。
(2014.2.27)
播州説(黒田家前史論集) 
 扶桑家系研究所が追跡した播州別所氏一族の系譜では、別所氏庶流に播州黒田家が記載された系図は確認できず。「尊卑分脈」、「系図纂要」、「群書系図部集」、「系圖綜覧」など、代表的な系図集には、播磨黒田家の系譜は記載無し。日本家系図学会の宝賀寿男会長も、播州黒田氏が実在としても、別所氏庶流とすることに対しては、疑問視されておられる。扶桑家系研究所が相互リンクする古代氏族研究会の関連サイトである古樹紀之房間掲載の論考でも、播州黒田氏系譜については、疑問視されておられる。興味有る方は、そちらもご覧下さい。
福岡藩黒田氏の先祖(樹堂氏論考解説)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(20)
  
播州小寺氏一族(20)
  
@播州黒田氏を別所氏庶流とするのは疑問(播州別所氏一族の系譜)。
A小寺職隆(姫路小寺家)を、小寺則職の実子とするのは疑問(婿養子、或いは猶子と思われる)。
B播磨黒田氏を、近江の黒田氏末裔とするのは疑問(高宗から重隆の間で血脈断絶の可能性あり。)。
C主要な黒田氏系図に、黒田治隆は記載無し。
(2014.3.2)
播州説(黒田家前史論集) 
播州小寺氏一族(7)参照
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(21)
 
播州小寺氏一族(21)
 
広峰氏は、凡河内氏の末裔。広峰神社の神職。赤松氏に属し、高長の時に、小寺氏より長職を養子にする。
(2014.3.8)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(22)
 
播州小寺氏一族(22)
 
姫路小寺家は、職隆の時に小寺姓を称したと言われるが、重隆から小寺姓を称したとする説もある。姫路城の守将も重隆の時から始まるとする。そうなると姫路小寺家初代は重隆ということになるが、そうであるなら、小寺則職(政職の父)に仕えたことが姫路小寺家の始まり。職隆が小寺則職の猶子となったことで、一家臣から御着小寺家の準一門に列したことになる。そういう流れの中で、小寺官兵衛は、若くして小寺家家老となり、織田家と提携するところまでこぎ着けた。織田家に人質を送る段になると、小寺政職は、自分の子供ではなく、官兵衛の息子の松寿丸を織田家へ人質として送りつけた。不誠実な小寺政職は、後に織田家を裏切るが、姫路小寺家は離反せず、秀吉の属将として播磨攻略につとめ、戦国大名への足掛かりを掴む。御着城主小寺政職が織田軍に攻められ逃亡すると、姫路小寺家は秀吉配下として織田家に仕え、先祖の黒田姓に復帰し播磨黒田家となり大名に列し、秀吉の九州征伐の後、豊前中津城主として、数万石の小大名から、十二万石の中堅大名となる。姫路小寺家は、当主の官兵衛が不在(荒木村重に幽閉される)の間も、織田家から離反せず滅亡を免れたばかりではなく、独立大名への道を歩むことになる。大名になったことで、姫路小寺家・播州黒田家の歴史はひとまず幕となる。
(2014.3.11)
播州小寺氏一族(3)  播州小寺氏一族(5)  播州小寺氏一族(7)  播州小寺氏一族(8)   播州小寺氏一族(18)   播州小寺氏一族(19)   播州小寺氏一族(20) もご覧下さい。
播州説(黒田家前史論集)
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(23)
  
播州小寺氏一族(23)
  
姫路小寺家は、重隆を初代とするが、小寺姓の始まりについては、重隆からとする説と、職隆が、御着小寺家の女婿で猶子となって小寺姓を称したとする説がある。このあたり不明瞭な点もあるが、通説は、職隆が小寺姓を称したと記す。一方、近年喧伝される播州黒田系図では、職隆は小寺一族で、官兵衛がその猶子となって小寺姓を称したと主張するが、『尾張群書系図部集』では、尾張の寺に伝わる記録・伝承の中に重隆が小寺姓を称した記録があったと記し、黒田系小寺姓は、官兵衛一代ではなく、重隆から官兵衛まで三代であった事を示唆している
(2014.3.12)
播州説(黒田家前史論集)   播州説に対する疑問  福岡藩黒田氏の先祖(樹堂氏論考解説)   もう一つの黒田氏系図(武家家伝)(播州黒田氏)
姫路小寺家(後の筑前黒田家)の系譜は、基本系図集でも食い違いがあり、尚かつ基本系図の中の記録そのものにも記述矛盾がある(年齢と生没年の食い違い)。『系圖綜覧』と『系図纂要』で同一人物の生没年が食い違っている。官兵衛以前の系譜は混乱しており注意を要する。
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(24)
  
