扶桑家系研究所 リポート12 
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有馬氏一族の系譜
赤松氏一族は多くの庶流を派生させたが、多くの一族は戦国時代までに没落した。別所氏は一度没落したが、その傍系は豊臣大名として復活し、江戸初期まで大名となるが、当主がぼんくらで参勤交代を仮病でさぼったことが発覚して改易となる。その中で、摂津の有馬氏だけは、福知山藩主を経て久留米藩主となり、幕藩体制下で大名として存続、明治時代には華族に列した。傍系も紀州徳川家に仕えた後、大名に列し、この家系も明治時代に華族に列した。競馬の有馬記念はこの有馬家に由来する。
1. 赤松系有馬氏系図(1)
2. 赤松系有馬氏系図(2) 
3. 赤松系有馬氏系図(3)
4. 赤松系有馬氏系図(4)
5. 赤松系有馬氏系図(5) 
6. 赤松系有馬氏系図(6)
7. 赤松系有馬氏系図(7)
8. 赤松系有馬氏系図(8)
9. 赤松系有馬氏系図(9)
10. 赤松系有馬氏系図(10)
11. 赤松系有馬氏系図(11)
12. 赤松系有馬氏系図(12)
13. 赤松系有馬氏(概説)
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赤松系有馬氏系図(1)
 
赤松系有馬氏系図(1)
 
摂津有馬氏は、赤松氏傍系と伝える。基本系図は戦国時代まで、『日本系譜綜覧』は近代部分までこのページで掲載した。基本系図は戦国以降確認可能な部分は、別記掲載する(以下は二項以降の各系図参照)。赤松一族は多くは戦国時代までに没落したが、有馬家は戦国時代を乗り切り近世大名(幕藩大名)として存続した。本家は後に福知山を経て筑前久留米に移封される。
(2009.4.5)
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赤松系有馬氏系図(2)
 
赤松系有馬氏系図(2)
『群書系図部集』は複数の赤松系図及び関係系図(有馬系図など)を掲載するが、古い部分は諸説あり一致せず。近世大名有馬家は、赤松則村(圓心)の孫の義祐の流れである。多くの一族が没落する中、有馬家は戦国時代を生き抜き、近世大名として江戸時代を生き抜き明治維新を経て現代に至る。
(2009.4.23) 
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赤松系有馬氏系図(3)
 
赤松系有馬氏系図(3)
 
『群書系図部集』掲載の各種赤松系図は、細部で食い違い有り。近世大名有馬家は、有馬義祐を直接の祖とする点は共通し、本流は一致(有馬義祐―持家―元家)。持彦の位置付けでは食い違い有り。
(2009.5.6)
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赤松系有馬氏系図(4)
 
赤松系有馬氏系図(4)
 
『群書系図部集』掲載系図でも、有馬系図石野系図では食い違いあり。赤松一族の系図は各種資料で食い違いあり。共通するのは、赤松則村(圓心)の孫の則祐を有馬家の始祖としている点。
(2009.5.29)
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赤松系有馬氏系図(5)
 
赤松系有馬氏系図(5)
 
有馬氏は、則頼が秀吉に臣従して生き残りに成功。その後家康に接近、関ヶ原では東軍に属す。大坂の陣(冬の陣、夏の陣)で豊臣家が滅亡すると、元和6年(1620)には、加増されて福知山から久留米に移る(久留米藩二十一萬石)。久留米藩初代藩主豊氏の室は、家康の養女連姫(忠頼の母)。以後有馬家は近世大名として存続し、明治になり華族に列す。
(2009.7.10)
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赤松系有馬氏系図(6)
 
赤松系有馬氏系図(6)
 
有馬氏は、江戸時代に久留米藩を本家として、五井藩(吹上藩)、旗本家を輩出した。
(2009.7.18)
女系の有馬家は、赤松系有馬氏系図(12)をご覧下さい。
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赤松系有馬氏系図(7)
 
赤松系有馬氏系図(7)
 
有馬氏歴代、『寛政重修諸家譜』と『系図纂要』で食い違いあり。頼旨(よりむね)は、誰の実子か?
(2009.7.24)
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赤松系有馬氏系図(8)
 
赤松系有馬氏系図(8)
 
戦前、有馬家本家は伯爵であった。分家は男爵となる。有馬頼寧は近衛内閣で農林大臣となる。戦前翼賛体制が構築されると大政翼賛会の初代事務局長となる。戦後中央競馬界の理事長となる。息子の有馬頼義は直木賞作家。
(2009.8.9)
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赤松系有馬氏系図(9)
 
赤松系有馬氏系図(9)
 
有馬家は、明治に至り華族に列す(伯爵・子爵・男爵)。
(2009.8.16)
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赤松系有馬氏系図(10)
 
赤松系有馬氏系図(10)
 
紀伊徳川家に仕えた有馬氏傍系は、吉宗が将軍になると随行して幕臣となり、その後加増されて大名に列した(有馬氏倫)。一時絶家の危機となるが、氏郁の夫人が名跡を預かり本家より頼之を養子に迎え、明治に至り華族に列す(子爵)。次の聰頼の時に息子の芳治を除籍し、爵位を返上する。
(2009.8.24)
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赤松系有馬氏系図(11)
 
赤松系有馬氏系図(11)
 
この系図は、有馬氏一族の概略総合系図である(詳細は前記各系図参照)。 有馬氏の本流の血脈は五代目(頼旨)で絶え、赤松同族の石野家が家名を継承した(則維は、最初傍系の則故の養子となるが、その後本家を継承した)。子孫は明治時代に伯爵・子爵・男爵となる。本家末裔の有馬頼義は直木賞作家。競馬の有馬記念は、その父の有馬頼寧に由来する。
(2009.9.4)
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赤松系有馬氏系図(12)
 
