リポート集 その1 豊臣氏存続
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  扶桑家系研究所は、 所長早瀬の興味に基づき、 随時リポートを掲載する。 主なテーマは、 後南朝・異聞皇統と武将の系譜(特に戦国大名)研究。
   「尊卑分脈」、 「系図纂要」、 「群書系部集」、 「寛政重修諸家譜」、 「断家譜」、 「姓氏家系大辞典」、 「古代氏族系譜集成」などをベースに、 各種書籍、 雑誌掲載系図及び、 レファレンスにより入手の系譜により検討する。 基本系図資料に不整合・未掲載なものは、 基本的には偽系図と考える。 これは、 私見であり、 系譜学の権威・研究家の見解と異なる事もある。
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目次
1. 豊臣氏存続・謎々豊臣氏(豊臣氏存続伝承系図掲載) ※『豊臣氏存続』販売中。 
2. 南朝・後南朝・異聞皇統(『南朝興亡史』『消された皇統』参照。)『消された皇統』販売中。
3. 織田信長の系譜(推定織田氏一族系図掲載)(『織豊興亡史』参照。)(織田一族の系譜)(織田一族の系譜・パート2)(織田一族の系譜・パート3)(織田一族の系譜・パート4)(織田一族の系譜・パート5
4. 滋野氏と天狼の系譜(推定眞田氏系図掲載)(真田氏と天狼の系譜)
5. 淺井氏一族の系譜(浅井氏と近江浅井一族)(浅井氏の族葉)(浅井氏の族葉・パート2)(浅井氏の族葉・パート3)(浅井氏の族葉・パート4)(浅井氏の族葉・パート5)(浅井氏の族葉・パート6)(浅井氏の族葉・パート7)
6. 閑話休題
(
山本勘助)(山本五十六) (岡倉天心) (閑話休題パート2) (天璋院篤姫) (異聞歴史館別館)
(直江兼続) 
(閑話休題パート3)  (閑話休題パート4) 
7. 松永氏諸家系図(松永久秀)(松永貞コ)(松永国華)
8. 横井一族の系譜(横井時永の族葉)
9. 南朝北畠氏一族の系譜
10. 村上氏一族の系譜(村上氏千年興亡史)
11. 播州別所氏一族の系譜
12. 有馬氏一族の系譜
13. 幕末維新の群像(近代日本百五十年の系譜)
(武市半平太)(吉田東洋)(後藤象二郎)(中岡慎太郎)(坂本龍馬)(幕末維新の群像2)(谷千城)(田中光顕・那須新吾)(岩崎彌太郎)(幕末維新の群像3)(幕末維新の群像4)(幕末維新の群像5)
14. 菊池一族の系譜
15. 西郷氏一族の系譜
16. 平家伝説・揚羽蝶の系譜 (平家伝説序章) (平家伝説)  (平家伝説.パート2)
17. 建部・禰寝氏
18. 肥後氏一族(肥後氏・大隅肥後氏一族種子島氏の系譜)
19. 播州小寺氏一族(小寺氏・黒田氏一族)
20. 黒田氏一族(近江・播州・美作・筑前・薩摩)
21. 本居・小津氏一族の系譜
22. 玉木氏・杉氏・吉田氏一族の系譜(杉文久坂文楫取美和子関係系図)
23. 伊丹氏一族(摂津伊丹氏、播磨筑前伊丹・黒田・加藤氏、甲州徳美藩主・幕臣伊丹氏)
24. 山中氏一族播磨出雲摂津)(山中鹿介
25. 美濃明智氏一族の系譜(明智光秀・惟任光慶・細川ガラシャ)
26.
27.
28.
※ 異聞歴史館別館は現在工事中です(一部公開)。
※ 各リポート掲載系図の複製・転用を禁ず(企画・作成・著作権は、扶桑家系研究所に帰属します)。
当研究所特別顧問千田氏(HP運営補佐)の指摘により、2007年6月25日より、公式に宣言布告します。
上杉家は、藤原氏の流れを汲む名門だが、戦国時代を乗り切れず、山内上杉家は越後に逃れ、越後守護代の長尾景虎(後の上杉謙信)に関東管領職と上杉の家名を譲り、越後長尾家が関東管領上杉家となった。上杉家は、御館の乱の後、謙信の甥の上田長尾家の景勝が正式に上杉謙信の家督を継承した。その上杉景勝を支えたのが、天下の陪臣直江兼続である。ところが肝心の直江家の系図がハッキリしない。戦国末期に混乱したのか途中が欠落している。その結果、出自未詳であるのに藤原京家末裔に系を繋げたのであろうか?藤原姓の武将も、地方豪族や古代氏族の末裔の可能性もあり、判然としない。直江氏もそういう一族なのであろうか?
ポート その1 豊臣氏存続
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 【扶桑家系研究所リポート1】
『豊臣氏存続・謎々豊臣氏』
豊臣氏存続系図 桂説の問題点  豊臣秀吉のルーツ(先祖系図) 豊臣氏存続 大豊臣氏系図 大豊臣氏系図2
  豊臣氏は、 通説では、 慶長20年(大坂夏の陣の後、 元和に改元)4月29日、 和泉で豊臣軍と幕府軍(徳川方)が交戦し、 大坂夏の陣の前哨戦が始まり、 5月8日、 大坂城炎上、 淀殿・秀頼母子が自刃、 更に5月23日には秀頼嫡男国松が京都で処刑され、 滅亡した事になっている。 しかし、 これは大いなる誤解のなせる事でその後も豊臣氏は存続したのである。 大坂夏の陣で滅亡したのは、 大坂豊臣家(豊臣姓羽柴家・秀吉流)のみである。 * これには異説があり、 前川和彦氏の 「豊臣家存続の謎」 に詳しい。
 
  京都には、 高台院流豊臣家(賜姓豊臣吉子家・一萬六千石)が健在であり、 第二豊臣家(杉原流豊臣姓木下家)も健在であった(豊後日出藩三萬石があり、 大坂夏の陣の後、 備中足守藩豊臣姓木下家も大名に復帰する)。 又、 豊臣智子も出家はしているが健在であり更には、 豊臣秀勝家も男子は無く大名家としては消滅したが、 その娘の豊臣完子は健在であった(九条家に嫁す)。 又、 羽柴授姓の豊臣氏も公称は停止したが、 授姓の当人がなくなるまでは、 密かに私称(表向きは本姓復帰、 或いは、 松平授姓により松平を称す)した様である。 又、 津軽家家臣(弘前藩士)の杉山家は、 石田三成の子孫で、 豊臣姓を内伝したという(青森県の郷土史家の田澤正氏の論考「石田三成の子孫は生きていた」 1994年 「歴史群像6月号[学習研究社]」)。
 
  豊臣氏は、 ピーク時に三十余家が存在し、 徳川家康が覇権を掌握を握ると、 暫時、 豊臣姓羽柴家名の公称を停止するが、 高台院流豊臣家と第二豊臣家は、 旧姓復帰せず、 本姓豊臣氏を維持した。 この家系は、 明治の本姓家名統一登録まで豊臣氏を維持した。 江戸幕府は、 豊臣姓の存続を承認し、 「寛政重修諸家譜」 にも、 「豊臣氏」 と記載されている。 大名二家と旗本家の豊臣家定末裔各家が、 豊臣氏として存続した。 大名家は、 明治に華族制度が創設されると、 子爵に叙された。 太平洋戦争終結後、 華族制度が廃止され、 旧華族により霞会館が創立されると、 会員に登録されている。 近代系譜は、 「平成新修旧華族家系大成(霞会館.編、 吉川弘文館)」 により確認出来る。 又、 豊臣家(秀吉流)の男系は歴史上から消え去ったが、 豊臣秀次の女系と、 豊臣秀勝の女系(共に豊臣秀吉の養子にして、 甥の家系)は、 櫻井成廣氏(元青山学院大学名誉教授・故人)の研究により存続した事が確認されている(「河出人物読本 豊臣秀吉」 掲載 「現存する豊臣氏の血統」参照)。
 
  豊臣氏というと、 イコール豊臣家(秀吉の家系)という事で、 大坂夏の陣で滅亡という事になっているが、 秀吉の孫娘(諱不詳)は処刑は免れ、 秀頼の元正室の千姫の養女格で、 鎌倉東慶寺へ入れられ尼(天秀尼)となり、 後に、 東慶寺の住持となる。 国松も、 当人は処刑されず、 駿河の僧侶が引き取り弟子にしたという伝説もある。 或いは、 前川氏の著書に記された(元は、 豊後日出藩主家の一子相伝)ように、 薩摩から日出に逃れ、 初代藩主の実子に化け、 後に分家立石領主(寄合旗本)として生き延びたという説もある。 そうなると、 秀吉の家系は、 第二豊臣家の中に紛れ込み存続した事となる。 更には、 秀頼も大坂城を脱出して九州(薩摩)に逃れ、 庶子をもうけ、 その一人が、 島原の乱の首魁の天草四郎という。
 
  本名羽柴天四郎秀綱という(「続・豊臣家存続の謎・天草四郎・島原決起の謎」)。 秀頼の死が正式に確認されたわけではなく(推定死亡)、 当時の宣教師らの間でも、 逃亡説が語られていた点から、 直ちに排除はできないであろう。 日本歴史研究所の木村信行氏の著書によれば、 江戸山王神社の神職樹下家の先祖は、 伊集院氏(薩摩の豪族)に匿われた秀頼の庶子らしい。 こうして見てみると、 単なる伝説もあるが、 豊臣氏は、 確かに江戸時代も存続したのである。
(2005.10.4) (随時更新)
豊臣秀吉---秀頼---国松(処刑)(豊臣家滅亡)       【通史】
豊臣秀吉---秀頼---国松(豊臣秀勝・木下縫殿助羽柴延由・木下縫殿助豊臣延由・木下延次)---延知---重俊---榮俊---俊徳---俊昌(豊後立石領主五千石)(木下家一子相伝・豊臣家存続の謎)
豊臣秀吉---秀頼---天四郎(羽柴天四郎秀綱・天草四郎時貞)(続豊臣家存続の謎) 
豊臣秀吉---秀頼---時忠(木場時忠)---貞時---貞幹---貞道---(木場家一子相伝) 
豊臣秀吉===秀次---仙千代丸(処刑・絶家)   豊臣秀吉===秀次---隆清尼---三好幸信---隆長 
豊臣秀吉===秀勝(小吉)---完子---九条道房---慈雲院---九条輔実 
豊臣吉子===利次(豊臣利次・木下利次)---利値===秀三===秀就===利意(近江木下家三千石)
(2006.1.7.更新)
豊臣秀吉===秀勝(於次・織田信長の息子)(無嗣絶家)
(2006.1.8.更新)
豊臣秀吉===秀勝(小吉)---完子---九条道房---逸姫---浅野綱長---吉長---宗恒---重晟---齊賢
豊臣秀吉===前子(近衛前久娘)---後水尾天皇---明正天皇  豊臣秀吉===八条宮智仁親王---智忠親王
豊臣吉子===辰子(大館御前・石田三成娘)---津軽信義
豊臣秀吉---秀頼---久尚(伊集院式部)---久眞---成眞(樹下民部)===資信---永成(江戸山王社神職)
(2006.1.13.更新)
(つづき)
   豊臣家が大坂の陣で滅亡(慶長20年、 後に元和元年と改められる[1615])とされるのは、 豊臣秀吉の一家(当時は、 豊臣秀頼家)のみが豊臣家(豊臣氏)と、 歴史上で扱われているからである。 大坂で滅びたのは、 豊臣氏の総帥家(宗家・氏の長者)であり、 第二豊臣家(豊臣吉子家や杉原流豊臣氏木下家)は健在であったし、 公称は停止していても、 隠れ豊臣氏は存続していたのである(豊臣姓杉山氏など)。 (前述参照)
 