播州小寺氏一族(24)
  
姫路小寺家(小寺官兵衛)のルーツに関して、播磨の黒田氏の研究会が「荘厳寺本黒田氏系図」を典拠として、播州黒田家は、別所氏庶流で、小寺を称した官兵衛の実父は、通説では祖父とされる黒田重隆であり、兄の治隆が播州黒田家9代目当主となり、この代で滅亡と記す。官兵衛は、既に黒田を出て、小寺職隆の猶子になって難を免れたとする。この播州黒田氏系譜に疑義を呈する論考が、ネットサイト古樹紀之房間や、日本家系図学会の会誌である『姓氏と家系』に掲載されている。『姓氏と家系』の論考は、日本家系図学会会長の宝賀寿男氏が執筆掲載したものである。それによれば、出自不詳の憲満が、播州黒田氏の祖と仮定している。遠祖は、赤松同族の古・別所氏一族の可能性も示唆しているし、古族の海神族の末裔の可能性もにおわせている。が、「荘厳寺黒田系図」のように新・別所氏庶流というの説は採用していない。宝賀論考などは、播州黒田氏が山中氏と同族の可能性を指摘している。小寺官兵衛の系譜が、播州黒田氏であるとしても、別所庶流黒田氏説には、幾つか疑問点を指摘している。ただ小寺氏一族を各種資料で追跡した感触では、小寺系図で、「荘厳本黒田系図」が姻戚関係を含め裏付けできなかったことで、疑問ありと考えるに至る。断定は出来ないが、基本系図文献との整合性の問題で、「荘厳本黒田系図」が立証されなければ、怪しい系図という結論になるが、これは黒田氏の関係系図を追跡してからの話。ただし、貝原益軒らが、連綿たる黒田系図を作成したが、幕府の『寛政重修諸家譜』は、この系図を正統な系譜としては採用していないし、冒頭付記で疑問を呈している点からも、近江黒田氏末裔説にも疑問符が付く。これは今後の課題。黒田如水の家系が播州黒田氏一族としても、嫡流ではなく分流(庶流)で、一時は、播磨を離れ、備前・美作方面に逃れたか?
(2014.3.16)
福岡藩黒田氏の先祖(樹堂氏論考解説)  播州説に対する疑問
このページのトップへ移動
播州小寺氏一族(25)
このページのトップへ移動
近江黒田氏は、宇多源氏か?
藤原俊成(堀俊成)―中上俊隆―新實俊―黒田俊村―行村―孫太郎―孫四郎(以下不詳
藤原俊成(堀俊成)―中上俊隆―新實俊―黒田俊村―行村―孫太郎=宗満(黒田四郎黒田判官)― 宗信―高教―高信―清高(清信)=政光―亀童子(高國)(以下不詳 (『近江黒田氏略系図』)
 ★ 近江黒田氏系図に、黒田高政は記載なし。
小寺官兵衛は、近江黒田氏の末裔とされる(貝原益軒らによる改竄系図による)。近江黒田氏は、宇多源氏を称する佐々木一族の庶流京極氏から派生したとされる。しかし、それは史実であろうか?小寺官兵衛の息子で初代福岡藩主の黒田長政が、日光東照宮に献納したものの中に、藤原長政と署名したものがあるという。黒田氏の本姓が源氏なら、武家ならわざわざ源姓を隠して藤原姓を称する必然性はない。近江の黒田氏が藤原姓であれば、その末裔とされる黒田長政が、藤原姓を称することは特別なことではないが・・・・・。
福岡藩黒田氏の出自に関しては、近江黒田氏末裔説(宇多源氏佐々木氏一族庶流京極氏傍系末裔説)播州黒田氏末裔説が主張されている[播州説(黒田家前史論集)(武家家伝 播州黒田氏)]。播州説では、赤松氏庶流別所氏の庶流とも主張するが、主要な系図の別所系図で庶流に黒田氏は確認されないという疑問点がある(播州別所氏一族の系譜)。
『寛政重修諸家譜』では、貝原益軒らの捏造系図は採用せず、宇多源氏としつつも、近江黒田氏と、福岡藩黒田氏の系譜を繋げていない。要するに長政の曾祖父以前は疑問ありということであろう。 
 