赤松系有馬氏(12)
 
有馬氏は後に石野氏が有馬氏本流を継承した。更には傍系にも石野氏の血脈が及ぶ。有馬氏は赤松系男系のみならず女系でも有馬を称した家系がある。
(2009.9.14)
赤松系有馬氏
赤松系有馬氏の系図は、各種系図の古い部分に食い違いが多少見受けられるが、赤松則村(円心)の孫義祐が室町幕府より摂津国有馬郡の地頭職に任ぜられ有馬氏を称したという点は共通しており、赤松義祐が有馬氏の事実上の始祖となる。その末裔の則景あたりから国人領主として現地で大名化の一歩を踏み出したようである。といっても戦国大名と呼べるレベルではなく摂津の国人の一人という程度である。
則景の子の重頼は播磨国三木の満田城に移る。その子の則頼が豊臣秀吉に仕え、一萬石の幕下大名になったことで近世大名への道にたどり着いた。文禄年中、太閤の命で家康と接する後懇意となり、前田利家没後、家康と反家康派の緊張関係の中家康に参候す。上杉征伐に従軍し、石田三成挙兵の時には家康に従い西下す。関ヶ原で家康が勝利すると、慶長6年正月摂津国有馬郡で二萬石を賜り三田城に住す。翌慶長7年7月28日に有馬則頼は三田で没す(70歳)。其の子の豊氏は、豊臣秀吉に仕え、父とは別に三千石を賜り、文禄3年には従五位下玄蕃頭に叙任。文禄4年には加増あり遠江国横須賀で三萬石の大名となる。慶長5年の関ヶ原合戦で家康方が勝利すると、12月13日に三萬石加増(六萬石)され、丹波国天田郡福知山城に移る。慶長7年に父の則頼が没すると遺領二萬石を賜る。元和元年の大坂夏の陣でも多くの首をとり活躍、元和六年閏12月8日に十三萬石を加増され、筑後国久留米二十一萬石の大名となる(久留米有馬家初代藩主)。久留米藩有馬家は、豊氏―忠頼=頼元―頼旨(よりむね)則維(のりふさ)(幕臣石野則員の五男)―頼僮(僮=彳+童)(よりゆき)―頼貴=頼徳(嫡孫継承)―頼永(よりとお)=頼咸(よりしげ)(頼永の実弟)と続く。頼咸の時に明治維新を迎える。久留米藩有馬家は四代頼元の時代、一族の有馬豊範(豊祐)に御原郡松崎で一萬石を分知する(元禄10年、松崎藩廃絶後返地される)。頼元没後頼旨が継承するが在職一年で没し有馬の血脈が絶えると、一族有馬則故(のりふる)(旗本三千五百石)の養子となっていた則維(のりふさ)(幕臣石野則員・のりかずの五男)を養子に迎え六代藩主とした(以下石野氏の血脈)。九代頼徳(よりのり)は頼貴の孫。父の頼端(よりなお)の早世により家督を継承した。最後の藩主頼咸は当初は佐幕派で、攘夷派の真木和泉らを押さえたが、水野正名が台頭すると姿勢を転換、大政奉還後に水野正名が藩論を統一すると、以後薩長を中心とする新政府軍に従い、戊辰戦争から五稜郭の戦いまで従軍し新政府軍に協力した。以後久留米有馬家は、頼咸(よりしげ)―頼匡=頼萬(頼匡の実弟)(伯爵)―頼寧(JRA理事長・有馬記念は、頼寧の功績を称して冠せられた)―頼義(直木賞作家)―頼央と続く(『平成新修旧華族家系大成』による)。これが有馬家本家である。次に大名となったのは、有馬豊氏の二男(三男?)頼次の流れである。有馬頼次は徳川忠長(駿河大納言)に仕えたが、忠長の蟄居・切腹後、蟄居する。父に預けられ後赦免となり将軍に謁見するも幕臣に復帰することなく没す。養子の吉政が紀伊徳川家に仕え、その養子義景の子の氏倫が吉宗に仕え、吉宗が将軍になると幕臣となる。その後伊勢や飛び地の所領併せて一萬石となり大名に列す。有馬氏倫=氏久=氏恒=氏房(氏恒義弟・氏久子)=氏恕(うじよし)(上総国五井藩主)=氏保=久保―氏貞―氏郁(下野国吹上藩主)=氏弘(有馬則篤の子)=瑤光院(有馬氏郁妻)=頼之(有馬頼咸の子)(子爵に列す)―聰頼―芳治(有馬家より除籍)。久留米藩有馬家分家の松崎藩有馬家は一代(有馬豊祐)で除封廃絶となる。豊祐は有馬忠頼の妹の子(小出吉重の三男)で、当初実子の無かった忠頼の養子となる。その後、実子の頼利と頼元が生まれ、頼元が家督相続したので一萬石を分知され松崎藩主となるが、家中の統制が出来ず廃絶収公となる。没収された一萬石は数年後本家に戻される。豊長の系統は幕臣となり子孫有馬則篤は大目付となる。
 有馬氏は、三英傑と折り合いを付けることで生き延びてきた。秀吉の幕下になることで近世大名への足掛かりを掴み、秀吉没後に家康に誼を通じ大名家としての地位を確立し、傍系も大名、旗本として存続し近現代に至る。
(2009.9.15)
赤松系有馬氏についてはこれで一区切りにする。先祖に関しては赤松系図も混乱しており、鎌倉末期ぐらいからが現実に近い系図と考えられる。ただ赤松庶流各家で親子兄弟の関係に食い違いがあったり欠落があったりで混乱に拍車をかけている。有馬に関しては戦国後期からが概ね妥当な系譜と考えられるがそれ以前は参考系図と位置付けておくべきである。
(2009.9.15)
 
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