   徳川家に従う大名の中にも、 旧姓・家名或いは、 徳川より与えられた松平姓(正式には家名)を称しながらも、 本領では、 代替わりまで(初代藩主或いは初代当主)、 豊臣姓を密かに称した者もいる。 大名の真田家は、 「寛政重修諸家譜」 によれば、 本姓滋野氏・家名真田であるが、 関ヶ原以前には、 真田信幸(信之)も、 真田信繁(幸村)も豊臣氏であった。 これは、 叙任する武家は豊臣氏という、 秀吉の疑似一門政策と関係がある。 秀吉は、 有力大名だけでなく、 気に入った陪臣には豊臣姓を許している。 上杉景勝の重臣の直江兼続などは、 この例であるし、 龍造寺政家の重臣の鍋島直茂なども同じケースである。
 
   真田家は、 家康幕下となるが、 昌幸は、 秀吉の直臣となり、 信繁は父親に同道し、 信幸は、 家康の許で大名となる。 真田兄弟の豊臣姓は、 任官の時点(文禄3年=1594)に許されたものらしい(「真田一族」 相川司、 新紀元社、 P.117〜118参照)。 兄の真田信幸(信之)が、 何時の時点で豊臣姓の公称を停止したかは確認していないが、 幸村は、 討ち死にまで豊臣姓を併称(滋野・豊臣)したのではなかろうか(あくまで推測だが・・・)。 幸村は、 浪人であったが、 父親を継承した元大名という待遇で迎えられたという。 疑似一門豊臣氏の生き残りということか?(真偽は不詳)
 
   ところで、真田幸村には九州への逃亡説がある(あくまで伝説の一つ)。秀頼も九州へ逃亡したという伝説がある。大坂城落城後も、第二豊臣家が存続しており、少なくとも、 大坂豊臣家の滅亡で、 豊臣氏が一斉に消滅した訳ではない。 伝説の豊臣家末裔は、 そのルーツが九州にあるという点(立石羽柴家、薩摩木場家、薩摩伊集院樹下家)からも、 簡単には否定できない。これらを勘案すると公式にも、 非公式にも豊臣氏は存続したと言えるのではなかろうか(前記略系図参照)。 実際、 大名・旗本としては、 「豊臣氏」が存続したのは周知の事であり、 「寛政重修諸家譜」 で確認されるし、 前川氏の一連のルポでも知られ、私の『織豊興亡史』 (今日の話題社)でも触れている。 又、 新刊『豊臣氏存続・豊臣家定とその一族』 (今日の話題社)(平成18年6月刊行)でも明記している。 又、 豊臣家の血統という点については、 櫻井成廣氏(青山学院大学名誉教授・故人)が、 かなりの部分解明されておられる(女系血統)。
 
 
   豊臣氏が、大坂の陣で滅亡したが如く伝えられるのは、 氏と家名(苗字・名字)を混同している事が原因である。 日本では姓氏家系の研究は、 歴史学の中では、 偽系図という見方が強いのか、 学問体系の中に姓氏学とか系譜学というジャンルはない。 ほとんど在野で研究されているというのが実情。 太田亮博士、 その系譜を受け継ぐ丹羽基二氏(日本家系図学会会長)などにより系図関連図書が刊行されているが、 歴史学者は重視しないのか、 著名な学者の本の参考系図でもひどいものがある。 そういう現状では、 従来の認識は訂正されぬまま教科書などでも紹介されているという現状がある。 豊臣氏は、 その後も存続し、 姓氏・名字が戸籍表記で一本化されるまで時代を生き抜いたのである。
 
  秀吉の病没と関ヶ原合戦での西軍の敗北により、 武家の棟梁・豊臣氏と疑似一門の豊臣氏が崩壊すると、 三十家以上の豊臣氏は、 歴史の表からは消えて行くが、 完全消滅せずに生き延びたという事である。 若しもというのは歴史には禁句だが、 秀吉が秀頼のみに目を向けず、 豊臣家一門全体の隆盛を考えていたら、 違った形で広がりを見せたかもしれない。 養子関係であっても、 秀勝・秀次・秀長家は存続したかもしれない。 若しかしたら、 小早川秀秋も豊臣秀俊として、 実子がなくても養子を迎えて一門豊臣家を存続していたかもしれない。 となれば関ヶ原の合戦は違った展開になったであろう。 宇喜多秀家も秀吉養女豪姫の婿として、 又、 秀吉の猶子として、 豊臣秀家家を存続させていたかもしれない。 現実には、 豊臣疑似一門は崩壊した。 しかし、 豊臣氏は、 江戸時代を生き抜いたのである。
(2006.2.16)
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【史実と伝説・豊臣氏存続系図】
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(2006.2.19)  ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
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桂説の問題点
桂説に於いては、桂家は、時国家を介して豊臣家に繋がると主張するが、まず時国家と桂家の繋がりについて、入手できた時国家の資料(提供資料含む)では、桂家は、分家や姻族に登場せず、繋がりが立証されない。この点は、『豊臣氏存続(今日の話題社)』でも触れている。又、日本歴史研究所の木村信行氏の著書『南朝熊沢家と淺井・豊臣の謎』でも指摘されている。又、上記の系図を閲覧された木村氏から、3.18にメールが届き、桂説は創作であると指摘された。確かに秀頼の系譜に時国家は登場しないし、豊後日出藩主豊臣姓木下家の系譜でも、立石領主初代木下延由(前川ルポでは、豊臣国松)の弟に、時国家に養子に入った人物は不記載である。日出藩主と立石領主の系譜は、『寛政重修諸家譜』や『系図纂要』でも確認出来るが、桂氏の主張は何ら裏付けられない。木村氏が創作と指摘される事(『南朝熊沢家と淺井・豊臣の謎』p.248以降の「桂家と良寛」参照)は、私には納得できる事である。又、豊臣氏の存続を追跡された前川和彦氏の著書(『豊臣家存続の謎』、『続・豊臣家存続の謎』、『秀頼脱出』)に於いても、時国家や桂家は登場しない。前川氏は、木下家から提供資料のみならず、現地調査もされて、続編も刊行されているが、続編に於いても、「時国家・桂家=豊臣家説」は登場しない。それ以外に、日出藩士が編纂した木下家の関係資料の系図にも、豊後日出藩主豊臣姓木下家から、時国家や桂家に養子に行った人物は確認されない。自家の系譜は書き換えられても、相手(この場合は、豊臣一族・豊臣姓木下家)の系譜は書き換えられないという事で、系譜の比較検証という視点からは、否定的な答えしか見いだせない。
(2006.3.19)
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『秀吉のルーツ(ご先祖様は何者?)』
 
豊臣秀吉の先祖系図 
 ※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
   豊臣秀吉は、通史では、貧しい百姓の木下弥右衛門の息子で、その先は明らかにされていない。しかし、江戸時代に編纂の『塩尻』では、昌盛法師まで遡って系譜が記され、『尾陽雑記』の一本系図にも類似の系図が掲載されている。太田亮氏の編纂した『姓氏家系大辞典』でも紹介されているにも関わらず、著名な学者の著書でも、弥右衛門、秀吉、秀頼と紹介し、その先を明記していない。しかし、鈴木真年や、中田憲信などの調査系譜などをベースに編纂された『古代氏族系譜集成(宝賀寿男著、古代氏族研究会)』では、更に遡った系譜も紹介している。それらによると、秀吉のご先祖様は、近江の出身らしい。還俗した昌盛法師が、秀吉家の初代という事になる。一説に、木下姓は、昌盛法師の岳父の木下高泰(越中守)に由来すると伝える。それに対して、異なる説が、宝賀寿男氏により明らかにされる。昌盛法師の岳父は、尾張中村の住人の弥五右衛門(本姓・家名不詳)であるという。そうなると、木下姓の理由は、不明となり、根拠を失う。地名により、「中村」とも称すというが定かではない。しかし、水飲み百姓というような立場ではない。有姓百姓、或いは元々は非農民という可能性もある。鍛冶・金属師の可能性も無視できない。出身地の近江は、鍛冶・金属師・産鉄氏族に縁が深く、その末裔の可能性もある。ある系譜では、国友村とも関係あるよう記している。叡山をフィルターとして、表の世界に出現した秀吉の系譜には、まだまだ隠された謎があるのであろうか。
(2006.6.7)
『豊臣氏存続・豊臣家定とその一族』は、今日の話題社より刊行。
 
豊臣氏三つの流れ
第一豊臣氏 賜姓豊氏家(秀吉を初代とする): 秀吉とその一門(大坂豊臣家)。大坂夏の陣で滅びる。
第二豊臣氏 賜姓豊臣家(高台院を初代とする): 高台院とその一族(京都豊臣家・杉原流木下家)
※ 杉原流木下家の豊臣氏は、家定を初代とする。※ 高台院流豊臣氏は、高台院没後家禄没収、二代目からは、家名は木下で、杉原流木下家別家扱いである(近江木下家)。『豊臣家存続(前川和彦、日本文芸社)』は、杉原流の日出藩木下家の分家の立石木下家(羽柴家)の初代が、大坂豊臣家の国松と主張。
第三豊臣氏 疑似一門豊臣氏(秀吉より豊臣姓を許された大名、有力陪臣): 徳川家康が天下を掌握すると暫時消滅(公称停止)。津軽の伝承では、杉山家も豊臣姓を内伝。
  著作第五弾、隠された豊臣氏の歴史
  『豊臣氏存続・豊臣家定とその一族(早瀬晴夫著、今日の話題社)』