播州黒田氏一族
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(1)
 
播州黒田氏一族(1)
 
播州説(黒田家前史論集) 福岡藩黒田氏の先祖(樹堂氏論考解説)  播州説に対する疑問
播州小寺氏一族(3)  播州小寺氏一族(4)   播州小寺氏一族(8)   播州小寺氏一族(19)   播州小寺氏一族(20)   播州小寺氏一族(24) もご覧下さい。
播磨黒田氏の系譜は判然としない。播磨の黒田氏研究会は、荘厳寺黒田系図を典拠に別所氏庶流黒田氏の末裔と主張する。しかし、古代氏族研究会の関連サイトでは疑問を呈している。別所氏末裔説に関しては、扶桑家系研究所も別所氏一族の系図を追跡したことがあるが、それら各種別所系図には、黒田氏は登場しない。又、黒田城主黒田幸隆は、国立国会図書館の別所系図では、庶流の女性と結婚しているが、荘巌寺黒田系図の戦国期の人物には、別所氏との関係は記されていない。荘厳寺黒田系図の黒田氏が、仮に播州黒田一族であったとしても、嫡流ではなく、庶流ではなかろうか。不自然な部分があることは、日本家系図学会の宝賀寿男会長も、会誌に掲載の論考で指摘しておられるが、現状では、直ちには信用しかねる系譜である。大河ドラマもあり、地元の市史などでも喧伝しているが、慎重な検討が必要であろう。ちなみに言えば、荘厳寺黒田系図で、初期に小寺氏との姻戚関係を記すが、各種小寺系図を検討した範囲では、播州黒田家と初期に姻戚関係にあったことは、確認できていない。私が研究に使用する基本系図では、一切裏付けが出来ない。姫路の小寺家(後の福岡藩藩主黒田家)は、貝原益軒らの系図改竄などにより、近江黒田氏の末裔とされるが、室町前期以後、播磨で土豪クラスから国人領主並に発展した黒田一族の庶流の可能性も、系図研究の先達から近年指摘されているから、播磨黒田一族という可能性は考えられるが、少なくとも別所氏庶流説には疑義があると言わざるを得ない。
(2014.3.22)
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(2)
  
播州黒田氏一族(2)
  
荘厳寺黒田系図は、小寺氏や別所氏と姻戚関係と記すが、主要な基本系図では、この関係を確認することは出来ない。ただし、播州の黒田幸隆(比延山黒田城主)が別所一族と姻戚関係にあることは、国立国会図書館所蔵の別所氏系図に記されている。しかし、荘厳寺黒田氏系図には、黒田幸隆は記されていない。日本家系図学会の宝賀寿男会長の論考によれば、黒田幸隆は、播州多可郡黒田氏一族の嫡流と記す(『姓氏と家系・第7号』掲載)。又、国立国会図書館の別所系図には、荘厳寺黒田氏系図が、別所敦光の弟で、播州黒田家の祖と主張する黒田重光は、記されていない。又、『尊卑分脈』、『群書系図部集(原本は、正続群書類従・系譜部)』、『系図纂要』、『系圖綜覧』などでは、、別称氏の庶流に黒田氏がいたことは確認されない。江戸時代に作成された系図は、改竄系図も少なくない。荘厳寺黒田氏系図は、果たして播州黒田氏の系譜を正しく伝えるものであろうか。又、播州黒田一族として、本当に嫡流黒田城主であったのだろうか。戦国期、播州黒田嫡流が絶えた後に、庶流が系図を書き換えたという可能性も考慮しておくべきであろう。扶桑家系研究所は、以前別所氏一族を追跡したが(播州別所氏一族の系譜)、その範囲では、播州黒田氏が、別所氏一族とは、確認できていません。系図を書き換えたとしても、姻戚関係までの書き換えは、かなり困難。婚姻先とされる相手の系譜に於いて、婚姻関係を立証する記述がなければ、疑ってかかるのが当然の判断。播州黒田氏の系譜を復元するのは、なかなか難しいというのが、現状での実感。
(2014.3.30)
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(3)
  
