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村上氏一族の系譜(村上氏千年興亡史)
謎の村上氏系図  村上氏一族の系譜・目次  村上氏一族の系譜・緒論  村上氏一族伝説のルーツ・目次
 
『異聞歴史館』の二大テーマは、皇位継承・南朝と武家の系譜の研究だが、どちらのテーマにも関係するのが、村上一族である。北畠氏ほどメジャーではないが、南朝縁の一族である。
まえがき
  私が村上氏を知ったのは、二十歳前後の時である。その時には、まだ南朝研究もしておらず、戦国武将の系譜の比較研究も開始していない時期であり、百科事典や評伝などの巻末系図などをノートに書き写す、今風に云えば系図オタクの時代である。村上氏に関しても、何の知識も持ち合わせていない時代である。あるところで『村上海賊史』(村上公一.著、因島市史料館発行)という本を見て、瀬戸内・芸予地方に村上水軍(村上海賊)と呼ばれる一族がいて、鎌倉時代後期から南北朝の争乱を経て、戦国時代まで活躍したことを知ることになる。秀吉による海賊禁止令の発令まで、瀬戸内を支配した海の大名である。
  だがこの時点では、研究とは無縁の存在、太田亮氏の『姓氏家系大辞典』も入手しておらず、そのまま忘れ去られた存在であった。私の中に村上氏が登場するのは、『南朝興亡史』(近代文芸社、1996年)を執筆した時と、信濃の海野一族及び真田氏の系図を追跡した時である(真田氏に関する小論と系譜は、『異聞歴史館』に掲載)。海野氏と真田一門が領地を失い、一時壊滅的打撃を受けたのは、武田(信玄の父の信虎)・諏訪・村上連合による海野郷侵攻である。そして、村上義清が信濃を追われるのは、武田軍に敗れたからであるが、それは、武田に仕えた真田の謀略による。武田は、真田の仇敵であるが、武田信虎は後に信玄に追放されたので、真田は恩讐を捨て、生き残りの為に武田に仕えた。諏訪は信玄に滅ぼされ、武田に併合された。残るは、信濃の村上氏である。信玄は二度敗れるが、真田が本格的に活躍し始めた三度目の村上攻撃で、村上義清を越後に追いやった(これが切っ掛けで、上杉謙信との直接対決に繋がる)。村上義清は、鎌倉末期から南北朝時代初期に活躍した村上義光の一族の末裔である。村上氏は義光(義日)と義隆を犠牲にして、護良親王を脱出させた。後に護良親王は、後醍醐天皇の裏切りで捕らえられ、足利方に引き渡され、後に謀殺されたと云われる(伝説は色々あるが、史実では殺害)。建武政権発足後の村上氏であるが、村上義光(義日)・義隆の犠牲は無視された様で冷たい扱いであった。残された村上一族は、足利尊氏に接近、建武政権下では、村上信貞と云う人物が、『信州惣大将軍』として、守護の小笠原家と共に、尊氏幕下で北條氏残党の鎮圧に尽力した。その過程で、村上氏は北信濃の有力國人となる素地を固めていく。
  真田の追跡から村上氏を再確認し、更には北畠系譜の追跡過程で、『系図纂要』により、北畠顕家の子孫が村上を称し、戦国時代に村上水軍となる系図を確認した。更には、国会図書館の所蔵系図でも類似のもの(系図)があることを知る(後述)。これは『村上海賊史』の系譜にも重なる(詳細は後述検討)。しかし、俄には信じ難く、結局自分なりに納得する為に『村上氏一族系譜』を追跡することにした。多くの先達の研究も参考にしつつ、村上一族の系譜が明らかになればと考える。『姓氏家系大辞典』でも、多くの項目に分類・紹介している。すべて同族というわけではないが、村上氏一族を検討する上では大いに参考になる。特に海賊村上氏の系譜は複雑怪奇であり、どこまで解明できるかが課題である。陸の村上は、信濃から広がり、丹波・伊予(前期村上氏)・三河など各地に広がっている。一方、海の村上は、どこまで系図復元出来るかが鍵である。
   ではこれから、村上氏千年の系譜に挑戦しよう。
   平成20年(2008)7月28日 扶桑家系研究所 早瀬晴夫