 ● 豊臣氏は、秀吉の家系だけではない。

 ● 豊臣家は存在せず。

 ● 秀吉の家名は羽柴。

 ● 豊臣氏存続と豊臣家存続の謎。
レイアウト協力 : 萬小葉
平成18年(2006)6月14日、今日の話題社より刊行。扶桑家系研究所でも販売中。
 豊臣氏存続のトップへ移動 大豊臣氏系図 豊臣氏存続系図 大豊臣氏系図2
異聞歴史館・館内講習(豊臣氏の謎)
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臣氏存続(豊臣氏の謎)
秀吉の出自と秀吉没後の豊臣氏
 
豊臣氏の謎=豊臣氏は、戦国末期(織豊時代=安土桃山時代)の天正14年(1586)12月(一説.天正13年9月)に、後陽成天皇(天正13年なら正親町天皇)より、秀吉に下賜され創氏された。即ち、秀吉が豊臣氏第一世にして、賜姓豊臣氏(豊臣朝臣羽柴家)初代当主である。秀吉が豊臣氏となったことで、羽柴家一門は、本姓豊臣となる(実際には羽柴姓を許された一門のみが、公式の時に豊臣朝臣=豊臣氏を称す)(秀吉の家族と養子・養女)(豊臣秀長の養子の高吉=後の藤堂高吉は、羽柴姓のみで豊臣氏は許されていない)。天正16年(1588)4月、北政所豊臣寧子は、朝廷より豊臣吉子の氏名を賜る(第二の賜姓豊臣氏・豊臣朝臣)。 
豊臣氏は秀吉によって始まったが、その出自は定かでない。秀吉は水呑百姓の息子と喧伝されているが、事実か? 答えはノーである。『武功夜話』は、村長(むらおさ)の息子と主張する。父親の弥右衛門が雑兵でなく元足軽なら、有姓百姓の可能性が考えられる。
『古代氏族系譜集成』という系図資料では、木下国吉(昌盛法師)の子孫と記し、同書の異伝系譜では、尾張中村に移ってからは、中村姓で、弥助或いは弥右衛門を称したと記す。同様の系譜は、江戸時代に書かれた『塩尻』にもあり(『姓氏家系大辞典』に掲載)。又、『尾陽雑記』にも別本系図として同様の系譜が掲載されている。
この系譜は、少し形を変えて、フィクションも交えて『絵本太閤記』などに登場する。
中村弥助昌盛−弥右衛門昌高−弥助昌盛(筑阿弥)(妻・持萩中納言保廉の女)−日吉丸(豊臣秀吉) 
松下加兵衛之綱(ゆきつな)に仕え、 天文22年(1553)春、 元服、 中村藤吉郎高吉と名乗ったことが記されている。 天文23年(1554)、 尾張に戻った藤吉郎は縁を頼って(「太閤記」 は、 がんまくと一若)信長の小者(雑用係)となる。 永禄4年(1561)、 足軽弓頭浅野又右衛門長勝の養女の
「ね」と結婚する。 このころ、 秀吉は、 木藤(木下藤吉郎)と称したらしい(木下姓の復活か)。 永禄8年(1565)、 美濃攻略の為、 鵜沼の大沢基康らの寝返り工作を図るが、 この時に、 知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)に、 木下藤吉郎秀吉と署名しているので、 足軽組頭になるまでには、 正式に木下姓になり、 木下藤吉郎秀吉となったものであろう。 「古代氏族系譜集成」 によれば、 浅井氏出身の昌盛法師が、 還俗して木下高泰の婿となり木下国吉と称したとする。 浅井氏は、 藤原氏正親町三條家の庶流を称していたので、 父や祖父の弥助や弥右衛門ではなく藤吉郎と名乗ったのであろう。 * 秀吉が仕えたのは、 松下加兵衛の父の加兵衛長則だったらしい(小和田哲男)。
秀吉の御先祖様は近江の出身か? 国会図書館の資料より作成された系譜(『古代氏族系譜集成』、『南朝熊沢と浅井・豊臣の謎』)によれば、近江浅井氏の出身で、浅井重政の息子(忠政弟)、或いは孫(忠政の甥)の昌盛法師(木下長左衛門・中村弥助国吉)を初代とする。昌盛法師は、比叡山西塔学林院で出家。延徳元年(1489)還俗、木下越中守高泰の婿となる。後に尾張国中村に移るとある。国吉・吉高・昌吉・秀吉と「吉」を通字とする。秀吉の先祖は、散所の長(山の民・闇の一族)か金属師(鍛冶師)の可能性がある。(中央公論新書 「豊臣秀吉(小和田哲男)」 P.48〜60)
異伝として、秀吉が織田家に仕える前、近江国浅井郡草野郷中村(浅井町草野)の鍛冶屋源兵衛の徒弟という説がある。先祖の国吉(昌盛法師)は、近江国浅井郡の出身で、非農民(鍛冶師・山の民)の可能性が高い。(長浜の郷土史家からの小和田氏の聞き書き)
弥右衛門が鉄砲足軽という事は、 実際は不可能だが、 鍛冶師として従軍、 火器の開発中に負傷したとも考えられるし、 村長として足軽部隊に加わり負傷したとも考えられる。
秀吉が非農民の系譜というのは、母親の大政所の系譜からも推察される。通説は御器所の百姓の娘とされるが、異説では御器所の神主の娘とか、美濃の鍛冶師の文殊系関兼貞の娘とする説がある。関一族の系譜は、国立国会図書館などの資料により編纂された『古代氏族系譜集成』にも掲載されている。従って、秀吉のルーツは父方・母方共に百姓ではなく鍛冶師(金属師)、或いは木地師・闇の民(山の民)の可能性が浮上する。補完する材料としては、加藤清正の父親は、大政所の血縁で、美濃斎藤家を離れた後は鍛冶屋になったと云われる。又、お禰の実家の杉原氏は、大政所の一族と縁戚とする説(系図)もある。(「別冊歴史読本」 1989.6)(「古代氏族系譜集成」)
秀吉の木下姓をお禰の実家の姓とする説があるが、お禰の実家は、父方も母方も杉原氏であって木下ではない。母の朝日は杉原氏で父の助左衛門(道松)を木下氏とする歴史雑誌もあるが、系譜資料では、道松は杉原氏傍系或いは林氏であって木下ではない。木下祐久との混同による誤伝である(谷口克広氏の研究で没年などで疑問が指摘されている)。(『豊臣氏存続』P.55〜66参照)
秀吉の木下姓は、先祖の昌盛法師(木下国吉)に由来、没落時代の中村姓からの復姓と考えられる。杉原家定が何時から木下と称したかは定かでないが、恐らくは秀吉が『羽柴氏』を称した長浜時代からではないかと推察される。
豊臣氏の謎
豊臣氏は、 一時期は、 三十以上の大名・有力陪臣が称した。
二人の賜姓豊臣氏 1. 天正13年(1585)7月、 秀吉関白任官。 賜姓.豊臣氏(豊臣秀吉)翌年正式に豊臣姓を賜るとの説が知られている。
    2. 天正16年(1588)4月、 北政所寧子(お禰)、 豊臣吉子の氏名を賜る。
北政所は、 秀吉の生前より女大名? 文禄元年(1592)、 摂津で一萬石余の所領を与えられ、 文禄4年(1595)には、 一萬五千六百七十二石余。 慶長4年(1599)、 大坂城を出て、 京の三本木に移り、 京都豊臣家を創家(後の高台院流豊臣家=京都羽柴家流豊臣氏)。
1. 秀吉の出自(ルーツ)
  秀吉は、 本当に水呑み百姓の息子か?
  秀吉のご先祖様は近江の出身?
2. 豊臣氏誕生(羽柴家本姓の変遷)
  無姓羽柴家→平姓羽柴家→藤原姓羽柴家→豊臣姓羽柴家(いわゆる秀吉流豊臣家)
  藤原姓羽柴家(関白任官)→賜姓豊臣氏(豊臣姓羽柴家)(五摂政関白家と並び関白に任官)
3. 豊臣氏一門の瓦解
  ● 養子の除籍・謀殺による一門の縮小。
  ● 秀長の死去と大和大納言家の廃絶。
4. 秀吉没後の豊臣氏
  豊臣氏は大坂夏の陣で滅亡したか?
5. 豊臣家は無かった(豊臣家は存在せず)
(講習会企画: 異聞歴史館)
(協力:日本家系図学会扶桑支部)
   
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『豊臣氏存続』 (秀吉の出自と秀吉没後の豊臣氏)
豊臣氏の謎
   
豊臣氏は、 一時期、 三十以上の大名・有力陪臣が称した。 (「豊臣氏存続」 P.177〜181)
   
メモ
羽柴筑前守のち羽柴加賀中納言豊臣利家(前田利家)、 羽柴筑前宰相隆家(小早川隆家)、 羽柴備前中納言豊臣秀家(宇喜多秀家)、 羽柴結城少将豊臣秀康(結城秀康)、 羽柴岐阜中納言豊臣秀信(織田秀信)、 羽柴越後中納言豊臣景勝(上杉景勝)、 羽柴丹後少将豊臣忠興(長岡忠興) 他
二人の賜姓豊臣氏 1. 天正13年(1585)7月、 秀吉関白任官。 9月、 賜姓.豊臣氏(豊臣秀吉)。 翌年(天正14年)12月に豊臣姓を賜るとの説が知られる。
    2. 天正16年(1588)4月、 北政所寧子(お禰)、 豊臣吉子の氏名を賜る。
   
メモ
北政所となって二年間は、 秀吉の賜姓に連動した豊臣姓(豊臣寧子)。 天正16年以降は、 賜姓による豊臣姓(豊臣吉子) * 賜姓(天皇より姓を賜る事)
北政所は、 秀吉の生前より女大名? 文禄元年(1592)、 摂津で一萬石余の所領を与えられ、文禄4年(1595)には、 一萬五千六百七十二石余。 慶長4年(1599)、 大坂城を出て、 京の三本木に移り、 京都豊臣家を創設(後の高台院流豊臣家=京都羽柴家流豊臣氏)。
   
大坂城は、 秀頼母子とその側近が支配。 家康が、 北政所退転後、 西の丸に入り、 政務を見た。 この段階で、 北政所は、 新たな豊臣家を創設し、 大坂とは一定の距離をとる。
大坂では、 親徳川と反徳川(武断派と文治派、 近江派と尾張派にもたとえられる)の対立。
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1. 秀吉の出自(ルーツ)
  秀吉は本当に水呑み百姓の息子か? (NO)
   