播州黒田氏一族(3)
  
播州黒田氏系図では、荘厳寺黒田系図は、別所一族とするが、区有文書の黒田系図は、重勝以前は記載無し。日本家系図学会の宝賀寿男会長が、国会図書館などの各種黒田系図から推定復元した系図では、黒田官兵衛の系は、播磨黒田氏の庶流で、一度備前の逃れた一族で播磨に戻った流れと推定。小寺職隆は、黒田重隆の息子と記し、荘厳寺黒田系図とは異なる。荘厳寺黒田系図に、黒田孝高の兄として記される治隆は、宝賀氏が復元した黒田系図や、国会図書館の『諸系譜』掲載黒田系図などでは確認されない。尚、各種別所系図の庶流に黒田氏が確認できなかったことは、前に記した(前記参照)。黒田城主黒田幸隆は、国立国会図書館の別所系図に寄れば、別所忠治の女を室にしたと記す。荘厳寺黒田系図は、戦国時代の当主が別所氏と姻戚関係になったことは記さず食い違う。
(2014.4.2)
播州小寺氏一族(24)も、ご覧下さい。
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(4)
  
播州黒田氏一族(4)
  
黒田官兵衛の系は、播州黒田氏の末裔の可能性が高いが、嫡流ではなく庶流の可能性がある。近江黒田氏の嫡流に系譜を結ぶのは疑問。播州黒田城主一族の庶流で山中鹿之助の同族の可能性が浮上。赤松の没落で一時備前に退去し、後に播磨に戻ったことが、黒田高政が近江から事実上追放され、流浪して備前国邑久郡福岡に移り、その後播磨国姫路に至り財をなして、小寺に仕えたとする話が作られたのではなかろうか?播州黒田一族には不明な点もあり、系譜復元を困難にしているのではなかろうか。前記(3)及び播州小寺氏一族(24)も、ご覧下さい。
(2014.4.6)
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(5)
  
播州黒田氏一族(5)
  
この播磨黒田氏推定系図は、荘厳寺黒田氏系図とは、まったく整合しない。この黒田氏系図の本流は、黒田城主と記す点から、荘厳寺黒田氏系図とは対立する。黒田幸隆の名前は、荘厳寺黒田氏系図には記載がないが、別所系図に記述があり、荘厳寺黒田氏にはまったく触れられていない点から、荘厳寺黒田氏系図には疑義がある。荘厳寺黒田氏系図が別所氏庶流と主張するが、一切裏付けが出来ない。又、荘厳寺黒田氏系図が黒田孝高(孝隆)を重隆の次男と記すが、『姓氏と家系』掲載の黒田氏系図では、黒田氏本流(黒田城主系図)に黒田孝高は記載無し。黒田孝高は、黒田氏庶流黒田重隆の孫に記す。この部分は、主要系図とも重なる。黒田官兵衛の正確な系譜は確認できないが、播州黒田氏の庶流の末裔と考えるのが妥当か?
(2014.4.12)
播州小寺氏一族(24)も、ご覧下さい。
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(6)
 
播州黒田氏一族(6)
 