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謎の村上氏系図(村上水軍村上家略系図)
清和天皇―貞純親王―源経基―満仲―頼信―頼清―仲宗(村上海賊祖)―顕清(村上顕清)―定国―清長
頼冬=頼久―(頼泰)頼貞(頼員―教観)=義弘=師清(北畠顕成)―義顕(弟.通忠[来島村上家]、顕長[因島村上家])―雅房―隆勝―武吉―元吉(弟.景親―元信―就親、その子孫が村上公一)―元武―就武―吉勝―武實―隆勝(詳細は、村上公一.著、因島市史料館『村上海賊史』P.126の系図参照)
※ 清和天皇から村上清長までは、『尊卑分脈』、『系図纂要』で確認できる。又、村上武吉以下は、毛利家の関係文書などから復刻の『近世防長諸家系図綜覧』などで確認できる(山口県文書館所蔵資料など)。村上頼冬から村上武吉の間が諸説有り混乱している。
村上武吉―景親―元信―就親―景信―景富―広信―就庸―房周―熙光―元福―有信=源太―保一郎―公一(『村上海賊史』著者)
河野通清―通吉(信吉)―村上頼久(村上左衛門太夫・日向守)―頼員―教観(以下記載なし)
※ この系譜は、『群書系図部集』の河野家系図でも確認できる。頼泰は記載なし。 
村上義弘―信清―吉勝―吉兼―吉久―吉放―吉利(島越前守吉利)―吉方………
「島氏系図」(『瀬戸内海の研究』掲載)
この系図から、海賊村上家(村上義弘家)は、村上師清に乗っ取られたことが推定される。
村上水軍村上家を乗っ取った(併合した)村上師清は、北畠親房の孫の顕成(北畠顕家の嫡男)とされているが、その所伝は怪しきものである。『尊卑分脈』の村上源氏北畠氏系図では、北畠親房、その子供少納言顕成、その子供親成まで掲載するが、顕成が村上義弘の養子になったとか、村上義顕に改名したとか云う付記、注意書きはない。更に、顕成には浪岡伝説があり、瀬戸内へ下向する可能性は、限りなくゼロに近い。その為に、顕成の弟を義顕とする系図もある。これは後世の仮冒、系図改竄を示唆するものである。『系図纂要』に村上系図を北畠に繋げた系図を掲載しているが、成立年代や、信憑性の問題から勘案して、『尊卑分脈』により、北畠末裔説には疑義ありと述べておく。北畠説は、没落した能島村上家が独立を放棄、毛利家に仕える時に系図を整え、その際に付記したものではなかろうかと想像する。それが証拠に、村上武吉以前は、各種系図が混乱している。都合が悪い部分は書き換え(村上武吉は、傍系から能島村上氏本家を継承)、毛利家に提出、それが『近世防長諸家系図綜覧』掲載系図の原型になったと思われる。即ち、村上水軍村上家の系譜は、村上頼冬から村上武吉の間の系譜に疑問有りということである。『系図纂要』と類似の系図が国立国会図書館にあるが(中田憲信編纂系譜)、同様の理由で疑義ありと指摘しておく。各種村上系図とも整合しないから充分な検討が必要であろう。
北畠師親―師重―親房―顕家―顕成―親成(以下記載なし) (『尊卑分脈』北畠氏系図抜粋)
今後は、暫時各種村上系図を掲載していくつもりである。どれだけの系譜が掲載できるか。その中に、謎解明に繋がるヒントがあるのか。現時点では、私にも分からない。私自身も今後の展開を楽しみにしている。村上一族は、陸の村上も、海の村上にも謎が多い。いかなる展開になる事やら・・・・。
(2008.8.1)
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村上氏一族の系譜・目次
1. 村上氏一族の系譜・まえがき
2. 村上氏一族の系譜・緒論 (村上氏一族伝説のルーツ・目次)
3. 陸の村上氏
4. 海の村上氏
5. 参考諸家系譜
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村上氏一族の系譜・緒論