太閤記などによれば、 父の弥右衛門は、 鉄砲足軽で戦場の怪我がもとで帰郷したと云われる。 鉄砲足軽という点は疑問だが、 雑兵ではなく足軽なら、 有姓百姓も、 配下の農民を引き連れて参戦するので、 弥右衛門も有姓百姓の可能性がある。 (この時代は、 兵農未分離) ※ 「武功夜話」 によれば、 秀吉は村長の息子らしい。
     
  秀吉のご先祖様は近江の出身?
国吉(昌盛法師)→生国江州浅井郡。 山門住侶。 還俗後移尾張国中村(「塩尻」)
国吉−吉高(中村弥助・弥右衛門)−昌吉(弥助・弥右衛門)−秀吉(日吉丸)(豊臣秀吉)
(同様の系図は、 「尾陽雑誌」 の別本秀吉系図として掲載されている)
国会図書館の系譜資料にも同様の系譜があり(「古代氏族系譜集成」 に転記掲載)。
昌盛(長左衛門国吉)は、 木下高泰の婿(妻方の木下を称する)。 尾張移転、 帰農後は、 中村を仮称した可能性あり( 「豊臣氏存続」 P.247〜252 )。 (昌盛は、 浅井重政の息子?)
木下高泰昌盛(木下長左衛門国吉)−吉高−昌吉−秀吉(豊臣秀吉)−秀頼−国松(秀勝)
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2. 豊臣氏誕生(羽柴家本姓の変遷)
  無姓羽柴家→平姓羽柴家→藤原姓羽柴家→豊臣姓羽柴家(いわゆる秀吉流豊臣家)
  藤原姓羽柴家(関白任官)→賜姓豊臣氏(豊臣姓羽柴家)(五摂政関白家と並び関白に任官)
   
天正元年(1573) この頃、 木下姓より羽柴姓に改姓。 (旧浅井氏領を賜り大名となる)
天正2年(1574) 長浜城築城。 この年、 筑前守を名乗る(羽柴筑前守秀吉)。
天正4年(1576) 石松丸羽柴秀勝没(初代秀勝)。 [本光院朝覚居士]
天正6年(1578) この頃、 信長四男於次丸、 秀吉養子となる(於次丸羽柴秀勝)(二代秀勝)。
天正9年(1581) 池田藤三郎(恒興の子、 輝政の弟)、 秀吉の養子となる(平朝臣羽柴長吉)。
天正10年(1582) 6月2日、 本能寺の変。 6月13日、 秀吉軍、 山崎の合戦で明智軍を撃破。 9月12日、 羽柴秀勝(於次丸)が、 大徳寺で信長の百日法会を行う。 10月3日、 従五位下・左近衛少将に叙任(公卿補任)(朝廷より直接叙任)。 10月15日、 秀吉、 京都大徳寺で秀勝と共に信長の葬儀を行う。
天正11年(1583) 4月、 賤ヶ岳(4/21)・北庄の戦い(4/24)で柴田軍を撃破、 勝家自刃。 勝家 (平朝臣) と同盟する織田信孝は、 織田信雄軍に岐阜城を包囲され降伏、 知多郡内海 に送られ自刃す。 5月7日、 朝廷が勅使を長浜に派遣、 戦勝を祝す。 5月21日、 徳川家康が石川数正を使者として派遣し戦勝を祝す。 その後、 旧大坂城主の池田恒興を大垣城主にして、 大坂城を摂取。 6月2日、 京都大徳寺で信長の一周忌の法要を営む。 この年、 従四位下・参議に叙任。 11月、堀秀政に羽柴姓を与える(平朝臣羽柴氏)(「多門院日記」)(羽柴授姓)。
天正12年(1584) 於禰の甥の辰之助、 秀吉の養子となる(羽柴秀俊)(後の小早川秀秋)。 (平朝臣) 4月、 この頃、 三好信吉(秀吉甥)、 羽柴姓を許される(羽柴授姓)。 この年、小牧・長久手の戦い(初戦では、 三好信吉のミスで敗れ、 池田恒興戦死)。 11月12日、 織田信雄との講和に成功、 その後家康とも講和。 11月22日、 秀吉は、 従三位・権大納言に叙任(平朝臣羽柴秀吉)。 12月、 この頃、 徳川家康の次男の於義丸が秀吉の養子となる(羽柴秀康・豊臣秀康・結城秀康)。
天正13年(1585) 3月10日、 秀吉、 正二位・内大臣に叙任。 7月11日、 近衛前久の猶子とな(藤原朝臣)り、 従一位・関白に叙任し、 姓を「平」(平朝臣羽柴秀吉)から「藤原」(藤原朝臣羽柴秀吉)に改める。 閏8月、 羽柴秀次(三好信吉)に近江四十三萬石を、 羽柴秀政(堀秀政)に越前北ノ荘(北ノ庄)二十九萬石を与える。 9月、 秀吉は朝廷に対し、 「豊臣姓」の下賜を奉請。 この直後に賜姓との説あり。 (押小路文書) 12月羽柴秀勝(織田於次丸)没。 秀吉の養子の羽柴長吉、 従五位備中守に叙任(「系図纂要」)、 一萬石を領す(後に羽柴家離籍)。
天正14年(1586) 正月14日、 宮中に参内、 黄金の茶室を持参。 この時、 六の宮(八條宮智仁親王)と初対面(その後、 秀吉の猶子となる)。 この間、 近衛前久の娘も養女となる。 10月26日、 家康大坂に入り、 翌日大坂城で正式に秀吉に臣従する。 12月16日、 秀吉の養女前子(近衛前久の娘)、 女御に入内。 12月19日、 秀吉、 太政大臣に任ぜられ、 正式に豊臣の姓を賜る(豊臣朝臣羽柴秀吉・賜姓豊臣氏初代)(「公卿補任」)。 名実共に 「豊臣氏」 及び 「大坂豊臣家」 が成立する。 この頃、 八條宮、 秀吉の猶子となり、 同年、 養子の於義丸が元服し、 羽柴秀康となる(豊臣朝臣羽柴秀康)。
   
1. 羽柴家(無姓)→本姓不詳。
2. 羽柴家(平姓)→信長の息子を養子にして以降、 信長にあやかり平姓を僭称(天正6年頃)。
3. 羽柴家(平姓)→本能寺の変後、 朝廷より直接叙任(従五位下・左近衛少将)頃より。
4. 羽柴家(藤原姓)→近衛前久の猶子になって以後(関白・内大臣時代)。
5. 羽柴家(豊臣姓)→関白・太政大臣となって正式に豊臣姓を公表・宣伝(天正14年12月)。
  