戦国大名黒田氏は、播磨御着城主小寺氏(元姫路城主)に仕え、通説によれば、職隆が上席家老となり、小寺氏の猶子となり、小寺姓を許され、姫路城を預けられ、姫路小寺家となる。御着小寺家は、官兵衛の働きで織田家に与するが、反官兵衛派に乗せられた小寺政職は、織田家から離反した荒木村重を利用して官兵衛の謀殺を図るが、荒木村重は、殺害せず幽閉する。この間、御着小寺家は織田家を離反するが、主不在の姫路小寺家は、官兵衛夫人が当主代行となり、隠居の職隆がこれを補佐し、家臣に団結を呼びかけ、小寺家から派遣されていた寄騎には、御着に戻ることを許したが、職隆や官兵衛に感化されていた寄騎衆は、姫路にとどまる。官兵衛不在の姫路小寺家は、叔父の小寺休夢が秀吉と連携し、織田家との繋がりを維持した。有岡城は、織田軍に攻められ、城主の荒木村重が逃亡し、有岡城は落城して官兵衛は救出される。御着城の小寺政職は、織田軍に包囲され籠城するが、小寺政職は、家臣や別所氏から派遣されていた寄騎らを残し逃亡する。御着城は、別所家から派遣されていた家臣が、秀吉軍に降伏したという。ここに戦国大名小寺家は消滅する。ただし小寺の血脈は絶えておらず、小寺政職は、わびを入れるが、織田は認めず逃亡先で死去する。小寺官兵衛は、織田家にはばかり、祖父の旧姓に復する。官兵衛は、秀吉幕下として活躍する。その後、小さいながら大名に列する。戦国大名黒田家の誕生である。羽柴秀吉(豊臣秀吉)には、複数の補佐役(参謀)が存在した。竹中半兵衛、小寺官兵衛(黒田官兵衛)、蜂須賀小六、羽柴秀長。秀吉の参謀は、二兵衛(半兵衛官兵衛)が著名で、秀吉の軍師と喧伝されている。竹中半兵衛が、三木合戦のさなかに病没し、残りの3人が引き継ぐ。その中で、半兵衛の役割、軍師的な立場を引き継いだのが官兵衛ということであろう。ただ純然たる軍師かといえば、微妙な部分もある。秀吉は、信長のように力責めばかりではなく、相手との駆け引きで、味方の兵の消耗を回避しながら、交渉や政治工作で勝利してきた側面もある。そこで力を発揮するのが交渉人だが、官兵衛にはそういう側面もある。織田家を離反した荒木村重の説得工作は失敗したが、宇喜多を秀吉方に引き入れるとか、本能寺の変直後の毛利との和睦交渉や小田原征伐での北條家との交渉でも活躍している。私は『織豊興亡史』で、豊臣政権は、秀吉の単独政権ではなく、羽柴・毛利の西国連合に、越後の上杉との提携や徳川家康を政治工作により幕下にすることで成立した羽柴・毛利・徳川連立政権と記したが、その隙間を固めたのが宇喜多 ・前田 ・上杉で、毛利 ・徳川 ・宇喜多 ・前田 ・上杉は、豊臣政権末期の5大老となる。毛利家との提携では小早川隆景の存在も大きい。小早川 ・安国寺と黒田官兵衛の交渉により、備中高松城が落城し、明智光秀討伐の為に上洛することが可能になった。官兵衛の果たした役割は大きかった。毛利との交渉に手間取っていたら、明智が政権固めしていたか、或いは、誰か他の武将に明智討伐の功績を奪われていたかもしれない。官兵衛は、秀吉幕下の中で存在感を高めていく。しかし、それは、一人官兵衛の功績ではなく、彼を支えた側近軍団の存在も大きい。軍団の中核武将は、黒田二十四騎と称され、その中で特に精鋭であった武将は黒田八虎と称され、一族と有力家臣で構成された。この事は、後日触れることになる。
(2014.4.19)
播州小寺氏一族(8)も、ご覧下さい。
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(7)
このページのトップへ移動
播州黒田氏一族(小寺官兵衛のルーツ)
播州説(黒田家前史論集) 福岡藩黒田氏の先祖(樹堂氏論考解説)  播州説に対する疑問 
黒田氏系図(武家家伝)(佐々木氏一族京極流)  もう一つの黒田氏系図(武家家伝)(播州黒田氏)
如水
戻る
リポート集トップへ戻る
Copyright (C) Kakeiken. All Rights Reserved.