  村上氏は、全国に広がる一族であるが、かならずしもすべてが同族というわけでもなく、又、その一族の系譜には不明な部分もあり謎の多い一族である。地名による発祥。水主・梶取など水にかかわる集団の長から発展した『ムラガミ』より転じた村上氏。渡来人の流れを汲む「村上氏」など様々。挙げ句は村上源氏を村上氏と混同し、『姓氏家系大辞典』の村上氏の項目に記している。村上源氏は、多くの源氏を分類するときに、始祖の天皇名を冠したものであって、村上氏とは必ずしもイコールではない。
  村上氏は、信濃國更級郡村上郷、信濃國安曇郡村上郷より興る村上氏。或いは各地の村上地名によるものなど様々。『姓氏家系大辞典』は、村上造、村上連、村上源氏、村上源氏致平親王流、村上源氏為平親王流、同じく具平親王流の村上家を記し、その系図を掲載している。その後、各地の村上氏を紹介している。その後、清和源氏満快流や井上氏を紹介している。そして『姓氏家系大辞典』の19には、清和源氏頼信流村上系図を掲載している(原典は『尊卑分脈』)。以下各地の村上氏を紹介している。その多くは、清和源氏村上氏末裔、或いは村上源氏末裔を称す(村上水軍は、村上源氏北畠氏末裔を称す)。
  37の丹波村上氏、39の名和氏族村上氏、43の赤松氏族、44の美作村上氏、46の村上源氏北畠氏族(村上山城守義顕)、47の河野氏族説(村上左衛門大夫・日向守頼久)、48の信越村上源氏説、49の伊豫村上氏、50の備後村上氏は、村上水軍一族として関係しているようである。51の安藝の藤原姓村上氏、52の安藝村上氏、53の大内氏族、54、55、56、57、58と項目はあるが、当方で追跡の、村上源氏、清和源氏村上氏とは関係なさそうである。
『姓氏家系大辞典』で紹介されているものでは、やはり19・37・46から50の村上水軍関係に注目する。太田氏は、自分に都合のいい系図によって自説を展開される訳ではなく、自身で収集したか、系図学会を主催していた時に地方の研究家から提供された系図を、太田氏なりに真摯に検討され、自分の資料と併せて同書で紹介されておられる。我田引水がないことも、研究者や研究家に評価され、系図研究の入門書、バイブル視されている所以である。主観を極力排除されている点でも、追跡の糸口としては信頼がおける。細部については、今後の追跡でも触れるので、ここでは省略するが、信濃の村上・丹波の村上・芸予の村上水軍村上氏については、注目すべき一族であり、今後本論で追跡する。
  村上氏と云うと、近年(平成20年時点で数年以内)、実証歴史作家を名乗る研究家の森本繁氏が、1997年に『村上水軍のすべて』(新人物往来社)、2001年(平成13年)に『戦史ドキュメント 村上水軍興亡史』(学研M文庫)(学習研究社)、2008年に『村上水軍全史』(新人物往来社)を刊行、2005年(平成17年)の『別冊歴史読本 戦国水軍と村上一族』(新人物往来社)にも執筆、世間一般に、村上水軍村上氏を知らしめているが、私の論考では、最初に源流たる陸の村上を追跡するが、その前に緒論では、大本になるルーツを紹介したいと思います。まず村上氏の概略を知る為に『系図纂要』を紹介しておく。ここでは、清和源氏の系図ながら、頼清を村上源氏村上憲定の婿養子と付記に記すが、村上源氏系図では、源憲定の子供(養子)に頼清を記さず矛盾を露呈している。成立年代の古い『尊卑分脈』の頼清には、村上源氏・源憲定の婿養子になった記録は確認できない(清和源氏の項でも、村上源氏の項でも確認出来ず)。
  緒論では、基本系図である『系図纂要』、『尊卑分脈』、『寛政重修諸家譜』を紹介して、村上一族の大枠(一定程度信頼できる系図)を把握してもらおうと思う。系図は、曖昧な家系や、本家・分家が争った一族では、よく改竄される。従って、大本の『尊卑分脈』との乖離性が高いものについては、注意を要する。
  村上氏は、頼清の子供の源仲宗(筑前守)が事実上の氏祖であり、その子の顕清が村上姓を称したことから始まる。その子の為国(為國)が信濃村上氏の祖となり、兄弟の定国が伊豫村上氏の祖となり、系譜上、その流れが村上水軍(村上海賊)となる(要検討)(後述)。
  村上為国の子孫で有名なのは、護良親王に仕えた、村上義光(義日)・義隆親子である。