『豊臣氏誕生の謎』
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豊臣氏(ここでは便宜上『豊臣家』とする)の成立は、秀吉が近衛前久の猶子として藤原氏となり、五摂家内の関白継承争い(関白二條昭実VS左大臣近衛信輔)に介入し、自らが関白となり、その後、百姓の子と云われた秀吉が、藤原姓ではしっくりこないという思いもあり、大化改新に功績があった中臣鎌足が、藤原姓を賜った例に習い、新しい姓を賜る事(賜姓)を朝廷に奏上し、豊臣姓を賜った。公式には、翌年の太政大臣就任の時期に賜姓されたという形をとり、天正14年(1586)12月に正式に豊臣家が成立、ここに秀吉を第一世・初代とする賜姓豊臣氏(豊臣朝臣)が誕生した。実はここに大きな謎がある。
藤原氏嫡流の摂政関白家(摂関家)は五家存在する(五摂家=近衛・鷹司・九條・二條・一條)。その中で、何故秀吉は近衛家を選んだか?  次期関白候補者の左大臣近衛信輔の地位(関白候補)を保証して内大臣から左大臣を経ずに関白に就任したが、その際に近衛前久の猶子となり、信輔を藤原秀吉の舎弟とした。それは、本能寺の変と朝廷及び近衛前久のかかわりである。当時信長は、提携する大名の領地も含めれば、備前・丹波から越中・信濃・上野の一部・甲州・駿河までを直接・間接に支配し、 事実上の天下人となっていた。信長は、天正6年(1578)に右大臣と右近衛大将を返上し、その後朝廷からの任官を受けていない。朝廷にとっては不気味な存在である。信長は、かつて将軍からの副将軍や管領への就任要請を断り、将軍を越える権力を握った。今回もそういう危惧があった。
正親町天皇の後は、誠仁(さねひと)親王が継承し、その後は親王の一宮(後の後陽成天皇)が即位するのが順当な流れであるが、信長は親王の第四子五宮(手持ちの系譜では未確認)を猶子としたので、親王宣下を強要し、その後この宮を皇位継承権者として擁立するなら、朝廷は重大な局面を迎えることになる。朝廷は信長の要求を拒絶することはほぼ不可能。もし拒否すれば、朝廷そのものも廃絶される危険があった(信長は安土城の城域に寺を立て、そこに石を置いて信長の化身として参拝させたという。信長は既製の権威を越える神に成らんとした。又、城域に御殿を建て、天皇を迎え入れようとした可能性がある)。信長を抹殺するには、織田軍団が各地に遠征している時期を狙うしかない。武力を持たない朝廷は、織田家中の有力武将で、信長に不満や恨みを持つ者を探し、明智光秀に白羽の矢を立てた。
光秀は、甲斐の武田家討伐の折りに折檻され、家康の接待係を解任され、秀吉の援軍を申し付けられ、尚且つ領地を没収された(新領地は敵国であり、勝利しなければ手に入らない。負ければ失領である)。更に信長は四国討伐(標的は長宗我部元親)を計画した。信長は、長宗我部元親との同盟により、四国を勢力圏にしようとしたが、同盟は決裂した。秀吉は三好康長と懇意であり、光秀家臣の斎藤利三は、長宗我部氏とは縁戚であり(斎藤利三の兄の頼辰が、石谷光政の養子となり、石谷光政の娘が長宗我部元親に嫁す。石谷光政は、元室町幕府奉公衆で光秀の家臣)、長宗我部氏討伐は回避したい立場にあった。(織田家が長宗我部氏との同盟を結ぶ時に明智光秀が取次役であったので、光秀は同盟破棄の回避を考えていたが、信長は四国征伐の準備に入った)
* 石谷光政(いしがいみつまさ)の養子の頼辰(よりとき)は、 斎藤利三の実兄。
即ち、本能寺の変の直前には、光秀や光秀重臣の斎藤利三の面子を潰す事態や、明智家の財政基盤が奪われる危機にあった事も、反信長の公家勢力の要請に応じさせたのではなかろうか。結果としては、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発し信長は自刃、明智光秀が天下を手中にできるかと思われたが、6月13日の山崎の合戦で羽柴秀吉を中核とする織田軍団(織田信孝、丹羽長秀、羽柴秀吉が大将格)に撃破され落ち延びる途中で落ち武者狩りに襲われ落命し、織田政権は消滅の危機を回避した。この後の朝廷と公家衆の行動が、豊臣氏誕生の謎を暗示する。
山崎の合戦で明智軍が撃破された翌日、即ち明智光秀の死亡が確認される前、明智方の勝龍寺城を落として、上鳥羽の塔ノ森へ進軍中の織田信孝と羽柴秀吉は、正親町天皇の勅使の権中納言勧修寺晴豊(はれとよ)、誠仁(さねひと)親王の使者の権中納言広橋兼勝に迎えられ、朝廷より太刀を賜った。朝廷が武家に太刀を下賜するのは、武家の棟梁たる将軍(征夷大将軍)が謀反鎮圧に出陣する時の儀式の折りに行うものであり、この時点で、信孝と秀吉は、追認ではあるが武家の棟梁と朝廷から認められた形である(作家の桐野作人説)。つまり、織田の家督問題はともかく、朝廷はこの二人を織田信長の後継者と認めたのである。信孝は信長の息子で、秀吉と共に明智軍を撃破したから、家督継承問題でも、他の兄弟より優位な立場となる。織田家重臣の支持があれば、自刃した兄信忠に替わり織田家当主・織田政権総帥になる事も可能であった。一方秀吉は、無位無官ながら朝廷より太刀を賜った事で、織田家家臣団の中で頭一つ抜け出し、織田政権の後継者(織田家の家督は関係ない)になる道筋を付けた事になる。二人のうちどちらが得をしたか? これは間違いなく秀吉である。秀吉は何故それを可能にしたか。そこに大きな謎がある。
考えられる事は、秀吉が事の真相(本能寺の変の首謀者)を知っていた可能性しかあり得ない。 そして、事後にその疑惑に気が付いた人物が織田信孝であった。信孝は、吉田神道の総帥吉田兼和(後の吉田兼見)を詰問追求、更に、山崎の合戦直後に出奔した前の関白太政大臣近衛前久に対しても軍勢を派遣して討とうとした。しかし、急転直下信孝の追求は中止される。動いたのは秀吉である。信孝には織田家の家督問題があった。ライバルは、正室の子織田信雄である(信長の正室は濃姫だが、事実上は生駒氏の娘が第二の正室)。通常であれば信忠亡き後は信雄が後継者となるところだが、家臣に人望がなく、今回の本能寺の変では、信長の仇を討つどころか、織田政権のシンボル安土城を守ることも出来なかった。従って、庶子ではあるが明智討伐に加わり信長の仇を討った信孝にも家督相続のチャンスが巡って来た。恐らく朝廷の延臣(近衛ら)を追跡して処断するより、家督問題が優先とでもささやいたのであろう。少なくとも、家督継承の重臣会議では、織田信雄の支持には回らないとでも約束したのではなかろうか。実際、秀吉は清洲会議では信雄には加担しなかった。
秀吉には二つの隠し球があった。一つは養子の羽柴於次丸秀勝であり、今一つは、信長の嫡孫の三法師(後の織田秀信)である。しかし、信孝を柴田勝家が擁立した事で、家督継承のチャンスは潰えた。織田家重臣(方面司令官)の内、関東管領滝川一益は、関東を放棄し逃げ帰った事で会議に出席出来ず、柴田勝家も光秀討伐軍に参加出来なかったが、当時の筆頭重臣として、起死回生の為に会議を招集し、その地位を保つ為に討伐軍に参加した織田信孝を擁立した。会議に出席した丹羽長秀(次席臣)・池田恒興(信長の乳兄弟)・羽柴秀吉の三人は、提携して明智光秀を滅亡に追い込んだ。会議では、予想通り信雄と信孝が家督を要求して対立、柴田勝家が信孝を擁立した。これで信孝の家督継承が有利かと思われたが、秀吉は信長の嫡男信忠の子供、即ち信長の正嫡孫の三法師を織田家の家督継承者に推薦した。柴田勝家は反対だったが、次席の丹羽長秀と池田恒興が秀吉の意見を支持し、織田家の家督は三法師が継承した。これで決まらなければ、家督争いに養子の羽柴秀勝を擁立する腹であった。何故なら、織田信雄は伊勢の北畠氏の養子であり、信孝は神戸氏の養子であった。織田家から他家を継承した二人に家督継承権(請求権)があるなら、秀吉の養子の秀勝にも継承権があるという主張である。実際、秀吉は、信長の百日法会や一周忌の法要には、秀勝を喪主として(実質は秀吉だが・・)主催執行している。
この会議により秀吉は、織田家の家督と織田政権の支配権の分離に成功する。家督は三法師(織田秀信)、政権は四宿老の合議制とし、四人は京都に奉行を置く事に合意した。しかし、実際に奉行を京都に置いたのは秀吉のみである。ここから秀吉は、知略・武力をフル回転して天下取りに向かう。当面織田信雄を籠絡して、三法師の後見人に据え、柴田と連携する滝川一益を破り、信孝の岐阜城を攻め、信雄を利用して信孝を自刃に追い込み、北陸では、柴田軍の佐久間玄蕃の暴走を引き出し、賤ヶ岳で柴田軍を撃破、勝家に譲られた長浜城を、勝家の養子を籠絡して奪回、北陸北ノ庄城を包囲し自刃に追い込む。この間、柴田の与力であった前田利家を自軍に引き入れ、生涯の与力とした。柴田勝家の滅亡で、織田政権は織田家を離れ、羽柴政権に衣替えする。この間、秀吉は、大徳寺での信長百日法会の後、10月3日に従五位下・左近衛少将に叙任す(朝廷より直接叙任)。柴田勝家を滅亡に追い込んだ天正11年(1583)5月には、朝廷は戦勝祝いの勅使を長浜に派遣。6月には信長の一周忌を取り行い、この年に従四位下・参議に叙任。羽柴政権は名実共に朝廷が認める武家政権となる。
翌年(天正12年)、織田信雄は、織田政権再興の為、徳川家康と同盟し秀吉と対立、小牧・長久手で合戦となる。初戦では、秀吉の甥の三好信吉(後の羽柴秀次・豊臣秀次)のミスにより池田恒興らが戦死。その後は膠着状態となり、政治工作により織田信雄と単独講和、その後家康とも講和。11月22日、従三位・権大納言に叙任。この頃家康の次男が秀吉の養子となる(羽柴秀康、後の結城秀康)。こうして羽柴政権は、徳川・毛利とも提携し連合政権として朝廷を擁立する中央政府となる。源氏の血統でない秀吉は将軍として幕府が開設出来ない。そこで秀吉は、天皇の代理人になる事を考えた。秀吉は朝廷の秘密を握り、信長暗殺の首謀者も把握しており、かつての借りを返してもらうことにした。手初めに、天正13年(1585)、正二位・内大臣に叙任された。この上は、右大臣・左大臣・太政大臣・関白である。その資格は摂関家たる藤原嫡流のみが保持している。
過去には、菅原道真が右大臣(追贈太政大臣)、平清盛が太政大臣となっている。直近では、秀吉の主君の織田信長が右大臣となっているが、ほとんど摂関家(五摂家)が独占している。関白に関しては、藤原嫡流の五摂家の独壇場で、鎌倉以降藤原氏でもこの家系以外には例がない。秀吉が関白になるには、藤原氏嫡流になる事と左大臣になることが必要であった。ここで障害となるのが五摂家、とりわけ近衛家である。朝廷は、内大臣の後は右大臣に推挙の予定であったが、信長の前例を凶として左大臣推挙を希望していた。そこで左大臣近衛信輔(近衛前久の息子)は、時の関白二條昭実に関白職の辞任を要求し争いとなる(関白相論)。ここで秀吉は、近衛家に養子にする事を要求した。何故秀吉は、近衛家に養子の申し入れをしたか? 九條家でも二條家でも関白になる資格はある。それは先に記したが、本能寺の変に朝廷がかかわり、とりわけ「近衛家」が重要な役割を担っていたからである。本能寺の変が朝廷(皇室)を守るために仕掛けられたものであるとしても、天皇が明智光秀に信長討伐の宣旨を出す訳にもいかない。そこで暗躍したのが、前の関白近衛前久である。近衛前久は、正親町天皇の皇子の誠仁(さねひと)親王と謀議し、吉田兼和(兼見)を使い、信長謀殺に引き込んだのではなかろうか? だから本能寺の変の後、動静も定まらないうちから、光秀に急接近(表面上も)した。本能寺の変から五日後の6月7日、朝廷は、吉田兼和を使者として派遣、禁裏御所と京の守護を求める命令を伝えている(勅命)。この間に、光秀は織田家の有力武将にも寝返りを工作するが、悉く失敗している。姻族の細川家からも同心を拒絶されている始末。信長の同盟者の徳川家康も取り逃がしている。本能寺の変は、信長の天下を簒奪する目的ではなく、朝廷廃絶の危機の回避の為に光秀を利用して仕掛けられたものであると理解される。従って、秀吉が早々に毛利氏と講和して反転大返しをするなど予想外のことであった。柴田勝家は上杉と対峙して動けず、滝川一益は、関東で孤立、大坂には四国征伐の準備で丹羽長秀が織田信孝(神戸信孝)を擁立して滞在しているが、明智討伐の行動は起こしていない。朝廷を押さえ、近江・丹波と摂津・大和を押さえれば、新たな政権樹立も可能と考えていたのであろう。
朝廷も光秀が織田政権を把握すると思い連携工作を進めたのであろう。しかし、秀吉は毛利との合戦を手じまいとし反転、摂津の武将も取り込み、更には丹羽長秀とも合流し、明智討伐軍の事実上の総大将となる。この間、丹羽長秀も大坂で光秀の女婿の織田信澄(津田信澄)を討ち、織田家重臣の面目は保っていた。結局、光秀は、羽柴秀吉・丹羽長秀・織田信孝・池田恒興を中核とする連合軍に敗れ、二週間も天下を維持することなく滅亡する。秀吉は独自の情報網により、ことの真相を把握し、極秘に朝廷工作も行って居たのであろう。まだ最終結果の出る前から秀吉に急接近し、秀吉の極秘要求を飲んだと思われる。その結果、朝廷よりの太刀の下賜により、織田信孝と同列の地位に昇り、織田家からの独立の足掛かりを作った。秀吉は、織田信長謀殺の仕掛け人を近衛前久と目星を付け、これを追いかけ回した織田信孝を説得して追求を沙汰止みとさせ、犯人達に恩を売った。そして、羽柴政権確立の為に協力させた。第一に朝廷からの直切叙任により、織田家の重臣とは別格の存在とする。次に、秀吉を公卿の地位に引き上げて天皇の直臣とする(拝謁を可能にする)。最後に臣下最高の地位である関白、最高の官職である太政大臣を目指した。武家関白として、公家と武家を支配する。武家の棟梁征夷大将軍に成れない秀吉の最後の目標を成就させた。関白となった秀吉は、摂関家藤原氏と並んで関白となる新たな姓の創始・賜姓を朝廷に要請した。元々庶民階層の出身で、平姓を僭称していた秀吉が、藤原姓になっても、誰からも評価されないことは感じていた。関白となりうる新たな姓を賜れば、堂々と賜姓関白として君臨できると考えたのである。近衛家は家督を奪われる養子は回避して、猶子として秀吉を近衛家に入れ、藤原姓を名乗る形として関白就任の資格を譲った(近衛信輔は左大臣を維持)。又、娘を養女として秀吉に差し出し、この娘は秀吉養女として、後に後陽成天皇に嫁す(後水尾天皇の母となる)。その後、秀吉は豊臣姓を下賜され、豊臣氏第一世・初代となる。羽柴関白豊臣朝臣秀吉の誕生である(豊臣秀吉)。豊臣姓の下賜は、太政大臣就任の時に大々的に宣伝された(結果、豊臣姓は、天正14年の12月に賜姓とするものが多い。実際には、「押小路文書」により、天正13年9月には、豊臣姓が決まっていたことが明らかとなる)。秀吉が太政大臣となる前の天正14年(1586)11月7日、誠仁(さねひと)親王が急死する。病死説もあるが、多門院英俊は、その日記に切腹自害と記している(歴史群像シリーズ)。
秀吉が完全に権力を握った事で、即位の可能性が低くなった親王の気持ちの表れであろうか。これにより本能寺の変は完全な幕引となる。秀吉は親王の六宮(後の八條宮智仁親王)を猶子として豊臣家に加えた。秀吉に実子が誕生しなければ公家豊臣家(関白家)の後継者になった可能性もある(武家豊臣家は、一族からの養子が継承)。その後、鶴松の誕生で、宮は皇室に戻り、宮家を創設する。秀吉はこの宮を支援し、この流れは世襲親王家桂宮家へと繋がる。桂離宮はこの宮に由来する。話は少し前後するが、秀吉が関白となり、豊臣姓の内示も受けた頃(正13年12月)、養子の羽柴秀勝(信長の息子於次丸)が没する。その後は、秀吉の甥の小吉が継承して羽柴秀勝(豊臣秀勝)となる。 於次丸は、秀吉に天下を取らせるために存在した感じで、役目を終えてこの世を去ったという感じがする。
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3. 豊臣氏一門の瓦解
   
天正4年(1576) 石松丸羽柴秀勝没。
天正6年(1578) 於次丸秀勝(信長四男)、 養子となる。
天正10年(1582) 秀吉、 秀家の宇喜多家家督相続を申請。 (秀吉、 直家の依頼により親代わりとなる)
天正12年(1584) 於禰の甥の辰之助養子となる(羽柴秀俊)。
天正13年(1585) 秀吉、 近衛前久の猶子となり(藤原姓)、 関白となる(7月)。 この年、 近衛前久の娘を養女とする。 秀吉、 朝廷に新姓の下賜を要請。 9月に豊臣姓賜姓(押小路文書)。 10月4日、 羽柴秀長(秀吉実弟)従三位・参議となる。 12月10日、 中納言羽柴秀勝(於次丸・二代目秀勝)没。
天正14年(1586) 秀吉の甥の小吉(羽柴秀勝・三代目秀勝)、 秀吉夫妻の養子となる(豊臣秀勝)。 12月16日、 秀吉の養女(近衛娘前子)入内。 12月19日、 太政大臣となり、 豊臣の姓を賜る(正式に豊臣氏創設・豊臣朝臣羽柴秀吉)。 六の宮(八條宮智仁親王)、 秀吉猶子となる。
天正15年(1587) 秀長、 従二位権大納言に叙任(大和大納言)。 秀次、 従三位権中納言に叙任。 宇喜多秀家、 従三位・参議となる(備前宰相)。
天正16年(1588) 1月、 秀長、 甥の秀保を養子とする。 4月、 後陽成天皇が聚楽第に行幸。 諸大名、秀吉の養子の秀俊(後の小早川秀秋)に誓詞提出。 10月、 宇喜多秀家の姉を養女として吉川広家に嫁す。 この年、 北政所、従一位・准三后。 「豊臣吉子」の氏名を賜る。
天正17年(1589) 5月、 淀殿が棄(鶴松)を出産。 同年、 宇喜多秀家(秀吉猶子)、 秀吉養女豪姫と結婚。 同年、 秀俊が小早川景隆の養子に内定。 秀勝丹波亀山領を没収される。 越前5万石に減封。
天正18年(1590) 秀吉、 小田原征伐・奥州仕置き、 天下統一。 秀次、 清洲城主(尾張・伊勢等130万石)。 この年、 八條宮皇室復帰、 3000石提供。
天正19年(1591) 1月22日、 豊臣秀長死去。 2月28日、 千利休切腹。 8月5日、 豊臣鶴松没。 11月、 羽柴秀次、 秀吉の養子となる。 12月4日、 秀次は内大臣宣下。 12月28日、 正二位・関白に叙任(豊臣家二代関白)。
文禄元年(1592) 秀次左大臣兼任(関白左大臣)。 7月、 大政所没。 9月9日、 小吉秀勝、 朝鮮唐島に没す(豊臣秀勝家男系断絶)。
文禄2年(1593) お拾い(豊臣秀頼)誕生。
文禄3年(1594) 11月、 秀俊、 豊臣家離籍、 小早川景隆の養子となる(小早川秀秋)。 この年、 猶子宇喜多秀家、 権中納言となる(備前中納言)。
文禄4年(1595) 4月、 豊臣秀保横死(秀長流豊臣家断絶)。 7月、 秀次、 官位剥奪追放、 切腹(秀次流豊臣家絶家)。
慶長元年(1596) 5月、 拾い、 秀頼に改める(豊臣秀頼)。
 * 関ヶ原合戦直前→豊臣秀頼(実子)、 豪姫(養女)、 宇喜多秀家(秀吉猶子、 準一門)。
 