● 村上顕清―為国―安信―信村―胤信―義光(義日)―義隆(討死)
  村上氏は、院に仕えた北面の武士であるが、呪詛事件で失脚、兄弟は各地に配流となった。一旦没落した村上一族であるが、平安末期の動乱の中、僅かに歴史上に痕跡を残す。保元の乱の時、崇徳上皇方に村上為国が参陣。その後、平家政権の下で逼塞した村上氏であるが、平家追討の為に上洛した木曾義仲の命令で京都守護の任に就いた武士団の中に村上太郎義国が参加しており、その後、後白河法皇と木曾義仲と対立した時に、義仲から離反した武将に、村上三郎判官がいる。又、一ノ谷に向かう源義経の軍には、村上次郎判官代基国が参陣し、鵯越の逆落としでは、村上基国が先人を駆けたと云う。この後、平家は壇ノ浦で滅亡するが、その中で、河野氏と連携する伊豫(伊予)の村上水軍が復活する。しかし、頼朝が死に、幕府の実権を北條家が掌握すると、陸の村上も、海の村上も逼塞することとなる。村上氏が復活するのは、元弘の頃、陸の村上は、反北條として大覚寺統に加担、護良親王と共に幕府軍と戦う(村上義光・義隆)。同じ頃、西国では、村上水軍が幕府勢力と対峙している。鎌倉時代には冷遇されていた村上水軍だが、元寇が、再び村上水軍に活躍の場を与えた(詳細は海の村上で触れる)。鎌倉末期から、村上一族は、一時、歴史にその名前を刻み込んだ。それでは一族の系図を紹介しよう。
 ★ 村上氏一族・伝説のルーツ
   『系図纂要』は、多少問題もあるが、『尊卑分脈』と『寛政重修諸家譜』の間を埋めるものであり、傍系系譜追跡のヒントとなる。記述には矛盾点もあるが、ガイドラインにはなりうる系譜である。
『尊卑分脈』は、成立が、他の基本系図より古く、一部の錯誤を除けば、信憑性の高い系譜資料である。多くの改竄系図は、この系譜の欠落部分に結びつけるものが多い。『寛政重修諸家譜』は、江戸時代の大名・旗本の公式系図と云っても差し支えないもので、関ヶ原合戦以降の部分は概ね信用出来る。
  戦国以前は、一部の名門大名以外は怪しい。村上氏の場合も、この三つの系譜と照合出来る部分はある程度信用してもよかろうと思う。村上水軍に関しては、混乱もみられるが、毛利家の関係資料の中で、江戸時代に関しては、毛利家に対し公式に提出したものとして、一定程度は信頼出来る。戦国時代に関しては、混乱しており、疑問な点も多々ある(『近世防長諸家系図綜覧』参照)。
  幕臣、及び、村上水軍村上家以外の村上氏に関しては、検証が困難だが、長野県埴科郡坂城の村上山満泉寺系図と照合出来る系譜に関しては、一定程度信頼出来ると、先達の研究からも考えられる。それ以外の系譜に関しては、過去帳や当時の古文書と整合するものに関しては、一応信じるしかないが、庶民の系譜の場合は、江戸時代に系図屋による創作や改竄があるので難しいところである。緒論に於いては、まず検証の根幹となる系図を紹介し、個別には、陸の村上と海の村上の項目で紹介する。一部記載の都合上重複が生じることはご理解願いたい。基本系図で見る限り、村上源氏説は、本論考で追跡のメインとした村上家の出自には採用しがたい(『分脈』の裏付けなし)。血脈はともかく、系譜上は、清和源氏源仲宗を事実上の始祖とする清和源氏説を採用したい(後期村上水軍に於ける北畠伝説は、養子に入った人物の出自の問題。異説もあるから断定は出来ない)。
(2008.8.4)
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村上氏一族伝説のルーツ・目次
1. 村上氏一族系図(1) (『系図纂要』)
2. 村上氏一族系図(2) (『村上海賊史』、『系図纂要』)
3. 村上氏一族系図(3) (『新訂増補國史大系 尊卑分脈』)
4. 村上氏一族系図(4)(『信濃村上氏基本系図』)
5. 村上氏一族系図(5) (『新訂寛政重修諸家譜』 村上氏) 
6. 村上氏一族系図(6)
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村上氏一族系図(1)
 
村上氏一族系図(1)
 
『系図纂要』は、陸の村上氏(戦国大名信濃村上家や、丹波村上家など)は、清和源氏に記し、海の村上氏(村上水軍村上家一族)は、村上源氏北畠家一族に記す(異説もあり、疑義あり)。村上水軍村上家は、清和源氏村上氏一族の伊予村上家に系図を繋ぐ。村上水軍村上家の系譜は異説も多く、正系を特定できない。村上三家の系譜も不整合な部分があり、謎が多い。北畠説に関しては、浪岡御所の伝説との絡みもあり、疑問な点もある。今後は、他の系譜資料と併せて検討する。
(2008.8.6)
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村上氏一族系図(2)
 
村上氏一族系図(2)
 
『村上海賊史』に掲載の「村上氏系図」を『系図纂要』と比較すると、不整合が生じる村上公一氏が示した系図では、村上師清と北畠顕成を同一人物とするが、『系図纂要』は、浪岡伝説との兼ね合いなのか、北畠顕成と村上師清を別人とする。但し『尊卑分脈』の「北畠氏系図」には村上義顕は掲載されていない。成立時期から考えると、『系図纂要』の「北畠村上氏系図」は、まるまるは信用できない。又、村上海賊の前身である伊予村上氏系図だが、『群書系図部集』の河野氏系村上系図と一部食い違う。従って、『村上海賊史』掲載系図は、基本系図や各種文献との照合抜きに、そのままでは信用できない。何カ所かの改竄の可能性を含んでいる。今後他の資料と併せて追跡する。
(2008.8.9)
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村上氏一族系図(3)
 
村上氏一族系図(3)
 
信濃村上氏の系図は、『尊卑分脈』に於いても混乱している。他の資料は押してしるべし。
戦国村上氏の系図は後述する。
(2008.8.18)
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村上氏一族系図(4)
 
村上氏一族系図(4)
 
『系図纂要』に於いては、戦国大名信濃村上氏と、丹波村上氏及び江戸幕臣村上氏のルーツが確認される。しかし、『尊卑分脈』や『寛政重修諸家譜』とは、必ずしも一致するものではない。基本系図においても食い違いが生じる。それだけ村上氏の系譜には謎が多いということである。従って、各地に伝わる村上系図は様々である(それについては、後述の「陸の村上氏」及び「海の村上氏」で触れる)。村上氏は、惣領権が嫡流に連綿と継承されたわけではないので、その点でも混乱がある。系譜からすると、戦国大名村上氏は、信濃村上氏一族の傍系と考えられる。『尊卑分脈』では、戦国大名村上家の祖である義國は、系図に記されていない。庶子のため、洞院家(『尊卑分脈』の編纂にかかわる)で掌握していなかったか、原本系図からも欠落か?『系図纂要』、『寛政重修諸家譜』、その他資料により村上一族と位置付ける。
(2008.8.20)
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村上氏一族系図(5)
 
村上氏一族系図(5)
 
寛政重修諸家譜』の幕臣村上氏の系譜は、『系図纂要』とは、若干異なる系譜である。又、村上一族伝来系図とも異なるようである。戦国大名村上家の系譜上の正統(山浦家、水戸村上家)家系では、村上義清の子に、村上義勝は記載されていない。義利は、他の系譜では、村上義清の兄弟に記したりして混乱している。一族傍系が、系譜を村上義清の系に繋げた可能性もある。或いは系譜に漏れた庶子の可能性もあるが、現状では、伝(自称).村上義清末裔・正系不詳とするのが妥当かも知れない。
(2008.11.4)
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