『豊臣氏一門の瓦解』
 
秀吉は、織田家に於いては新参者であったが、信長の信頼を得て早い段階で城持となる。古参の家臣は当初秀吉を口先だけのゴマすりと見ていたが、金ヶ崎の撤退の時、殿軍を引き受け、信長はじめ織田軍を無事に脱出させたことで、信長の信頼を厚くした。殿軍に失敗していれば秀吉は元より信長と織田軍も壊滅の危機に瀕した。危機を脱した信長は、その後徳川家康と共に姉川合戦に勝利し、朝倉勢力を敗走させ(元亀元年=1570)、横山城に秀吉の部隊を残し浅井氏の監視と土豪の寝返り工作を行わせ、元亀3年(1572)には虎御前山に砦を構築し秀吉を城番とした。天正元年(1573)8月8日、信長は虎御前山砦に入り、浅井・朝倉討伐を開始、木之本付近で朝倉義景軍を敗走させ、越前大野山田庄で自刃に追い込み、戦国大名朝倉家は滅亡する。8月27日、秀吉は小谷城を攻撃し京極丸を落とし、浅井久政と長政を分断、小丸を攻撃して久政を自刃させる。9月1日には、信長軍が本丸を攻撃し、浅井長政は赤尾屋敷で自刃し、戦国大名浅井家も滅亡する。この功績により秀吉は小谷城を与えられ、近江十二萬石の城持大名となる。秀吉は、天正2年頃より今浜に築城を開始し、長浜と改めるが、この長浜城は、天正4年に建築の安土城を、元亀2年に建てられた明智光秀の坂本城と鶴の両翼の様に安土城を守護する形となる。信長が、古参重臣を差し置いて光秀と秀吉を評価している事をうかがい知ることが出来る。長浜城主となった秀吉はこの地に安住していたわけではない。
天正4年(1576)、安土城築城に参加、その後信長の命令で中国計略の為に姫路城に入る。秀吉が姫路城に入った後も、長浜城は羽柴家が保持し、秀吉の養子の於次丸秀勝が、杉原家次や木下家定(於禰の兄)に助けられて湖北を支配した。秀吉には、一門と呼べるような血族がなく(小一郎長秀=後の豊臣秀長のみ)、妻お禰の縁戚の杉原一族や浅野一族が準一門という存在であった。お禰との間に実子のなかった秀吉は、長浜城主となると側室を持ち石松丸秀勝と娘一人をもうけるが夭折、その後、秀吉から申し入れたのか、信長が秀吉に同情したのか、四男の於次丸を秀吉の養子とした(羽柴秀勝)。後は、長屋時代からの付き合いの前田利家の娘を養女にしていただけの小世帯であった。
中国計略の過程で、備前の奸雄と言われた宇喜多直家の子供の八郎を預かり、直家没後には、信長に言上して宇喜多の家督を継承させると共に、自分の猶子(家督継承権を持たない義子)とした。宇喜多秀家は、後に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫と結婚し、羽柴家の準一門となる。天正10年(1582)、信長が本能寺の変で亡くなると、秀吉は天下取りに動き出すが、天正12年(1584)には、木下家定の息子の辰之助(お禰の甥)を養子とした。羽柴秀俊(豊臣秀俊・小早川秀秋)である。同年の小牧・長久手の合戦の講和後、徳川家康の次男於義丸(羽柴秀康・豊臣秀康・結城秀康)が人質養子となる。天正13年(1585)、秀吉が関白に就任し、天下人となった年、秀吉の養子の於次秀勝が役目を終えた様に没した。秀吉は、甥(姉の智子=瑞龍院日秀尼の息子、秀次実弟)の小吉を養子とし秀勝と名乗らせ於次秀勝の名跡を継承させ亀山城主とした。天正14年(1586)、秀吉が太政大臣に就任し、豊臣家が正式に発足した後、誠仁親王の六宮を豊臣家の猶子(家督継承権のない準養子)とした。秀吉は、一時、公家豊臣家の後継者(関白候補)と考えていた様だ(後の八條宮智仁親王)。
天正16年(1588)には、弟の秀長が甥の秀保(秀次・秀勝の実弟)を養子とする。同年、北政所豊臣寧子朝廷より従一位・豊臣吉子の氏名を賜る(秀吉に次ぐ賜姓豊臣氏)。この頃、豊臣家には養女達子(後に豊臣秀勝正室)、宇喜多秀家姉(後に吉川広家室)、羽柴高吉(丹羽長秀の子、豊臣秀長猶子、後に藤堂高虎養子)などもいた。天正17年(1589)5月、淀君が棄(鶴松)を出産。同年、豊臣秀俊が小早川景隆の養子に内定。同年、豊臣秀勝、丹波亀山領を没収、越前五萬石に減封となる。天正18年(1590)、豊臣秀吉天下統一。織田信雄改易。羽柴秀次伊勢・尾張百三十萬石清洲城主となる。この年、六宮皇室復帰(八條宮家創設、智仁親王)。(ここから豊臣一門の瓦解が始まる)天正19年(1591)1月、豊臣秀長没。2月28日、千利休切腹。8月5日、豊臣鶴松没。11月、羽柴秀次、秀吉の養子となる。12月4日、内大臣宣下。12月28日、正二位・関白に叙任(豊臣家二代関白、秀吉、近衛家との内約を反故にする)。文禄元年(1592)、豊臣秀次左大臣兼任(関白左大臣)。7月、大政所没。9月9日、小吉秀勝(豊臣秀勝・岐阜城主)、朝鮮唐島に没す(豊臣秀勝家男系断絶)。文禄2年(1593)、お拾い(豊臣秀頼)誕生。文禄3年(1594)11月、豊臣秀俊、正式に豊臣家離籍、小早川景隆の養子となる(小早川秋)。文禄4年(1595)4月、豊臣秀保横死、羽柴高吉の継承を認めず秀長流豊臣家断絶。7月、秀次官位剥奪追放、切腹(秀次流豊臣家絶家)。慶長3年(1598)6月、小早川秀秋、改易処分(減封)。8月、豊臣秀吉没(豊臣一門事実上瓦解)。
慶長4年(1599)正月、淀殿・秀頼、大坂城本丸に入る。2月、小早川秀秋、家康の計らいで旧領へ復帰する。9月24日、北政所、大坂城を退去、京の三本木屋敷=聚楽城へ移る(京都豊臣家創設)。大坂城西の丸に家康が入る。この間、閏3月3日、大老前田利家没。石田三成襲撃未遂事件。三成、徳川邸に逃げ込み保護される。三成佐和山に蟄居。この頃、三成の娘(振姫)が北政所(京都豊臣家)の養女となる。北政所が大坂城を出た事で、豊臣本家は秀頼流豊臣家と北政所豊臣家(1万6000石)に分裂した。関ヶ原直前の豊臣家に残ったのは、秀頼と秀吉の養女豪姫、そしてその夫で秀吉の猶子の宇喜多秀家のみとなった。
秀吉養子豊臣秀勝正室達子は、秀吉の養女として徳川秀忠に嫁し、家光・忠長・千姫らの母となった(お江与・崇源院)。結局豊臣家に残ったのは家督継承権の無い宇喜多秀家夫婦のみである。養子政策により形成された豊臣一門は、秀頼のライバルとなる豊臣一門の存在を嫌った秀吉の愚行により、廃絶或いは他家転出により消滅した。又、豊臣官僚が、小早川秀秋を豊臣家から除籍した事と、北政所を大坂城から退転させた事で、第二豊臣家たる豊臣姓木下家も豊臣一門から切り離す事になる。その結果、関ヶ原で西軍から小早川秀秋が離反し、石田三成は敗れ、豊臣家は政権の座から転落する事となる。秀吉の最大の失敗は、せっかく養子政策で豊臣家一門を形成したのに、秀頼かわいさで、前後の状況も見極めずに切り捨てた事である。秀次を関白から解任した後に、別の養子に暫定的に関白を継がせるか、秀頼に関白を継がせて、宇喜多秀家や北政所を後見人とし、秀次も殺さず出家させ、息子の一人に継がせ、秀長家も廃絶せずに養子を認めていれば、豊臣一門は瓦解せず政権を維持したかもしれない。さすれば、関ヶ原の合戦が起こっても違った展開になったであろう。徳川家康の方が謀叛人として、逆臣として滅ぼされたかもしれない。
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4. 秀吉没後の豊臣氏
   
第一豊臣家(大坂豊臣家一門) 淀君・秀頼豪姫・宇喜多秀家(秀吉猶子・豪姫夫)
第二豊臣家(京都豊臣家一門) 豊臣吉子・豊臣家定・勝俊・利房・延俊・俊定(木下家)
第三豊臣家(授姓豊臣家一門)
[疑似豊臣家一門]

(「豊臣氏存続」 P.284-285)
豊臣利家・利長・利政(前田家)豊臣秀秋(小早川秀秋)・豊臣輝元・秀元(毛利)・豊臣広家(吉川)・豊臣高次・高知(京極)・豊臣秀忠(徳川)・豊臣秀康(結城)・豊臣忠政(森)・豊臣輝政・長吉(池田)・豊臣景勝(上杉)・豊臣秀信・秀雄(織田)・豊臣秀治(堀)・豊臣忠恒(島津)・豊臣定次(筒井)・豊臣秀一(長谷川)・豊臣貞通(稲葉)・豊臣義光(最上)・豊臣元親(長宗我部)・他。 (秀頼に忠誠を誓った授姓大名) 
* 文禄4年(秀次家廃絶)では30家以上の豊臣氏が存在した。
   
慶長4年(1599)、北政所(豊臣吉子)、大坂城を出て京都三本木に移り、京都豊臣家創設。
 
『秀吉没後の豊臣氏』
 
秀吉没後の豊臣氏は、三つのグループに分類される。
一つは、大坂豊臣家一門である。淀君・秀頼、豪姫(秀吉養女)・宇喜多秀家(豪姫夫)。
一つは、豊臣吉子(賜姓豊臣氏)・豊臣家定(豊臣朝臣木下家)(京都豊臣家一門)。
今一つは、秀吉より豊臣姓を許された疑似一門の豊臣氏である(有力大名や陪臣で豊臣姓を許されたもの)。
第一の豊臣氏は、関ヶ原の合戦と大坂夏の陣の敗北で消滅した(関ヶ原で宇喜多家が敗戦没落、大坂夏の陣で豊臣本家が滅亡)。
第二の豊臣氏は、江戸時代も大名・旗本として存続、幕府も豊臣姓を認めていた。
第三の豊臣氏は、家康が覇権を握り幕府を開設すると順次公称を停止し旧姓に復した。但し、授姓した当人は極秘に私称したり、子孫に内伝した例もある。津軽藩士の杉山家は、石田三成の子孫と云われ、郷土史家によれば墓に豊臣と刻まれているという。結局、豊臣氏(豊臣朝臣)は、大坂夏の陣以降も存続したのである。但し公認されているのは、豊臣朝臣木下家(豊後日出藩・豊後立石領主家、備中足守藩・旗本近江木下家)のみである。豊臣氏が滅亡したと云うのは誤解で、実際に滅亡したのは豊臣朝臣羽柴家(大坂豊臣氏)である。但し本当に滅亡したかというと疑問な点もある。大坂夏の陣で自刃したはずの豊臣秀頼の遺体が確認されていないのである。又、秀頼九州逃亡説、豊臣国松九州逃亡説(豊後日出藩木下家一子相伝)も流布されており、その可能性を否定しきれないという事も、そう思わせる一因である。(真田伝説も絡む)
豊後日出藩主家の末裔によれば、日出藩家の分家立石領主木下家(羽柴家)の初代延次(延由)は、豊臣秀頼の庶子の国松丸(豊臣秀勝)であるという。木下家では、脱出した秀頼を木下出雲守宗連という人物に書き換え、国松は、日出藩主二代目木下俊治の弟縫殿助延次と書き換えたと云う。それが事実なら、豊臣氏嫡流男系も江戸時代に存続した事になる。どちらにしても豊臣氏は江戸時代も存続したのである。何故なら、木下延次(延由)が秀吉の直系であろうがなかろうが、豊臣朝臣(豊臣氏)である事には変わりが無いからである。
● 豊臣家は無かった(豊臣家は存在せず)。
〇  織田家→平朝臣(平氏)(織田信長一門)
〇 徳川家→源朝臣(源氏)(徳川家康子孫)
〇  足利家→源朝臣(源氏)
〇 前田家→菅原朝臣(菅原氏)(前田利家一門)
〇 近衛家→藤原朝臣(藤原氏)
〇 真田家→滋野朝臣(滋野氏)(真田昌幸一門)
〇 杉原家→平朝臣(平氏)(杉原家次一門)
〇 木下家→豊臣朝臣(豊臣氏)(木下家定流)
◎ 羽柴家→豊臣朝臣(豊臣氏)(秀吉一門)(旧姓→藤原朝臣、旧々姓→平朝臣)
● 賜姓豊臣氏→豊臣秀吉、豊臣吉子  ※ 豊臣は本姓であって家名ではない。
織田右大臣平朝臣信長→織田信長
羽柴内大臣平朝臣秀吉→羽柴秀吉
羽柴関白藤原朝臣秀吉→羽柴秀吉
羽柴関白太政大臣豊臣朝臣秀吉→豊臣秀吉   本姓豊臣・家名羽柴→豊臣秀吉(羽柴秀吉)
徳川内大臣源朝臣家康→徳川家康
三英傑→織田家(平氏)・羽柴家(豊臣氏)・徳川家(源氏)
 
豊臣氏は大坂夏の陣で滅亡したか?
豊臣氏は大阪夏の陣で滅亡せず。
滅亡したのは大坂豊臣朝臣羽柴家(豊臣氏)。
京都豊臣氏(高台院流豊臣氏)と豊臣朝臣木下家(杉原流豊臣氏)は存続(第二豊臣氏)。
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5. 豊臣家は無かった(豊臣家は存在せず)。
豊臣朝臣(豊臣氏)は存在したが、豊臣家は存在せず。(豊臣は本姓であり、苗字はない)
織田家=平姓(平氏)(実際は忌部氏)
徳川家=源姓(源氏)(実際は、三河加茂氏或いは三河在原氏)
前田家=菅原氏(実際は出自不詳)
島津家=源姓(源氏)(実際は惟宗氏)
毛利家=大江姓(土師氏系大江氏=大江朝臣)
上杉家=藤原姓(藤原氏=藤原朝臣)
 
豊臣家は無かった(豊臣家は存在せず)。
 
豊臣というのは、家名ではなく本姓である(豊臣朝臣=豊臣氏)。家名は羽柴家である。秀吉が木下から羽柴に家名を改めたが、それ以降の家名の変更はない。本姓は当初は不詳。その後、北政所の実家や、信長の本姓(当時信長は平姓)の平姓(平朝臣)を称し、その後藤原姓に改め(羽柴内大臣平朝臣秀吉→羽柴内大臣藤原朝臣秀吉)、関白に就任し、朝廷に新姓を要請し、豊臣姓を下賜され、太政大臣に就任(羽柴太政大臣豊臣朝臣秀吉=豊臣秀吉)。豊臣賜姓は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と豊臣寧子(豊臣吉子)のみで、他は、秀吉より羽柴授姓に連動する形で許されたものである。北政所の兄家定は、当初平姓杉原を称していた(杉原家定)が、木下家名を与えられ(木下家定)、その後、羽柴家名を許され、豊臣姓を許された。家定は、北政所が豊臣姓を下賜されたことにより、北政所一門豊臣氏にもなった(杉原流豊臣氏・家名は木下=豊臣氏第二グループ。木下肥後守豊臣朝臣家定=豊臣家定)。秀吉の姉やその子、秀吉の弟、秀吉の養子は、家名は羽柴、本姓は豊臣朝臣(豊臣氏)を公称する事を許された。他家に転じた者は、有力大名・陪臣の様に授姓された者は、豊臣姓を公称した。豊臣氏の養子でも、羽柴家名は許されたが豊臣姓を許されない者もあった(羽柴高吉=藤堂高吉)。小早川秀秋は、当初秀吉養子で羽柴秀俊(豊臣秀俊)、小早川隆景の養子となり小早川秀秋、養父の小早川隆景は、羽柴授姓により豊臣氏となり、秀秋も豊臣氏を公称する(第三の豊臣グループに編入)。
関ヶ原の合戦以降に残ったのは、羽柴摂津守豊臣朝臣秀頼(豊臣秀頼)、北政所豊臣吉子、木下肥後守豊臣朝臣家定一門のみである。疑似一門豊臣氏(第三グループ)で生き残った家は、その後、暫時豊臣公称を停止し、旧姓・旧家名に復帰し、大坂豊臣氏と北政所一門を除き、豊臣姓は消滅する(ただ当代は密かに私称したケースもあるらしい)。残ったのは羽柴家と木下家のみである。豊臣家というのは、羽柴秀吉が賜姓豊臣氏第一世であり、豊臣氏の始祖である事で混同錯覚されたものである。家名は、藤原氏の例でも明らかだが、子孫の広がりにより区別の必要から発生し、同様の事は武家の名字(苗字)にも言える事である。そういう点から厳密に言うと豊臣氏は存在したが豊臣家は無かったという事になる。それらを包括した視点で眺めれば、豊臣氏は、大坂夏の陣で滅亡せず存続したと言えるのである。
大坂夏の陣で滅亡したのは、大坂豊臣氏(豊臣氏総本家)であって、京都豊臣氏(高台院流豊臣氏:摂津など一萬六千石)、備中足守藩豊臣氏(木下家)、豊後日出藩豊臣氏(木下家)は存続した。後に、高台院豊臣氏は、養子を迎えるが、高台院没後一萬六千石は没収され、備中足守藩別家近江豊臣氏(木下家:旗本三千石)となる。豊後日出藩豊臣氏(木下家:三萬石)からは、陪臣旗本立石領主豊臣氏(木下家後に羽柴家:五千石)が分封(後に幕府の正式承認で旗本扱い)、立石羽柴家は大正五年に断絶する。
豊臣氏は、江戸時代を生き抜き明治に至るが、明治になって戸籍制度の導入により、姓氏と家名、通称と諱(実名)の一本化が決定されると、豊臣氏は家名の木下を公称家名(氏)とした。現在公文書では豊臣氏は存在せず。現在、羽柴とか豊臣とか称する家は、秀吉並びに高台院とは無関係の自称豊臣家である。
秀吉が豊臣氏の始祖となってから、豊臣氏が木下家になるまで、安土桃山時代から、明治時代初期まで、我が国には、豊臣氏は存在しても、豊臣家は存在しなかった。そして、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した事実もない。滅亡したのは豊臣氏総本家(大坂豊臣氏)である。更に、豊臣氏の女系を考えた場合には、豊臣秀勝(小吉・秀吉養子・甥)と豊臣秀次(秀吉養子・甥)の血脈が存続しており、秀勝の家系は、九條家・二條家の摂関家を通じ、皇室・本願寺大谷家・安芸広島藩浅野家などにも繋がっている事が櫻井成廣氏の研究で明らかになっている。又、秀次の女系は、亀田藩主岩城家や、仙台真田家(一時三好を称す)に繋がっている事も、櫻井氏の研究や小西幸雄氏の『仙台真田代々記』により明らかとなっている。公式に豊臣氏最後の女性とされる豊臣完子は、千姫や徳川家光と異父姉弟となる。関ヶ原の敗北と大坂夏の陣による敗北で、天下人たる豊臣氏は滅亡し、歴史の表舞台からは姿を消したが、豊臣氏そのものは存在し、ある意味で豊臣氏のシンボルとなる大政所のDNAは、現代にも存続しているし、豊臣氏も公式氏名は変更されたが、その系譜は現在に至っているのである。いずれにしても、豊臣秀吉・豊臣吉子・豊臣家定を第一世・初代とする豊臣氏の系譜は、第一豊臣氏(秀吉系)は血統を、第二豊臣氏(豊臣吉子・家定)においては家系を二十一世紀まで伝えている。今回のタイトルは『豊臣氏存続−秀吉の出自と秀吉没後の豊臣氏』であるが、ここまでの概論により、秀吉の出自、豊臣氏誕生の謎、秀吉没後の豊臣氏についてご理解いただけたのではないでしょうか? 豊臣の時代から既に四百年。豊臣氏は大坂夏の陣以降も存続し、そして豊臣家は無かったというのが今回のお話しの主題であります。

日本家系図学会理事 早瀬晴夫(扶桑家系研究所)
(2007.2.11)   
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豊臣氏世代一覧(豊臣氏三代)
第一世代      
羽柴流豊臣氏(第一豊臣家) 高台所院流豊臣家 木下流豊臣氏(第二豊臣家)
          (1) 豊臣秀吉 (1) 豊臣吉子 豊臣家定
(羽柴秀吉) (羽柴寧子) (木下家定)
豊臣秀長    
(羽柴秀長)    
第二世代    
         豊臣秀次 (2)[1] 豊臣利次 豊臣勝俊
(羽柴秀次) (木下利次) (木下勝俊)
          (2) 豊臣秀頼 (3) 豊臣辰子 豊臣利房
(羽柴秀頼) (大館御前) (木下利房)
豊臣鶴松   豊臣延俊
(羽柴鶴松)   (木下延俊)
羽柴秀勝   豊臣俊定
豊臣秀勝   (杉原俊定)
(羽柴秀勝)   豊臣秀俊
豊臣秀俊   (木下辰之助)
(小早川秀秋)   (小早川秀秋)
豊臣秀康   豊臣出雲守
(結城秀康)   (木下宗連)
豊臣秀保   紹叔西堂
(羽柴秀保)    
羽柴高吉    
(藤堂高吉)    
第三世代    
          (3) 豊臣国松 豊臣利稙 豊臣利當
(豊臣秀勝) (木下利稙) (木下利當)
(羽柴秀勝) 豊臣利紀 豊臣俊治
(木下延由) (木下利紀) (木下俊治)
天秀尼   豊臣延次
豊臣完子   (木下延由)
  豊臣仙千代丸[2]    
豊臣氏は、そのルーツが定かでなく、豊臣氏誕生の課程にも謎がある。姓氏家系に詳しくない人々にとっては、豊臣氏は大坂夏の陣で滅んだと思われている。しかし、大坂で滅亡したのは羽柴家流豊臣氏(俗に豊臣家と呼ばれている)のみである。他の豊臣氏は生き延びている。又、豊臣氏の女系となれば、中には皇室に至る家系もある。大坂で滅亡というのは、秀吉=豊臣家というイメージが強いからである。秀吉流の豊臣氏は、大坂城で秀頼が自刃、その子供の国松も捕縛されて処刑されたとされている。しかし、大坂で秀頼が死亡したという点については、当時でも疑問視する人もいたようで、九州へ生き延びたという伝説もある。大坂で秀頼と共に自刃したとされる真田大助にも生存伝説があり確かなことは分からない。どちらにしても関白就任の資格を持つ賜姓豊臣氏が歴史の表舞台から引きずりおろされたのは間違いない。しかし、高台院の一門豊臣氏(木下家)は、大名・旗本として存続したのである。豊臣氏は未だ滅びず。これが歴史の真実である。
(2007.2.11) 
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『大豊臣氏系図』
 
大豊臣氏系図
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
(2007.2.14)
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『大豊臣氏系図2』
 
大豊臣氏系図2
 
※ 掲載系図の複製・転用を禁ず。
豊臣氏は、本能寺の変で織田政権が崩壊した後、信長の寵臣であった羽柴秀吉が、明智光秀を討伐し、織田家旧臣による暫定織田政権の事実上の盟主となった事により、天下取りの道筋が開け、朝廷とも提携する事で、旧織田政権重臣連合の盟主から一頭抜きんでた存在となり、内大臣から、近衛家の猶子となり、関白に上り詰めた。この間、毛利氏や上杉氏とも提携して、天下統一に向かい、小牧・長久手の合戦の後は、政治力で徳川家康を取り込むことに成功し、豊臣・徳川・毛利による連合政権を構築、ここに上杉も加え、中国・畿内・東海・甲信越までを直接・間接に支配下とする。その後は、四国・九州を勢力下に納め、関東の北條氏を下し、奥州仕置きを完了し、全国政権を樹立した。この間、関白就任後は、新姓を要請し、朝廷より豊臣姓を賜り、五摂家に次ぐ関白家(藤原氏に次ぐ)として、豊臣氏が創始され、豊臣氏第一世当主となった。当サイトでは、秀吉流以外の豊臣氏と秀吉流豊臣氏の関係系譜を紹介した(大豊臣氏系図、大豊臣氏系図2)。これで、豊臣氏の概要については、ほぼ紹介した形となる。当面はこれで一区切りとする。興味がある方は、『織豊興亡史』、『豊臣氏存続』を読んでください。※ 『豊臣氏存続』は、扶桑家系研究所でも販売しています(本の購入参照)
(2007.2.27)
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